姞奭の一計

「いい加減、お一人で日の落ちたあとに歩かれるのは、おやめになられた方がよろしい」

 天化は、傍らで鳴る騒音に眉をひそめ、歩いている。

「どこまで付いてくるつもりだ」

「お屋敷の、門前まで。そののち、兵のもとに戻ります」

「将たる者、つねに兵とあるべし、か。姞奭」

「はい。将軍である天化さまが一人でふらふらお帰りになることさえなければ、私は片時も離れず兵と過ごすことができましょう」

「減らず口を」

 日没後、原則として民は出歩くことを禁じられている。禁じられていても、いないというわけではない。しかも、このような情勢であるから何があるか分からない。姞奭は、天化の身に万一のことがあってはならないと、気を揉んでいるらしい。


 そこへ、前方から、足音が近付いてきた。姞奭は槍の鞘を払い、低く構えながら天化の前に出た。

「待て。もう、日が落ちている。どこへ向かう」

 星明かりだから、男の容貌は詳細には分からない。ただ、酔っているような足取りである。剣などを備えている様子もない。豊邑の中で暮らす民だろう。

「家路を急ぐか」

「ええ。仲間の娘の婚儀がありまして。馴染みの仲間たちと過ごすうち、すっかり日が落ちてしまいました」

「そうか。怪我をしているようだが」

男の額から目にかけて、青く腫れ上がっている。

「はい。それが、ちょっと仲間と諍いになりまして。いや、子供の頃から、ずっとこうです。大したことじゃありません」

「羽目を外したというわけか。まあいい。次にお前の顔を日が落ちてから見ることがあれば、捕える」

「ご容赦、ありがとうございます。気をつけます」

 警察と軍との役割の境は曖昧である。だから、軍人は夜道をゆく人を見ればこのように誰何すいかしなければならない。たいていは、簡単な質問程度で解放するから、姞奭も普段のとおりにした。


 男は緊張していた。抜き身の槍を構えた軍人の誰何を受けたのだから、無理はない。できるだけしっかりと受け答えをしようと努めているのが目に見えて、逆に天化も特に何も思わなかった。その証拠に、姞奭から解放された途端、また男の足取りは怪しくなり、天化の方によろめいてきた。

「武人どの。申し訳ありません。どうか、お許しください」

 あわやぶつかるところで天化が身を開いたので、男は二、三歩つんのめって停止し、慌てて謝罪した。

「べつに、構わん」

 天化はもう男から興味をなくし、また星明かりを踏みはじめた。


 少しして。

 天化が立ち止まって胸に手を当て、声を上げた。

「——ない」

「は?」

 姞奭が見ると、天化の手はいつも胸に提げている青い石の飾りのことのようだった。

「先程の男か」

「物盗りの類でしたか」

 姞奭が身体を回し、男の去った方へ戻ろうとする。

「いや、よい」

 天化が静かにそれを止めたので、姞奭は意外に思った。どういういわれがあるか知らぬが、あれはいつも肌身離さず身に付けているもののはずである。色の珍しさからして、安価なものではないはずだ。

「しかし」

「奪われたということは、俺にそれだけの気抜かりがあったのだ。ほんとうに奪われたくないと心から思っておれば、奪われることはなかった」

 そうではなく、武人として盗人を放っておくわけにはいかないのだ、と姞奭は思ったが、天化からやけに多く滲み出ている諦めのような色に戸惑う気持ちの方が強かった。

「次にあの男を見れば、石を返せと言おう。そのうえで、棒で打つなり手を切り落とすなり、刑を与えるならば与えればよかろう」

「よろしいのですか」

「良いも何も、ない」

 すたすたと歩みを再開する天化に続きかけた姞奭だったが、思い直して、御免と断りを入れて駆け戻った。


 星明かりの闇の向こうへ風のように走る姞奭だったが、耳を切る風の音の中に人の話し声がした気がしてその足を止めた。

「——これで、あのお方は必ず追って来られる」

「お、俺は、もういいのか」

「いいえ。駄目です」

 神経を研ぎ澄まして聞き耳を立てると。声のひとつは、先程の男のもののようだった。もうひとつは、女。それも、相当に若い。姞奭は気配を殺し、道脇に身を潜めながら近付いた。

