後姿
城壁の内側に戻った。
ただ立って、それを見た。しばらくして、膝が震えてきた。
周軍は、撤退した。畑が完成し、補給なくして戦えるようになれば、どうなっていたか分からない。聞仲の重戦車隊が、それを許さなかった。
勝ったのだ。
しかし、黄飛は、自分の膝が震え、力を失い、ついには崩れ落ちてしまうことに抗えなかった。
「これは、いかなることか」
聞仲が、黄飛の代わりに声を発した。
「お言葉にあります」
二人の前に立つ者が、懐から
二人に提示されたのは、貨として用いられている宝貝のうち、とりわけ黄金のような色彩を持つもので、これは非常な価値があり、たとえば国と国、豪族と豪族が高貴な人質や大量の家畜を売り買いするときか、または王が自らの言葉を他者に託すとき、その証として授けるかにしか用いられない。
これを提示し、お言葉にあります、と発することで、二人の目の前の者は、被り物をした眉季の従者などではなく、王と同一の存在になった。
「聞太師。私が、王からじきじきにお言葉を預かっていることは、朝歌を出たあなた方に追いついたとき、すでにお伝えしましたな」
「はっ」
「お言葉にあります」
今一度、王の代理は居住まいを正した。
——我が妾、黄に非違あり。ゆえに、報いのため誅した。その旨、父であるそなたにも申し伝えるべきである。ゆえに、この首をそなたに、我からの言葉として授ける。
王の代理は、自らの前の床に置かれている首を、黄飛の方にずいと押し出した。
「——眉季」
その首の名を、掠れた声で呼ぶ。無論、答えはない。
「我が娘が、何を。それほどの過ちを——?」
聞仲に、縋るようにして問うた。聞仲は少し目を伏せ、答えた。
「妲己どのに、手を。そなたの娘は、心を乱していた」
「紂王さまは、そのために、娘と眉季を。そして、このわしに、咎を負えと」
聞仲は、俯いた。黄夫人の死はもちろん知っていたし、眉季がそれを黄飛に伝える使者として立てられたと聞いてもいた。あとから王の言葉を持つ
紂王は、自分には言わなかったのか。言えば、諌められると思ったか。だから、自分に言葉を授けず、わざわざ別の者を立てたか。紂王が妲己を溺愛しているのは知っているが、まさかここまでとは。
妲己に手を挙げた黄夫人を殺したのは紂王が放った刺客だと人は噂している。それについて紂王は、聞仲に向かってはっきりと否定した。さらに、紂王は聞仲に、もし娘の死を知り、天化が遁走したこともあって黄飛が自刎しようとしたら、全力でそれを止めろと言ったのだ。
それは、建前だったのか。本心では黄夫人のみならずその父である黄飛すらも許すつもりがなく、罰を与えるつもりでわざわざ眉季をここまで連れてこさせ、この者に首を刎ねさせたのか。
はっきり言って、混乱した。このところの紂王の変わりようは見違えるほどで、政のことにも関心を示し、軍事や民のことにも積極的である。さらに、たとえば姫考を惨たらしく殺したときのように、勝手なことをする周囲の者ももうおらぬのだ。はじめから紂王がこうであったなら、そもそも周などは叛乱を考えることすらなかったはずだ。紂王に限って。いや、しかし、ではこの目の前の使者は。
「我が娘が罪を犯したとのこと。父として、恥じるのみです。長子天化のことに続き、生きていることすら恥と思います」
黄飛は悲しさか悔しさか、涙をとめどもなく流して言った。
「待て、早まるな。紂王さまは俺に、お前が自刎でもしようとしたなら、何を置いてもそれを止めろと仰せになったのだ」
「では、眉季は、どうして死んだのでしょう」
「わからぬ。明とやら。王のお言葉に向かってではない。一個の人間として、そなたに問う。なにか、事情を知らぬか」
明は、被り物を取って顔を見せ、口を開いた。
「私には、何も。私は、紂王さまがこの宝貝と共に授けられたお言葉と、眉季さまをこのようにせよというご指示しか」
その素顔から放たれる言葉に抑揚はないが、どこか不安げで、この商きっての武人二人がいきり立って自分に襲いかかるのではないかと恐れている心のうちが滲んでいた。
「だめだ。この者に問うても、はじまらん」
「申し訳ありません。眉季さまにも、申し訳ないことでした。いくら紂王さまの言い付けとはいえ、このように若い、よいお方を——」
我が前の首を見下ろし、明も涙をこぼした。
「いえ、紂王さまのお言葉です。私ごときが、涙を流すのは、紂王さまに逆らうことと同じです。どうか、お見過ごしください」
「明どの。そなたを責めはせん。そなたが、己の職分に忠実であったのは分かった」
黄飛が重い声でそう言ったのを聞き、明はため息をこぼした。
「私は、きっと、お怒りになった黄飛さまは黄夫人と同じように生きたまま私の四肢を切り落とし、そののちに眉季さまと同じように私の首を刎ね飛ばしてしまわれるものと覚悟していました。それなのに、そのように寛大なお言葉——」
