対峙

 剣と剣が鳴る。

「久しいな、楊戩どの」

「黄飛どの。変わらず、ご健勝のようだ」

 ぱっと離れ、互いに構える。

「髪の白いものが、さらに増えられたか。ご無理はなさらぬ方がよい」

 楊戩は、黄飛が最後に見たときよりもさらに武を高めているらしい。その立ち姿だけでも、肌に粟が立つ。

「若造が、言うようになったものよ。しかし、若いから勝てると思えば、大間違いだ」

「天化どのも、お元気ですぞ」

 楊戩は世間話のような調子で天化の消息を伝えた。

「そうか。今、どうしている」

「市に詰め、揉め事などの取り締まりを。なにか、思うことがあるようですな」

「勝手に出奔しおって。一家の恥だ」

「その割に、元気だ、と聞いて嬉しそうではないですか」

 黄飛は、剣を握り直した。楊戩の言う通りなのだ。


 歩兵が周軍に噛み込み、混乱を作っている。もう少しで、聞仲軍本隊も突撃してくる。

 勝てる。かならず勝つ。あとは、目の前のこの凄まじい領域に達した武を持つであろう楊戩を、殺すだけである。

 恐ろしいまでの大きさの剣。おなじく呂尚の取り巻きであった李靖が作ったものだとか。李靖の父はかつて商王家に命じられて占いの結果を鋳込んだ銅器を作る職人であったそうだが、それほどの腕を受け継いだ者が、なぜ周に付いているのか。

 この楊戩も。これほどの武があれば、商ならばかんたんに将軍が務まる。あの哪吒という若者も、おそらく同じだろう。

 呂尚も。商にいれば、今頃聞仲のそばでそれをたすける重職にあったかもしれないのに、なぜ商に対抗することにばかり頭を働かせるのか。

 それに、天化。我が息子ですら。

 黄飛には、なぜなのか分からない。


「迷い——でしょうか」

 見透かしたようなことを言う、と腹が立った。瞬間、剣を振りかぶり、地を蹴っていた。この斬撃を受けられた者はいない。どれほど強力な豪族の長でも、産まれてこのかた無敗と豪語する者でも、かならず一撃で葬ってきた。

 厚重ねの銅剣。楊戩のもののように巨大ではないが、見た目よりもずっと重いのだ。ふつうの剣なら、豚の肉ほど容易く、手応えもなく斬り折ることができる。


 踏み込み。大地を踏み締める力が、大地がそれに反発する力が、すべて剣に。それが、敵を斬るのだ。

 すれ違う。やはり、手応えはない。剣どころか、右腕までも斬り飛ばしたかもしれない。

 そう思って振り返った。


「戦いでは、我らは負けた。しかし、私はあなたに勝った」

 楊戩は、剣を構えたまま、首だけ回して言った。はっとして手元を見た。黄飛の厚重ねの剣が、根本から叩き斬られていた。

「老いた人はみな、老いているか若いか、と論ずる」

 楊戩の剣が、ゆっくり上がる。切先は、黄飛の首筋の方を。いや、そのいのちそのものを。

「いくつ歳を重ねたかなど、論ずるに値せぬ」

 じり、と軸足を下げ、腰を落とす。言葉が、静かである。

「——技の重さは、歳ではない」

 殺気。


 天賦。天が与え、それを人が磨く。楊戩は、その極地にいる。たとえば、聞仲がその領域の最も高いところにいる。自分も、子の天化も。この楊戩は、間違いなく、その領域にいる。

 楊戩の言うとおり、歳ではない。しかし、歳を取ったものだ、と思った。知らず、若さを羨んでいた。だから、若いだとか老いただとか、すぐ口にしている。その時点で、自分はこの達人に敗れていたのかもしれない。


 しかし、それ即ち死ではない。あの恐ろしい気を放つ大剣を脳天に受けてはじめて死なのだ。それまでは、生きていられる。戦える。勝てる。

 柄だけになった剣を捨て、腰の後ろ。素早く両手を回す。交差するように備えていた、肘から手首までの長さほどの短剣。戦場において草や枝を払ったり、獣や魚を調理したりするときに使うようなものだが、黄飛は、それも人を殺すことができる厚みの刃のものにし、二本備えていた。

 ふつうの剣ほどの殺傷力はない。しかし、信じられないくらいに速く振ることができる。


 恐れはない。だから、楊戩の必殺の間合いに飛び込むことができる。楊戩ほどの達人である。間合いに入った瞬間、無意識に剣を振るだろう。

 一撃。それさえかわせれば。

 息をひとつ。それから、剣を低く構える。

 ほんの僅かな間目を閉じ、開く。


 跳んだ。飛び込んだ。自ら、死の領域に。そこで戦うことができるのは、戦場で死を潜り抜け続けた者のみ。歳ではないのかもしれない。しかし、確実に、自分はこの若者よりも多くの死と戯れてきている。

