戦場にする

 戦場。黄砂は、もう降り止む季節である。そのうち、雨が来る。そうなれば、周の拓いた畑はなお豊かになる。豊邑からの補給無しで長期間滞陣することが可能になる。それを許せば、この後どうなるか分かったものではない。

 やはり、ここをにしなければならない。


 風が、止まった。思い出したように浮かんでは沈む蝶が一匹、視界を横切ってゆく。

 打って出る。周軍を無視するように閉ざされたままであった城門から、数千の兵が飛び出してゆく。

 騎馬隊はどうか、と黄飛は先頭を駆けながら目を細めた。今のところ、飛び出してくる様子はない。その代わりに、土煙が激しく上がっている。前列後列を入れ替え、弓隊を前に出しているのだろう。


 開かれた城門の内側では、工兵が木板などを大急ぎで組み上げている。

 戦車である。聞仲は三千の直属の兵のほか、戦車隊も引き連れていた。行軍を迅速にするため、ある程度組んでおいた部品を現地で組み上げる工法を編み出したものらしく、出発地から戦車を曳いてくるよりも馬の疲労も軽く、はじめからその場に備えてあったものと同じだけの戦力を発揮することだろう。

「工夫は、組み立て方だけではない」

 と、城壁の内側にまだいたとき、聞仲は黄飛に言った。

「まあ、組み上がれば、分かる。何としても、騎馬隊を引きずり出す。それを、戦車で一息に討つのだ」


 土煙が、喚声を帯びてくる。敵が、近付いているのだ。黄飛は長剣を握り、雄叫びを上げた。

 矢。それは、飛距離の外にいれば無いのと同じことである。兵を駆けさせては反転させることを繰り返し、周の矢を消費させる。それが少なくなるか尽きるかしたとき、騎馬隊は出てくるはずだ。自分は、それまでの時間を稼ぐ。周人しゅうびとの血と肉が、彼らの拓いた畑の肥になる。


 人の世とは、いつもそのようなものであるらしい。自分も、いずれ、誰かのために土になればよい。獣も草も、死ねば全て等しく土になる。人だけが、誰かのために土になることができる。それは天化の、眉季のためであり、まだ見ぬ多くの若者のためである。それを繰り返し、土は肥やされてきた。それが、商。それが、国。黄飛は、そう思っている。だから、この戦場で一歩間違えばすぐ目の前に死があるということを、恐れることはなかった。

 若い頃は、それこそ戦場で恐怖し、糞尿を漏らして泣き喚き、聞仲に笑われたこともある。しかし、ここまで生きてこられた。それは、あらゆる先人が、自分のために自らを肥にしてきてくれたからである。だから、自分もまたそうなることに、何の恐怖もない。


 ちらりと顧みる。朝歌ほどでないにせよ、決して破れぬ城壁がある。その内側に、守られるべきものはある。もし自分がここで死んでも、眉季は、それを肥にして生きる。彼が老いたとき、また誰かのために自らを肥とすることだろう。



「父上は、大丈夫でしょうか」

 その城壁の中。

 眉季は、朝歌から従ってきた小物に声をかけた。

「黄大将も聞太師も、これまで一度も負けたことがないと聞いております」

 小物は、自分の知る事実を端的に述べた。

「そうだな。あの父上と聞太師が戦場を同じくしているのだ。この中華に、敵う者がいるはずもないか」

 小物は、古くから知っている者ではない。実は、眉季は、黄夫人の死の報せをもたらすための使者としてここに来ていた。だから、子供の頃から常に自分の側にいた従者が途中で姿を見せなくなり、

「ならわしにより、ここよりは、王より言葉を賜りましたこのみんめがお供をいたします」

 とこの男に代わったことについても、こういう場合はそんなものなのか、とのみ思っている。つまりこの小物は小物でありながら朝歌の命により自分に随伴しているわけで、紂王の言葉(神の末裔であるという商王家にとって、王の言葉、というのは重要視された)を預かるであろうこの者は、自分よりも上の者だということになり、そのつもりで接している。

 明は、様々なことを知っていた。若い頃は戦場に出ていたのか、よく日に焼けた男だった。眉季がなにかものを訊ねると、かならず無駄なく端的に返答をした。だから、明が、黄飛がこれまで戦場で遅れを取ったことがないと言うと、眉季は安心できた。

