第四章 謀り計ず者

泰山、動ず

 鶯だの目白だのという鳥が、歌っている。現代においては雨が少なく、延々と黄土地帯が広がるばかりの中華の平原ではあるが、当時、今よりもずっと森林も多かった。

 たとえば日本の特有の風土に馴染んだ我らが祖先ほど風流好みでなくとも、中華の人も昔から変わらず春には花や鳥が笑うのを喜んだ。


 居室を覗き込む鳥の声に目を細める妲己もまた、そうである。

「そうですか。みな、つつがなく過ごしているのですね」

「ええ。呂尚どのも、至ってご壮健」

「よかった」

「——お会いになりたいでしょうなあ」

「ええ。でも、まだ」

 妲己のする会話を、聞く者はない。王妾の居室に近付くことができる者など、限られているのだ。会話の相手は、いつもどうして入ってくるのか、気がついたらそこにいるというような具合だった。


「周は、もうすぐ動きます」

「戦いを、始めるのですか」

「ええ。おそらく、この朝歌を攻め落とすほどのことにはならないでしょうが」

「そうなのですか」

 妲己には、戦いのことなどはよく分からない。紂王の側にいるが、未だに紂王と聞仲が政の難しい話をはじめた途端にあくびを我慢できず、さっさと奥に引っ込んでしまうようなところがある。

「大きな戦いにならなければいいのですが」

「そうですな。しかし、大きな戦いをしなければならないようになる時もまた、近いかと」

「そうですね。そのときは、誰も怪我などしないといいのですが」

 会話の相手は、吹き出した。戦いの話をしているのに、怪我という優しげな言葉が出たのがおかしかったのだろう。


「兄様は、わたしのこと、何か仰っていましたか」

「いいえ、何も。妲己さまとお別れになって以来、何も」

「そうですか。では、わたしは、きっと兄様の思うように、わたしの為すべきことを見出していられているのですね」

「呂尚どのは、お忙しい。すっかり、妲己さまのことを忘れてしまわれているのかもしれませんよ」

「まさか」

 妲己は、窓の向こうを飾る桃色の花も目を背けるような笑顔をこぼした。

「かならず、お前にまた会える。そうなるようにする。兄様は、はっきりとそう仰ったのです。意地悪を言わないで」

 会話の相手は、ちょっと鼻を鳴らした。いったい、何年前の話をしているのか。しかし、妲己があまりにも無邪気にそう信じているのが分かったから、何も言わない。それくらいの配慮はできるらしい。


「天化どのは」

 会話の相手が、天化の話題を持ち出した。

「すっかり一軍の将となっておいでですぞ。よい配下にも恵まれておられる」

「そうですか。気落ちしていると聞いたときは、気が気ではありませんでしたが」

「妲己どのは、今もなお天化どのを思い返されますか」

「ええ、もちろん。大好きな人ですから」

 どれほどの意味か、測ることができない。しかし、妲己の笑顔は、呂尚の話をするときと同じように美しい。

「では、妲己どのは、紂王さまと呂尚どのと天化どのと、誰が最も好きでおられるか」

「もちろん、みんな」

「誰が最も、と私は訊いたのですが」

「ええ。みんな、等しく。大切な人たちです」

 紂王と呂尚が血で血を争う戦いに繰り出そうとしていることを、ほんとうに分かっているのか。長く妾の立場でいると、見えるものも見えぬようになったりするものなのかもしれない。会話の相手は、それ以上無駄な問いをするのをやめた。

「でも、あなたは意地悪」

 妲己は相手の浮かべる苦笑に、ちいさな棘のようなものを向け、いたずらっぽく片眉を上げて見せた。


 会話の相手は、気付いたらいなくなっていた。だいたい、いつもそうだった。残るのは、妾の中でも格別の扱いを受ける自分の居室のそとを取り巻く静寂に咲く、鳥の声ばかりである。