 剣。いや、金属の塊。意志を持ったように伸び、首の付け根を狙ってくる。

 それを凌ぎさえすれば。

 身を反らせ、背骨が軋んでもなお反らせ、その切先が通り過ぎ、薄ぼんやりした青をたたえる空を隠すのを見る。

 大剣の、攻撃の起点。下げた右の軸足。影に潜り込むようにして、短剣を振る。おそらく、楊戩は黄飛がこれほどまでに素早く動くことができるものとは思っていなかっただろう。

 反応して手元に引き戻される大剣。右手の短剣で、それを抑える。力は殺しきれず、その根本の刃が腕に触れた。黄飛それでも構わず、左手の刃を楊戩の首元に突き立てようと振り上げる。

 右腕の肉に、大剣の刃が食い込む。丸太のように膨れた黄飛の筋肉により、ようやくそれは止まった。また蝶がひとつ、思い出したように浮かび去った。


 勝った。あらためて、確信した。剣を腕で止めている以上、楊戩はあとは短剣を首に受けるしかないのだ。右腕一本で、首一つ。安い、と黄飛は思った。

 しかし、驚くべきことが起きた。

 楊戩が大剣から手を離し、黄飛の短剣から身をかわした。ふつう、できることではない。


「剣を失って、どうするつもりだ」

 黄飛は短剣を構え、素手の楊戩に小さく語りかけた。

「——丹精こめて育てた騎馬隊の多くを失い、身ひとつでも勝てない。俺は、あなたを侮っていたかもしれん。それを、恥じている」

 互いに、息が上がっている。

「しかし、俺の役割は、もう終わろうとしているのです」

 楊戩は、自ら取り落とした剣を拾った。その動作にはもう殺気はなく、黄飛の身体が反応することはなかった。


「また、まみえたいものです。黄飛どの」

 黄飛は答えない。ただ、短剣をゆっくり下ろした。


 周の騎馬隊には、壊滅とまではいかなくとも相当に大きな打撃を与えた。なにせ、大将の楊戩が馬を失うほどである。もう一人の大将である哪吒は、姿も見えない。楊戩と対峙している間に、混乱している歩兵部隊に黄飛軍が突きかかり、壊走させてもいる。

 この戦場に投入された重戦車の威力を計るには、十分な結果である。しかし、釈然としない。

 黄飛は、ふと顧みた。

 終わりかけた戦場。転がっているのは、ほとんど周軍の者だろう。向こうには、中華において双つ無しと名高い聞仲軍。もちろん、無傷である。さらにその向こうに、虎邑の城壁。

 目を細めた。飛んでくる矢は未だに避けることができるが、止まっている城壁が、いやに霞んで見えていた。



 その城内。

「戦いは、このまま終わりそうだな」

 城壁の上の楼から、戦場の様子を眉季が遠望している。

「安堵なされたようですな」

「ええ、明どの。あなたの言ったとおりだった」

「そうですな——」

 眉季が、明の方を振り返った。明の身体が、ぴたりと止まった。

「殺気を、読むのか。さすが、黄飛大将の子といったところか」

「明どの。なぜ、私を殺そうと考えるのです?」

 落ち着いて、明の腰の剣に目を落とす。

「なぜかを知って、あなたに何か得があるか?」

「ありません。紂王さまが、そうせよとお命じになったのでしょうか。それならそうと知っておきたいだけです」

「潔いものだな」

 落ち着いていても、眉季の額には大粒の汗が浮かんでいる。今から自分の身に何が降りかかるのか、もう分かりきってしまっているらしい。

「私に何か罪があって、紂王さまが私を誅せよとあなたにお命じになった。朝歌を出たときに一緒だった従者とあなたが入れ替わったのは、そのためなのですね」

「まあ、そう思っているのがよいだろうな」

「あの従者は、朝歌に戻ったのでしょうか」

 明は、無表情のままである。

「——そうですか。すでに、あの者は」

「聡いな。いてもらっては、困る。それだけのことだ」

「もうひとつ、問うても?」

「なんだ」

「あなたは、一体誰なのです」

 光が閃いた。明の剣だった。それが鞘に納まったとき、あたりはまた、戦場の残り香のような遠くの喧騒だけになった。

「お前もまた、面白い男になったかもしれんが、今、必要なのは、親父どのの方でな」

 明は崩れ落ち、血溜まりを作る眉季の身体からその首が転がって離れてゆくのを目で追い、呟いた。

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