「しかし、姉上のことを知られたら、父上はさぞ気を落とされることでしょうね」

「我が娘の死を、悲しまぬ親はありません」

「しかし、伝えねば。それが、私の役目」

「眉季様とて、姉君を亡くされたのです。己一人で背負いこもうとなさいませんよう」

「優しいことを言ってくれるのですね」

「思ったことを、言ったまでです」

 明は、そのまま視線を外し、城壁の方にやった。打って出た商軍の喚声だろう、遠雷のような音が聴こえてきている。



「退くな。押せ。しかし、押しすぎるな。矢を恐れるな。死を恐れるな。敗れて虎邑の城壁を、周の者共のいいようにされることをのみ恐れろ」

 黄飛は剣を振りかざし、繰り返し矢を消耗させる運動をする兵たちを鼓舞し続けた。兵の士気は高い。勝てる、と見た。背後には、中華最強の聞仲軍が控えている。騎馬隊が出た瞬間に入れ替わり、聞仲が戦車隊を繰り出し、それを討つ。崩れたところを黄飛軍が再び前線を押し上げ、壊滅させる。城門を出るまでの間のわずかな時間で、そのように決めていた。

 勝てる。いかに呂尚が天下に前例のない着想ばかりをもたらす奇人であっても、千里向こうのこの戦場のことは、この戦場にいる者が決めるのだ。それは、力。数の多い方が、武器の上手い方が、勇気のある方が、心の強い方が勝つ。それが、力というものである。だから、勝てる。そう確信した。


 周軍。矢をやめ、弓隊が滝を割るように二つに分かれた。その割れ目から、騎馬隊。

 出た。内心、そう叫んだ。兵をすぐに下げ、後列の聞仲に見えるように狼煙を焚く。


 地鳴り。敵の騎馬隊が、疾駆の姿勢に入っている。二百もいないくらいか。しかし、速い。

 地鳴りは、騎馬隊からではない。聞仲の後列からである。

「聞太師の、戦車隊ぞ。その目に、焼き付けておけ」

 兵に、そう叫んでいた。

 周軍と同じように真っ二つに分かれた黄飛の陣を、凄まじい勢いで通り過ぎてゆく戦車隊。その戦車の姿に、黄飛は目を見張った。

 ふつう、戦車とは馬二頭で曳き、それに一人か二人の兵を載せる。しかし、今回、聞仲が用いた戦車は、馬四頭に兵三人という異質なものだった。

 車も、大きい。巨大であると言ってよい。その圧迫感は、山がそのまま駆けているようであった。

 おまけに、戦車のあちこちに銅板でもって補強がされており、車輪にはその回転に合わせて回るよう取り付けられた剣が備わっている。兵は弓一人、戈が二人。槍ではなく全てを戈にしているのは、対騎馬隊を想定し、敵の馬の脚を引っ掛けて斬ることを主眼に置いたからであろう。

 これを、かねてから工夫していた。聞仲は、戦いの神か。そう思った。つい数十年前まで、戦いとは、ただ押し、勢いに乗った方が勝つというようなものだった。先頭を駆ける指揮官が強ければ兵は振るうし、それが少しでも及び腰になればたちどころに崩れる。そういうものだった。

 それが、ここまで変貌を遂げるものか。

 呂尚などではない。聞仲という男が天地の間に出現したからこそ、戦いは変わったのだ。そう確信した。


 周の騎馬隊は、重戦車隊の圧倒的な突破力の前に、激突を諦めて避ける運動に切り替えている。それを、戦車の上の兵から放たれる矢が容赦なく狙っている。

 黄飛の位置からでも、三人、五人、と馬から周兵が落ちるのが見えた。重戦車に立ち向かおうとする勇敢な者は、四頭もの馬が高速で曳く車両に弾き飛ばされるか、戈にかけられるかして粉砕された。


「今だ。機ぞ」

 剣をまた高く掲げる。歩兵が、一斉に声を上げる。

 出る。駆ける。騎馬隊は、もう骸になるか散るかして跡形もない。矢も、尽きているはずだ。

 周の陣。明らかに、混乱している。重戦車は再度の突撃はせず、黄飛の軍のために弧を描いて離脱した。

 視界の先の一人。馬の骸の傍ら、剣を手に立っている。この位置からでも、それが誰なのか分かった。黄飛は、それに向かって足を速めた。

 まだ、これほどまでに速く駆けることができる。自分は老いているが、若いことがそのまま戦場の強さにはならない。

 相手も、黄飛の姿を認めたらしい。馬の骸を背にして、ゆっくりと剣を構えた。その剣が長く、大きく、懐かしいと感じるものだった。


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