「——来た」

 女の声の方が、ちいさくそう言った。気付かれたか、と思って身構えたが、完全に気配を殺していたはずなのに何故気取られたのかは分からない。

「その石を、返してもらう」

 気配を隠す必要がなくなったから、道に躍り出て、大声でそう呼ばわった。槍をまた構え、男の方に向ける。

「盗人であったとは。もっと、よく調べるべきであった」

 現行犯でかつ抵抗を示すなら、その場で殺すこともやむを得ない。この男女も、その慣例は知っているはずである。

「こら、娘。話が違う」

 男が、剣を抜いた。意外だった。しかし、その構えを見て、それが尋常ではない遣い手であることが分かった。だが、どこか妙である。手足はなんともないくせに、身体の芯の方が壊れているように思えた。ちょうど、酒に酔っているときのように。なにか、命にかかわるほどの傷を、深いところに負っている。そう思えた。さきほど酔っ払いだと思ったのは、このためか、と知った。だが、それほどの傷を負いながら、なぜふつうに話したり駆けたりすることができるのかは、分からない。

 ぞっとするような殺気。殺しを知っている。姞奭は、肌に粟を生じた。槍を十年も磨いてきたが、実際にそれを人に向けて振るったことは、まだないのだ。


 やられる。十年の勘が、危急を告げた。同時に、風にも穴が空くほどの凄まじい突きを繰り出していた。

 喝、とかねが鳴り、天にあるのと違う星が目の前で瞬いた。

 槍が、動かない。あとほんの一押しで、男の胸板を貫ける。しかし、動かない。

 男ではない。若い女の方が、槍を止めていた。その小さな手には、草木を払う程度の役割しかなさそうな短剣が握られているだけである。どういう工夫があるのか、押しても引いても槍はくうに根でも生えたかのように動かない。

「お許しください。この者は、わたしに言われて石を盗んだだけなのです」

「お前が?」

 飾り物を欲するには、若すぎる。物盗りを企てるには、物腰がしっかりとしている。姞奭はなにか事情があるものと見て、槍に込めた力を緩めた。

 するりと、縺れがほどけるように娘の短剣が引っ込み、槍は自由になった。どういう力の使い方なのか、と思ったが、口にすることはない。


「姞奭さま。どうか、お許しください」

「なぜ、俺の名を」

「わたしは、黄天化さまの従者です。いいえ、従者であらんと願う者です」

「それがなぜ、天化さまの石を盗むような真似をするのだ」

「この石が、あの方にとって、とても大切なものだからです」

 だったらなおさら、従者がそれを盗むのはおかしい。

「盗まれたこの石を、わたしが取り返した。その功のため従者にしていただく。そういうお願いをするつもりでありました」

 自作自演というわけである。

「しかし、天化さまではなく、姞奭さまがここにいらした。きっと、わたしの浅はかな考えをお叱りになるため、天帝さまがそう仕向けられたのでしょう」

 天帝とは当時、中華を作ったと信じられていた神であり、その血孫が夏や商を開いたのだと、この当時は誰もが信じていた。


「この男は、剣を抜いた。俺の槍を、お前が受けると言うのだな、娘」

「ええ、そうなりましょう」

 姞奭は、迷った。天化自身が拒んでいるとはいえ、この娘は従者だと言う。おそらく、自分に付けられた者を、いらぬ、として勝手に拒んでいるのだろうと想像がつく。そうであるなら、この娘を殺す権利がほんとうに自分にあるのかと考えた。

「お前、そうまでして、天化さまに認めてもらいたかったのか」

「はい。わたしが為すべき、唯一のことです」

「あのお方にも、困ったものだ——」

 姞奭は槍の石突を地に立て、屈んで払い捨てた鞘を拾った。

「従えよと言われても要らぬと言うあの方。要らぬと言われても従おうとするお前。どちらも、似た者同士というわけだ」

 姞奭は、くすくすと笑いを立てた。

「なるほどな、これは、もしかしたら薬になるかもしれん」

 きょとんとして顔を見合わせる男と娘に向かって、姞奭は意地悪っぽく片眉を上げた。

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