安堵のためか多弁になる明を、おい、と聞仲が制した。
「これは、いらぬことを。失礼しました」
明は南に向かって座る(王と同じ座り方である)のをやめ、身を縮めた。
「今、なんと——?」
「黄飛。この者の戯言だ。気にするな」
「我が娘が、そのような惨い死に方を——?」
「黄飛」
「聞仲どの。お教えくだされ。我が娘は、四肢を生きたまま切り落とされ、首を刎ね飛ばされて死んだのですか」
「いや、違う」
「心を乱したのは、おそらく紂王さまにもっと気にいられたい、愛でられたいという妬みからでしょう。そのために顔か頭か、錯乱して妲己どのに手を上げたのでしょう」
しかし。しかし、それは、生きたまま手足を切り落とし、首を刎ね、かつ眉季までも殺さなければならないようなことか。
「お答えくだされ、聞仲どの。我が娘は、それほどのことをしたのでしょうか」
聞仲は、言葉に詰まった。それほどのことは、していない。誰がどう見ても、ひどい仕打ちである。
「黄飛さま。どうか、今夜は、眉季さまの亡骸を、よく葬って差し上げてくださいませんか」
明が、懇願するように言った。
「私の剣にかかるとき、眉季さまは、姉の罪を着て死に、父の咎が無くなるなら本望と仰いました。私は、剣を振り下ろすのを躊躇いました。そのような立派なお方です。どうか、厚く葬って差し上げていただけませんか。慕うあなた様に葬っていただければ、眉季さまは少しでも安らかになられましょう」
明にも、黄飛が今にも自刎してしまいそうなのが分かるらしい。息子の死を悼む時間を持つことで、少なくともその間は勢いに任せた自刎を繰り延べられると思うらしい。
朝、眉季は、虎邑の土に埋葬された。大層な儀式は執り行わず、簡素なものだった。しかし、膝を抱えるような格好で土中の人となった眉季の前には黄飛がおり、その率いる軍が規律正しく並んでいた。
黄飛の隣には、聞仲。中華最強であることを誰も疑わない、三千の直属の兵も居並んでいる。
「戦場に出、わしや天化の役に立ちたい。朝歌にいたころは、よくそのようなことを申していたものです」
黄飛は、土中を見下ろしながら、傍らの聞仲に向かって呟いた。もう、涙も枯れてしまっているらしく、ただ濃い隈を張り付かせているだけだった。
「よい若者であった。間違いなく、お前のあとを継ぎ、よい将になるはずであった」
「もったいないお言葉です。眉季が聴けば、さぞ喜んだでしょう」
しかし、喜ばない。聴くことすらできはしない。死とは、そういうものだ。何ももたらさない。何も生まない。だから、死なのだ。
「若い者が、死ぬ。最も、あってはならないことです。そう思われませんか、聞仲どの」
「そうだな。我らのみいつまでも永らえ、若い者が死ぬなど」
「なぜ、このようなことになるのでしょうか」
聞仲は、答えない。答えることができないのだろう。
「死ねと一言お命じくだされば、この黄飛、すぐにでも首を刎ねますものを」
「待てと言ったはずだ。紂王さまは、お前が自刎することを、望んではおられぬのだ。俺に、確かにそう仰せになった」
「そうでしょうとも——」
黄飛の眼が、上がった。
昨日までそこにあったはずの光は消え、べつのものが燃えているように見えて聞仲はぎょっとした。
「——死すら、許されぬのです。死ぬことなく、生きながらにしてこの果てしない苦しみを味わえと。紂王さまは、そうお命じになったのです」
「落ち着け。そのようなこと、仰せではない」
「申し訳ありません。少し、取り乱しているようです」
黄飛は、自軍に、喪を許可しなかった。兵に、明日の日の出までに城壁の外の戦場の後始末をするよう命じ、自分も同じようにしようとした。
「待て、黄飛。せめて、お前だけでも、少し休め。夕まででも、夜まででもよい。この聞仲が、お前の兵とともに後始末にゆく」
「勿体ないお言葉。兵には、いつもどおりのことをさせてやりたいのです。これまで、何人の兵の死を見てきたか分かりません。兵が一人死んだところで、戦いが止まることなどなかった。我が息子だからといって、ほかの兵のいのちと重さが違う、というように思わせたくないのです」
「気持ちは、分かる。兵らも、分かってくれる。お前一人が休んだとて、誰も咎めはせん」
「——では、少しだけ」
黄飛は、宙に浮いたような足取りで居館の方へ歩いて行った。
そういえば、と見渡しても、明の姿は見えなかった。昨夜は眉季の弔いに参列したいと希望していたが、今朝になってやはり逆上した黄飛に斬られることを恐れて逃げたか。
あの者がどうしたかということよりも、やはり聞仲にとっては黄飛の方が気にかかる。しずかに遠ざかってゆく後姿に、また眼を戻した。
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