得るものを全て得んと欲す
聞仲。
夜が明け、陽が高くなっても黄飛が戻らぬのでどうしたかと気を揉み、人をやって様子を見させた。
使いを命じられた者は、はじめ黄飛の館を訪ねた。いくら呼ばわっても館は静まりかえっており、黄飛はおろか妻や小者の姿すらなかった。
続いて、その者は城外の様子を見に向かった。黄飛が戦場の後処理に加わっているかと思ったのだ。
城外は、静かであった。ただ一人、男がぽつんと佇んでいた。駆け寄ってきて、黄飛から聞仲への伝言の述べはじめた。
「このたびのこと、心より恥ずかしく思います。やはりこの首をみずから刎ね飛ばしてお詫びをすべきかとも思いましたが、しかし、紂王さまのあまりのなさりようは、いかがか」
聞仲の使いは、冷や汗が噴き出てくるのを感じた。
「我が娘は、生きたまま手足を切り落とされました。さらに我が息子の首をも刎ね、それでも恥と罪を抱えて生きよと仰せになる。死すら許されぬほどのことを、誰がしたのでしょうか」
口上を述べる者は、黄飛の古くからの従者であろう、聞仲の使いも顔は見たことがある者だった。それだけに、黄飛の言葉がそのまま述べられているのだという実感があった。
「誰も。誰も、死なねばならぬようなことを、死すらも許されぬようなことを、してはいない。この黄飛は、そう確信する」
おそらく、誰に聞いても同じだろう。しかし、その理屈が通じず、これまで何人がその命を奪われてきたか。
「我が中華には、紂王あり。しかし、同時に、我が天地の間には、我が娘や我が息子があった。それが奪われた以上、私の立つここはもはや中華でも何でもない」
従者の声が、強くなってゆく。
「紂王さまは、私から、天地の狭間にある全てのものを奪ってしまわれた。我が娘も、我が息子も、我が生も、我が死すらも」
ゆえに。従者がひとつ息を継いだとき、どこかで鳥が、みじかい雨を告げるつもりか、高く鳴いた。
「ゆえに、去る。さいわい、我が長子黄天化は生きている。それを我が天とし地とし、私は生きる。紂王さまから賜ったさいごの命令にだけは、従ってゆくつもりだ」
従者は、涙を流している。それを聞く者も、また。
「あなたと顔を合わせ、伝えるべきである。そうすべきだと思った。しかし、会えば、言えば、あなたは私を斬る。紂王さまの言い付けを、守れぬようになる。私がかえってあなたを斬れば、紂王さまに、天下にとって無くてはならぬ人を奪うことになる。そのどちらも、すべきではないのです」
さらば。聞仲どの。そして、いずれまた。
「——それで、全部か」
聞仲は夕陽から逃げるように駆け戻ってきた使いの者からそれらのことを全て聞き、ゆっくり瞼を開いた。
黄飛、出奔す。
その連れていた三千もの兵とともに、商から一人、賢武の男が消えた。
聞仲は、兵の一人もおらぬようになってしまった虎邑について指示を残し、急ぎ兵を呼び寄せ、その到着とともに朝歌に戻らなければならない。まずは、急報を発する必要がある。しかし、どうしてもそれをする気になれず、しばらく呆然としていた。
そのうち、雨が降り出した。
「河北の雨は、少ないものですな」
おなじ雨に打たれながら、申公豹は夕闇に似つかわしくない間抜けた声で笑った。
「南は、もっと雨が降るな。若い頃、南の長江のあたりにまで戦に出たことがある。あのときは、敵よりも、いつまでも止まぬ雨に悩まされたものだ」
「そうですか。私も旅をよくするもので、南の雨と聞けば、たぶん黄飛どのと同じものを思い浮かべているでしょうなあ」
「申公豹とやら」
黄飛の声は、沈んでいる。眼だけ、雨が避けられそうな森に夜営を張ろうと働く兵たちを追っている。
「周は、すごいものだ。朝歌からの報せを俺が受けるよりも早く、我が娘のことや眉季が使者に立てられたことを知るとは」
