「そうか、萌は、思った以上によく働いてくれたな」

「いえ、やはり、子供なのです。あやうく、取り返しのつかないことになるところでした」

「しかし、おかけで蚩尤の一人を捕らえることができ、天化は萌を従者として受け入れ、自ら軍の指揮を取るようになった」

「あの姞奭という大尉が、かなり優秀です」

 剣の手入れはない。先日も、手入れをしたばかりなのだ。結局呂尚の両腰にある打神剣が人の血を吸ったのは、周に来て間もない頃に商の使いの役人を誅殺した一度きりだった。

 それでも、李靖の鍛冶屋には足繁く通う。もはや、習慣でもある。同時に、それくらい、このところの呂尚は、はかりごとばかりだった。

 今、呂尚の視線の先には、彼のものではない長剣が輝いている。

「よい剣に仕上がったものだ」

「はい。きっと、前のものよりもよく手に馴染むはずです」

「あの頑固者が素直にそう言うとは思えんがな」

 それでも、感じるはずである。言葉にして与えてもらえずとも、それだけでいい。李靖とは、そういう男である。


「萌は、このまま天化のもとに付けておかれますか」

「そうだな。従者を選ぶのは、本来、将軍自身がすべきことだからな」

「はじめ思ったような形とは少し異なりましたが、期待したよりも早く、天化の心を動かすことができました」

「女としては、まだ若すぎるだろう」

 作業をする李靖の手が、止まった。

「もしや、はじめから、萌を妻にさせ、人らしく過ごすうちに胸にある澱みを消し去らせよう、とは考えずに?」

「そうだな。あの娘もまた、頑固者だ。似た者同士が顔を合わせれば、あるいは、と思ったまでさ」

「呂尚どのの考えの深さは、やはり恐ろしい」

「そうでもない、あの娘は、何が何でも天化のそばにいようとするだろう。天化も、そのうち、かならず情が移るようになる。そう、なんとなく思ったのだ」

 呂尚の目論見は、やはり見事に当たっていた。萌が婚姻のできる年齢になるには、まだ二、三年を要する。それほど気長に天化の変心を待っていられるほど、呑気ではないのだ。


「白が蚩尤を追い、たまたま萌がそこに居合わせた。後先も考えずに一計を案じ、さらに姞奭までそれに乗った。そこまで見通しておられたのですか」

「まさか。そのように細かいこと、おれに分かるはずがなかろう」

「しかし」

「おれは、天化という人間を知っている。萌という人間も知った。そのうち、何かしらの形で、そうなるのではないかと思っただけだ」

 李靖は喉を鳴らして呂尚への感心を示したが、呂尚は李靖の手元にある剣にぼうっと目を落としているだけである。


「蚩尤のことだが」

「申公豹とのかかわりがないことを、確かめています」

 呂尚の眼が上がったとき、話題は、捕らえた蚩尤のことになった。申公豹も、西から来た。中華に武器をもたらした民族という話に頷かざるを得ないほどに、その扱いに長けている。李靖にしてみれば、申公豹も実は蚩尤の一味で、はじめから撹乱や暗殺のために潜入していたという疑いを排除したいところである。

