白い月
「黄将軍。大変でございます」
姞奭は大声で叫びながら、天化の屋敷の門を叩いた。しばらくすると、天化が不機嫌そうに出てきた。剣こそ置いているが、もちろんまだ軍装のままである。
「石のことは、もういいと言ったはずだ」
「いえ、石のことではありません」
姞奭は寒夜に湯気を立ち上らせ、息を切らせている。
「黄将軍のご従者なる娘が、捕らえられました」
そう聞いて、天化にはすぐにあの小栗鼠のような娘のことが思い浮かんだ。
「石を盗んだ者を追い、かえって縛められてしまったようです。健気にも、黄将軍のたいせつな石を返せ、と縛めを受けてなお叫んでおりました」
「そうか」
天化は、ふいと背を向けて屋内に向かってしまった。
「お待ちください、黄将軍。盗人は、娘を返してほしくば、将軍自ら来いと言っています。私が一歩でも近づこうとすれば、ただちに娘の首を刎ねると」
天化は答えず、屋内に影を溶かしてしまった。
「あの健気な娘を、放っておくつもりか。それでも、男か。それでも、人か」
姞奭の声が、高くなる。
想定外だった。娘は一計を案じ、天化の気を惹こうとあの男を使って石を盗ませた。それにさらに計を重ね、その手伝いをしようと考えた。娘のことをいじらしいと思ったし、天化のためにも従者は必要だと考えた。姞奭から見て、天化の心は凍ってしまっていた。少しでも、人らしくあってほしいと、なぜか願っていた。その役に立つと思い立った。
しかし、ここまで冷たいとは。
自分が大尉に任じられた日以後、少しずつ打ち解けているように思っていたが、やはり、将として戴くに値せぬのかと肩を落とすしかないのか。
しかし、天化が姞奭の前から姿を消していたのは、ほんの僅かな間だけであった。
「案内しろ」
それだけ言い、歩きはじめた。剣を、佩いていた。
はっ、と姞奭は夜に似合わぬ声を立て、駆け足になった。
男らが待つ場に至る。娘は、路傍の木に縛り付けられていた。そのようにせよと、姞奭が指示したのだ。
「——天化さま」
来ぬかもしれぬと不安になっていたのだろう、珠のこぼれるような声で呟いた。
「来たな、黄天化」
男は剣を擬し、凄味をきかせた。
「——西の者か」
ほかにも西の者を知っているのだろう、すぐに天化はその出自を特定した。
「西には、武器を生み出し、かつて我らにその造り方をもたらした者どもがいるという。我が祖、黄帝のころには、なんども中華に戦いを仕掛けてきたとか」
姞奭も、黄帝の伝説くらいは知っている。それは
現代的に考察するならば、彼らは鉄の冠を一様に身に付け、麦などの代わりに砂鉄を食うという説話があるが、武器というものをこの世に生んだという伝承と併せておそらく、中華に冶金技術をもたらしたシルクロード沿いのいずれかの民族を指すのだろう。姓は姜とされているから、古来から平地に野望のあったであろう西方の民族か、あるいは西という方角で一括りにされた別の民族と姜族とを混同したかであろう。
姞奭ももちろん、砂鉄を食う連中がいて黄帝がそれを誅滅した、という話が実話であるとは思っていない(そもそもこの時代に製鉄の技術はまだない)。子供の頃、親からそういう話を聞かされた、というだけである。しかし、天化はかつて商の中枢と言っていい場所にいた。蚩尤というものについて、説話とは違う知識を持っている。
「聞太師が、おそらく貴様らと接触を試みていた形跡がある。俺の知る限りでは、そうだった」
男は、答えない。
「——どうやら、図星らしいな。商いをして西へ東へと旅をする者達ということだが、かつて中華に抱いた待望が砕けて以来、そうして人の世の暗いところを渡り歩いているのだな」
天化は、なにか、彼らの民族について思うところがあるらしい。
「俺をここに
星明かりがまるで苦いものであるかのように、うっすら笑った。
男の気が、変わった。それまで浮かべていた、凄味のありながら怯えが滲んでいるような様子が、全く消えた。
「——あの男も、相当に出来るようだった。お前たちは、皆、そうか」
「この地に武器と殺しの技をもたらしたのは、我らだ。戦だ何だと喚くだけのお前達の児戯と、同じと思うな」
姞奭は、槍を構えようとした。先ほどはそれができたのに、今、どうしても足が動かない。槍に少しでも気を込めれば、男の腕が蛇のようにここまで伸びてきて、槍ごと両断されるように思えてしまうのだ。
「この小娘がお前の従者と知り、恐れて従うふりをして使い、逆にお前を誘き出そうと考えたが、どうやら図に当たったらしい」
「なるほど。はじめから、俺が狙いか」
「お前だけではないさ——」
「よく喋るな。あの男もそうであったが、蚩尤とは皆そうなのか」
「いや。お前はかならず死ぬのだ。何を話したとて、どうということもない」
「ならば、来い」
言い終わらぬうちに、男が消えた。星明かりの闇に、全く溶けて消えた。瞬き一つほどの後、天化の鼻先を横薙ぎの突風が襲う。