「ええ。呂尚どのとはわりあい親しくさせていただいていますがね。そうは仰いませんでしたが、もしかすると、眉季さまがあなたへの責めのために殺されてしまうことも、見通しておいでだったのかもしれませんなあ」
黄飛が、少し眼を落とす。
「おっと。申し訳ありません」
「いや、よいのだ」
「商が、恋しくておられますか。今からでも、戻ってはどうです。私は、あなたをお迎えに上がっただけだ。べつに、あなたを力づくで連れて来いと頼まれたわけではないのだし」
兵たちの声が、飛び交っている。黄飛が全員を集め、商を出奔する旨を伝え、残りたい者は残ってよいと言ったところ、ほとんどの者が同行を申し出た。病の母がいるとか、身重の妻がいるとかいう者は、止めずに好きにさせたが、数で言えば数十というところだった。それらも皆、別れの涙で草を濡らすほどに惜しみながら去っていった。
彼らがいる。これまで天に陽がただ一つのみあるのを仰ぐように、国というものを、王というものを見てきた。しかし、兵たちの先頭に立ち、
「黄飛大将でいらっしゃいますな。お迎えに上がりました」
と語りかけ、
「行くあてもなく、これほどの兵を食わせられるとは思えませんが」
と問い、黄飛が眉を沈めたのを見て、
「ですから、私がお迎えに上がったのです。国を作ることのできるところへ」
と笑ったとき、なにか心のうちで大きなものが剥がれ落ちたような気がした。
兵がいる。周には、天化もいる。なぜ出奔したのか、叱責するのではなくただ訊いてみようと思った。
兵と、天化がいる場所。そこが、己の天と地の狭間。そう思えるかもしれない。思えたなら、死すら許されずに生きることにも、意味が生ずることになる。
哪吒。
聞仲の重戦車が発せられたとき、すぐに戦場を離脱していた。その率いる兵七十とともに、
呂尚に、策を授けられている。
——
そう信じ、まる一日以上も同じ姿勢で伏せている。馬は嘶かぬよう、
「ほんとうに、聞仲軍のみ取り残されるようなことに、なるのでしょうか」
姫発は、なぜかこの戦いのときだけ楊戩軍から外され、哪吒のところに付けられている。楊戩の騎馬隊は完膚なきまでに叩かれたが、その中に姫発がいればどうなっていたかと思うと背筋が寒くなる。
「姫発どの。兄哥がそう言ったんだ。黙って待っていてくれ」
「哪吒どのは、ほんとうに呂尚どののことを信頼しているのですね」
「そりゃあ、そうさ」
言っているうち、彼らが見下ろす黎原で作業をしていた黄飛軍が、ひとつに固まった。
「見ろ。なにか、はじまるぞ」
しばらく、黄飛軍はじっと固まり、動かなかった。しかし、急に喊声を上げたかと思うと、一斉に西の方に向かって歩きはじめた。数十だけが残り、やがてそれは散り散りになった。
「黄飛軍が、虎邑を出た——?」
「ほらな、姫発どの。兄哥の言ったとおりだ。今、あの虎邑には、聞仲軍しか残っちゃいねえ。今だ。出るぞ」
逸る哪吒を、姫発が制する。
「お待ちください。黄飛軍三千は、はじめから虎村にいました。しかし、それと聞仲軍三千が、入れ替わっただけのことではないですか。あの城壁の中にいる聞仲軍に、七十の騎馬で突き掛かっても、石に卵を投げるほどのことにもなりません」
「おっ、なんだ、姫発どの。あんた、頭がいいな」
姫発は、しばらく思考を巡らせた。
「呂尚どのは、哪吒どのに、どうせよと仰せになったのですか」
「言ったろう。聞仲が来るはずだ。来たら、何かしら大掛かりなことを仕掛けてくる。お前はそれが始まったらすぐに離脱し、時を待て。少なくとも、二日。その時が来たら、できれば、聞仲の——」