 まだ、日が高い。紂王はどうしているかと、政務を執り行う部屋に足を向けた。正妻にすら許さぬそれを、紂王は、妲己にだけ許している。

「あ、聞仲どの」

「これは、妲己さま」

 また、小難しい話をしている。そう察し、足を返そうとした。

「妲己さま。少し、よろしいか。お伝えしなければならぬことがあります」

 珍しく、聞仲の方からそれを引き止めた。この歴戦の強者が自分に用事など珍しいことだと妲己は少し目を丸め、留まって座した。


「妲己さま。周を、懐かしく思われるか」

 聞仲は、軍人らしい錆びのある声でそう問うた。この老人が、妲己は嫌いではない。武人として大層強いと誰もが畏敬を向けるが、ただ武に長けているだけではこうも人に慕われはせぬだろう。なにごとにも真摯で、理性的であり穏やかなこの老人は、ときに紂王の父親のようだと感じることさえある。

 日に日に皺の走るのが目立ってゆくその顔に、笑顔を向けた。

「懐かしむことはありません。今も、目を閉じれば、みんなの顔が浮かびます」

「——なるほど。では、心してお聞きになられませ」

「はい、うかがいます」

「周と、ついに戦になります。これまで、小さなぶつかり合いはありました。しかし、今回は、違う」

「違うとは、どう違うのです」

 聞仲は、妲己が平静でいるのが意外なのか、ちょっと言葉を詰まらせた。

「呂尚の率いる周軍、それに応ずる各地の豪族。それらが、ついに一斉に立ち、この朝歌を目指してくるのです」

「まあ、こわい」

「妲己さまにとっては、周も故地。この商もまた。れが、互いに戦う。始まってから知られて、嘆かせたくない。紂王さまが、そうお考えになりました」

 言葉を受けて紂王は妲己を見つめる視線を柔らかくした。

「お優しい。ありがとうございます」

「なに。聞仲がいる。そなたの産まれた申には、盂炎もいる。ほかにも、俺たちのもとに参じる国など、星ほどにある」

「そう聞いて、安心しました。わたしは、もう戻ります」


 妲己は紂王に笑いかけ、聞仲にも礼をし、退室した。

 紂王の声は、言葉の割に頼りなげであった。それが恐れによるものなのか何なのかまでは、分からない。しかし、どれだけ一緒にいても、彼の空虚は埋まることはないのだとこのところ思う。きっとそれは寂しいだとか悲しいだとか、そういうものとは全く別のところから来るのだと。頼みもせぬのに根付き、勝手にえてゆく。酒でも、女でも、それを充たすことはできない。そういうものなのだ。

 だから、と妲己は思う。

 共にいることしか、できないではないかと。その虚と、ずっと長く。なぜなら、それがそこにあるということを知ってしまっているから。


「お部屋に、向かわれぬのですね」

 執務のためのではなく、寝所の方である。居室に戻ると、また、さっきの会話の相手の男がいた。用事を思い出したとか、そういうわけではない。自分を気にかけているのだ、と妲己は思った。

「なにやら、悲しそうでおられますな」

 鶯の声が、また咲いた。声はそこにあるのに、肝心の鳥の姿はない。声があるということは耳で聴いて分かるのに、それを見てそれに触れることはできない。

「似ている、となんとなく思うのです」

「なにとなにが、でしょうか」

「紂王さまの胸の中にも、きっと鶯がいるのでしょう。なるほど、鶯ならば、勝手にやってきて殖えるのを、拒むことはできません。鳴くなと言っても、鳴いてしまうのです」

「なにをおっしゃっているのか、よく分かりませんな」

「あなたは、とても意地のわるい人。だけど、わたしの言うことを、よく分かってくれています」

 この男は、自分を気にかける以外に、なんのために戻ってきたのだろう。それを問おうとしたとき、また姿がなくなっていた。目線で探すと、ふつうに戸口から出て行くだけであった。それなのになぜ、消えると感じるのか。

「また、いろいろな報せを運んでくださいね」

 男は、足を止めた。そのあと、念を押すように妲己が自分の名を呼ぶことを、知っているのだ。

「——申公豹どの」

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