「ずいぶん、申公豹のことを気にするのだな」

「あの者を引き合わせたのは、私ですから」

 呂尚は、うっすら目を細めた。申公豹について李靖が疑念を持っているということを、それで黙認したことになる。


「天化は、もうすぐ出る頃だな。明後日か」

「ええ。明後日です」

「少しずつでよい。少しずつ、己を得てゆけばよいのだ」

「取り戻す、とは仰らないのですね」

「取り戻すとは、もとあったものを再び得ることだ。もと無かったものを得るときに、そのようには言わん」

「なるほど」

「昨日そうであったものが、今日すぐに変わることもない。しかし、この前の冬と今とでは、何かが違う。今と次の冬でも、また何かが違う。それでよい」

 李靖は、この賢人の言うことを、一語一句たりとも逃さず心に刻みたいと思っている。自分が作る銅器のように、鋳込んで永遠に遺せればどれほどよいかと常に思う。

「天化が、剣を抜いた。ただそれだけのことでも、それが、とても大きなことだということですね」

「そうなのだろうな。今まであれほど頑なに抜かなかった剣だ。それを、人を斬るためでなく、萌を縛めていた縄を切るために抜くとは。なかなか味なことをするではないか」

「あの剣は、青錆が出すぎてしまって、もう使い物になりませんでした」

「まさしく、天化そのものではないか」

 李靖は呂尚が上手いことを言うのに感心し、珍しく声を立てて笑った。

「だから、あたらしい剣を。握りや重さなどは、前の剣と全く変わりません。しかし、こちらのほうが、いくらでも良い剣です」

「お前がそう言うのだ。そうなのだろう」

「天化も、お気に召してくださいましょう」

 剣の話をしているときは、李靖は呂尚の参謀ではなく鍛冶屋だった。


 そうしているうち、天化が剣を受け取りに来た。

「おお、天化ではないか」

「なぜ、あなたがここに?」

 気さくに声をかける呂尚に、訝しい顔を向けた。

「剣を佩く者が鍛治に来て、何が悪い」

「べつに、悪くなど」

「明後日から向こう、よろしく頼んだぞ」

「ただ行って帰ってくるだけ。そう言ったのは、あなただ」

「しかし、何が起きるか分かりません」

 李靖が、仕上がったばかりの剣を差し出した。天化はそれを握り、む、と声を上げ、二人に背を向けて振り心地を確かめた。

「いかがでしょう」

「李靖どの。父は、あなたが中華一の鍛治だと言った。その意味が、分かった」

「なにか、文字が鋳込まれているな」

 呂尚が、目を刀身にやる。

言不言ことばにしない言葉。そう、鋳込んでいます」

 天化は何も言わず、その記号にじっと目を注いでいる。もちろん、彼にも識字はできないから、刀身にある規則的な記号が、そういう意味なのだと思うしかない。

「なぜ、俺の剣にそれを?」

「さあ。なぜでしょう。いつも、勝手に思いつくのです。お気に召さなければ、その意味はお忘れになり、ただの紋様と思ってください」

「いや、別に」

 天化は無表情に剣を鞘に納めた。

「どのみち、この剣は今回の戦いの役には立たんのです。万一のことがあっても、俺が直接剣を交えるようなことにはならんでしょう」

「大尉も、優秀な者を選んだそうだな」

「数日かけて、兵の全員を見た。武器の扱い、話し方、手振りの癖、周囲にどう思われているか。その上で選んだのです」

 呂尚に対して、接しづらいところがあるらしい。もはや呂尚は相国という周の第二位のところにある者だから、相応の態度と言葉を使うべきところ、どうしてもそういう気になれないのかもしれない。呂尚自身、自分の地位にあまり頓着しているふうでもなく、相変わらずただ話したいときに聞きもしないことを一方的に話し続けていたりするから、天化について不遜だとか非礼だとか思うこともないから、特に問題はない。

「お前のことだ。きっと、うまく胸の内を明かすことができず、苦心が多いことだろう」

「大きなお世話です」

「そうはいかん。俺が考え、お前を将軍にしたのだ。そのために苦心させているのだから、それについての言葉くらいは使わせてもらう」

 天化は、妙な気分である。呂尚とは、こういう心配りができるような類の男だったか。何かを取り繕うように見えなくもないが、逆に今まで自分がこの男のことを頭だけ切れる変人としか思っていなかったようにも思える。

「向かぬと思えば、いつでも免じていただいて結構です、相国どの」

 天化は皮肉のような言葉を残し、去っていった。



 南征は、順調であった。黄父子が大軍を引き連れて来たというだけで、素朴な南の豪族は興奮を声に出して参軍し、叛乱の疑いのあった者どもはその長の首を自ら差し出してきて恭順を示した。あらかじめ李靖の手の者と申公豹が協力し、豪族たちのうち叛乱を企てている者を名指しにして、その邑ごと黄父子が焼き払いにゆくと触れ回っていたのだ。

 蚩尤のこともある。尋問の内容を報告することができないまま、日ばかりが経ってしまった。あの捕らえた蚩尤の男はありえないほどの辛抱強さを持っていて、ついに自分の仲間や雇い主のことを微塵も吐かぬまま、もう全身のうちで剥ぐ皮がなくなるまでになって死んでしまった。


 吐かぬということは、仲間がいる。仲間がいるということは、雇い主がいる。それは、確かと見ていい。申公豹は、南征の話が持ち上がった途端、どこからともなく姿をあらわし、自分の貿易の道を使い、李靖の手の者を助けた。

 信用してよいかどうか、李靖にはやはり量りかねる。だが、申公豹の顔を思い浮かべるたび、かならずあの獄死した蚩尤の男の顔を思い出してしまっている。


 もし、申公豹が周に協力しているふりをしているだけだったとしたら。

 あの蚩尤は、間違いなく天化を殺すために放たれた。白が、そう断言した。撹乱や諜報などという、生優しいものではない。商は、周の軍の内外を問わず、それを構成する柱を消すという手法を思いついている。

 恐れすぎるくらいで、ちょうどよい。ほかの者が恐れぬところにまで、恐れを向ける。それもまた、自分の役割。


 急がねばならない。まだ李靖は何も聞いていないが、呂尚は、遠からず何か大きな動きを立てようとしている。なんとなく、話していてそう感じる。いや、何か大きなことが起きようとしていて、呂尚もまた、それを感じ取っているだけなのかもしれない。

 黄父子の軍が帰還する頃にはもう、冬はすっかり融けていた。代わりに、空が黄色く霞む時期である。この砂は、西からの風に乗って運ばれてくる。

 月。星。李靖は、砂降る一人の夜、先ほどまで明るかったはずの空にあるそれをふと見上げた。

 啓明(宵の明星)が、ぽつりと浮かんでいる。それもまた、砂に覆われてかさを帯びていた。

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