首を獲る。無理なら、引き上げて楊戩たちと合流する。そのような漠然としたものを策と呼べるのかどうかはさておき、哪吒にとっては必ずそうなるという確信のもとに成立する立派な策である。
「では、呂尚どのは、我らだけで聞仲を討てる時が来ると仰ったということです。その時を、もう少し待ちませんか」
「わかった。姫発どのがそう言うなら、そうしようじゃないか」
彼らは、飲まず食わずのまま、二日目の朝までそうしていた。
果たして、その時は来た。
城壁から、三百ほどの歩兵が吐き出されてきた。
その先頭の男が握る槍が巨大で、あれが聞仲の大刃槍だと一目で分かった。
三年近くこの虎邑に駐屯していた黄飛軍が突如として姿を消し、その混乱を鎮め治安を維持するため、聞仲自らが兵を連れて城の内外を哨戒しているのだろう。
「まさか、ほんとうに、このようなことが」
姫発は、遠く離れた豊邑において、場所も時間もかけ離れたところで起きる事象を言い当てる呂尚が、恐ろしくなった。
「なあに、驚くことはねえ。兄哥はいつも、じっと一点を見つめていたり、口の中だけでなにかを呟いたりしているだろ。色々なことを、こうなったらああだ、ああなったらこうだ、とずっと考えているのさ。それこそ、何日も眠らないことがあるくらいにな」
哪吒は兵に向かって手を挙げた。空腹を通り越して頬がこけ、目の血走った兵が、一斉に騎乗する。
「あれが敵だ。商大師聞仲。首を、ぶっ飛ばしに行くぞ、お前ら」
森から飛び出し、疾駆。豆粒のようだった敵が、みるみる近くなる。聞仲軍もすぐに気付き、哪吒らを指差してなにごとか叫び、散開する。弓を前に出そうとしたが、騎馬があまりにも速く、間に合わない。
「黄飛どのが、もし周に寝返ったのだとしたら。呂尚どのは、はじめからそうなるよう仕向け、さらに、あわよくば聞仲の首もここで獲ってしまおうと——?」
「姫発どの!」
馬を駆りながらまだ小難しいことを論じている姫発を、哪吒が鋭く止める。
「余計なことを考えるな。死ぬぞ。今は、俺を止めようとする敵を倒すことだけ、考えろ。俺の道を拓け」
「分かりました」
聞仲。先頭である。槍を、深々と構え直している。
歩兵が剣や槍を手に、身を盾にするように踊り出してくる。
哪吒がまずぶつかる。火尖槍の一振りで、数人が藻屑のように吹っ飛んだ。
これは獲れるのでは、と姫発は思った。楊戩も信じられないくらいに強いが、その強さは静かである。だが、哪吒にはそれこそ火炎が盛るような爆発的な力がある。哪吒の道を拓くどころか、追い付くので精一杯である。
いける。
哪吒の進路を妨害しようとする兵も、間に合わない。武器を繰り出す頃には、哪吒はもうそこにはいない。
三百。聞仲を守るためにあらわれた人の壁は、厚くない。
哪吒が突撃したところが、竜巻が通った痕のように空白になっている。姫発の位置から、哪吒が聞仲に火尖槍を繰り出すのが、はっきり見えた。
ふたつの槍が、重なる。かろうじて、それを目で捉えることができた。
獲ったか、と思った瞬間、姫発の身体はまた馬腹を無意識に蹴っていた。
「突撃しろ!哪吒どのを助けるのだ!」
わずか一合。盛る炎すら吹き消してしまう、落雷のような気合いとともに振り上げられた聞仲の大刃槍が火尖槍を弾き、馬の首を断ち切って馬上の哪吒ごと吹き飛ばしていた。
即座に殺到してくる騎馬隊を見て、聞仲は退却を命じた。突撃を許せば、危ないと判断したのだろう。さすがの見切りである。
哪吒は、姫発に救い上げられ、その馬尻に乗せられて退却した。気を失っていたが、火尖槍を離すことはなかった。
騎馬隊はそのまま離脱し、先に退却している楊戩らに追いつくべく西を目指した。
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