「ほう——この一刀をかわすとは」
「面倒な奴だ。さっさと、踏み込んで来い。でなければ、届かぬ」
また、男が消えた。消えたのではないと、二度目にしてやっと姞奭にも分かった。跳躍しているのだ。それも、信じられぬほど高く。それで、まるで鳳が翼を広げて降りるように鋭く天化を襲う。
ふたつの身体が、がっちりと重なり合った。天化は、剣を紐で縛めたままである。間違いなく、斬られた。この足が動きさえすれば、何としてでもこの男をここで殺さねばならない。動きさえすれば、ではない。動かさねばならない。
そのようなことを思っているうち、男の身体がどさりと崩れた。
剣を受ける刹那、天化の拳が男の腹を打っていた。この男も尋常ではない使い手であるはずだが、天化のこの技の冴えはどうか。以前に自分と立ち合ったときは、実力の半分どころか十のうちの一つも出していなかったのだと知った。
「さて。この男を、どうする」
構えを解いた天化が言葉を発したから、当然に自分に向かって言ったのだと思い、応えようとした。しかし、それより先に、娘の縛られている木から人影が降りた。その存在に、姞奭は全く気付いていなかった。
「黄尾の者だな」
「はい、黄将軍」
「名は」
「李靖さまは、私を白、とお呼びになります」
「この男は、お前が追っていた。そうだな」
「そのとおりです」
「なぜ、今まで姿を隠していた」
「この娘を、殺すかどうか見定めていました」
白の表情は、姞奭の位置からでは読み取れない。
「なぜ、殺す」
「黄将軍を欺き、不敬であるからです」
白が、そこですべてを話した。
「この娘は、わたしの妹です。まだ、ほんとうの戦いを知りません。だから、この者の力を見誤りました。私は、この娘に従っているふりをしているこの男の隙を窺っていました」
「お前の妹なら、なぜ殺す」
ふたりとも、物言いは端的である。ごみでも放り捨てるような調子で、言葉を置いてゆく。
「殺しの技しか知らぬより、ほかのさまざまなことを知る方がよい。李靖さまはそうお考えになり、この娘に黄尾の者として生きてゆくことを禁じられたのだと思います」
しかし、それでもなお、殺しの技を使うことをためらわず、むしろ無邪気に自分の目的のために利用した。従者でありながら主を欺くような真似もした。果たして、これを生かしておくべきかどうか。
「聞いたことに、答えていないようだが」
天化は、ぶっきらぼうに続けた。
「——妹だから、です」
「そうか、白とやら。では、お前にはこの男をくれてやる。好きにするがいい」
「はっ」
白の首が、少し上がった。萌の様子を伺っているらしい。
「お前の妹については、お前が何かをすることは許さん」
「なぜでしょうか」
「お前の、妹なのだろう。死を望むことなどない」
木の方に歩み寄りながら、腰の剣の柄と鞘を繋いでいる紐を、ほどいてゆく。
萌は、すっかりうなだれていた。今、白が天化に述べたことが、全てなのだ。
自分は、人としてしてはならないことをしたらしい。その善し悪しすら、分からぬような人であるらしい。やはり、この天地の狭間にあるだけ厄介なものでしかないのだ。それならば、今、天化の怒りの剣を受けて死んでしまえるのが、むしろ幸いではないか。
「黄将軍。お待ちください。全て、私が悪いのです」
姞奭が駆け寄るが、天化は紐をほどき終わり、ついに剣を抜いた。
一瞬、天の星が宿っているように見えたが、夜に浮かぶそれは何年も抜いていないうちに滲んだ錆だった。
萌のそばに、天化が屈み込む。萌は、びくりと身体を強張らせた。
「動くな」
天化はしずかに剣先を縄と萌の身体の隙間に差し入れ、縄を断ち切った。
ぽかんとして見上げる萌に、剣を納めながら背中で言った。
「今後、このようなことを、禁ずる」
「なぜ、わたしをお斬りにならないのです。わたしは、天化さまの大切な石を盗み、さらに騙したのです」
「石など、どうでもいいさ」
白が男の身体を改めて見つけた石を差し出してくる。それを受け取り、萌に無造作に手渡す。
「このとおり、くれてやる」
すたすたと歩きだす天化をしばらく見ていたが、弾かれたように立ち、声を高くした。
「お供いたします!」
道中、おずおずと姞奭が言い出した。
「このたびのこと、誠に申し訳ありませんでした。大尉の身でありながら、将軍を欺くなど。この責は、我が首をもってしてでも償うつもりです」
天化は、鼻を一つ鳴らす。
「今のお前の首などに、なにかを贖うほどの値打ちがあるものか」
姞奭は少し立ち止まって考えたが、やがて顔を上げ、困ったように笑って二人を追いかけた。
少し、闇が明るい。今さら、白い月が昇りはじめていた。
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