李靖、間を謀る
慟哭
「あわよくば聞仲を、と思ったが、やはり高望みであったか」
呂尚は剣を李靖から受け取り、腰に戻しながら言った。しばしば、手入れのために腰の打神剣を李靖に預けることがある。そういうときも、やはり、
この市外れの李靖の鍛冶屋は、繁盛している。店は腕のいい者に任せていて、李靖が鍛冶場に立つことはほとんどない。建屋と
職人の全てが、李靖の手の者である。この数年をかけ、育ててきた。はじめ、豊邑に出入りする噂などを集めるためのものだったが、今は情報収集機関としての、表に出ない役割が大きくなっている。各地に散っている者を合わせると、李靖の手の者だけで百を超える。斉や楚など遠方のことや、北や西の異民族のことについては、地域の豪族に銅器を贈るなどして懐柔し、情報源として働かせている。
だから、呂尚は、一般客の立ち入る店先でない限りは好きに謀の話をすることができた。
李靖の手の者は、呂尚の指示を戦場にもたらすこともある。この時代に伝令という仕組みがあったかどうか知らぬが、無かったならばその先駆けとも言えるかもしれない。今、呂尚は、哪吒が聞仲を討ち損ねたという報告を聞いたところである。
「策には、一分の隙もありませんでした。黄飛どのも、こちらを目指して進軍を続けているようです。味方を増やすということは、敵を減らすということ。それだけでなく、黄飛どのの軍のいなくなった隙を突き、聞仲を討ち、虎邑を奪う」
「しかし、頭で考えることが、かならず真になるとは限らん。聞仲がもし討てれば、と思っただけだ。哪吒は、無理押しはしなかっただろうな」
「ええ。姫発どのを付けたのが、よかったようです」
「哪吒は、優しい。姫発どのが共にあれば、それを重んじる。無理押しはしないと思った。姫発どのも、ゆくゆくは将帥として人を導いてゆかねばならぬと思い定めておられる。哪吒が一人走りを始めそうになったら、それを止めるくらいはするだろうと考えたのだ」
呂尚の言うとおり、姫発は所属こそ楊戩軍の副長というようなところであるが、すっかり一軍の将くらいは務まるほどの才を見せている。しかも、ゆくゆくは姫昌のあとを継ぐのである。彼の存在が、周やそれに加担する諸勢力の裏打ちになっていると言っても過言ではない。
「まあ、黄飛どのがこちらに加わってくれるだけで、当初の目的は叶うのだ。それでよい」
「申公豹のことは、お訊きにならぬのですね」
李靖が、道具を片付けながら、窺うように言う。
「聞いたところで、だろう」
申公豹のやり方には、眉をひそめざるを得ないようなものもある。長く姿を見せないと思ったら、長い間、化けて他人として生き、人を欺いて殺し、その副作用あるいは反作用として呂尚のもとめた効果をもたらしたりする。
今回のことも、そうだと呂尚には見当がついている。そうでなければ、あれほど忠心厚い黄飛が商を去るはずがない。
黄夫人の死。その責めを負わせるための眉季の殺害。すべて、申公豹が仕組んだか直接手を下したかである。
虎邑攻めを進言したのは、申公豹だった。彼は黄夫人の死のあと、どうなるか知っていた。それを報せる使いに、黄眉季が立てられたことも。
何をどうして潜り込んだかは分からない。だが、申公豹は、黄眉季を殺し、それが紂王のせいだとして黄飛の心を商から引き離すことができるほどの信憑性のある位置の者になりきり、すぐそばにいた。それを、考えついていた。だから、虎邑を攻めろと言ってきたのだ。
「今は、あの男に頼らざるを得ない。だから、目をつぶるしかない」
「ええ。しかし、いずれ、国のかたちが見えてきたとき、あの者のやり口が人に知られれば、どうなることか」
「先のことを案ずるのは、悪いことではない。しかし、あの男は、心根から狂っているわけではない。どこか、人として純粋なところもある」
呂尚が人のことについて評価することは、あまりない。だいたい、端的な事実を述べるに留まるのだが、申公豹については、哪吒や楊戩ら、申からの馴染みと同じように、その心の内のことまで評する。
買っているのだ。間違いなく、呂尚にはできないことをしている。申公豹が周に所属せず、呂尚の腹心ともならないのは、呂尚たちにとっても好都合である。
「おれは、やはり、ひどい人間だ。あの男のすることを耳にすると、反吐をこぼしそうになる。それでいて、あの男が何かをするのを、決して止めることはない。それどころか、期待してさえいるのかもしれん」
「あまり、ご自身のことをそう仰いませんよう」
「実際、そうなのだ」
呂尚は、思う。もし、李靖が懸念するように、申公豹が請け負っている暗い仕事が明るみに出たとき、自分は何のためらいもなく、周とは何らかかわりがなく、申公豹なる人物に周が報償を与えたこともないと言って切り捨てるだろうと。申公豹の、未だ来らぬ先のことを自ら作る手腕には感服し、そのやり口については恐ろしいと思うが、呂尚がほんとうに恐ろしいのは、今想像するように申公豹などよりもよほど自分の方が人でなしであろうという確かな実感である。
店の外が騒がしくなったので、申公豹の話題は打ち切りになった。
「黄飛どのが、到着されたのだと思います」
すでに、李靖は手の者から今日のこの昼間に到着するはずと知らせを受けているから、落ち着いている。
「そうか。では、迎えにゆくとするか」
呂尚は平服のまま、気軽に足を店先の方へ向けた。
黄飛は、申公豹に先導され、南の城門から堂々と入城してきた。姫昌のいる宮までまっすぐ伸びた街路を通るから、もちろんこの市も通過する。
三千の兵も、埃に汚れてはいても飢えていたり肩を落としていたりする者はいない。先頭の黄飛に歩調を揃え、子供が指をさして声を立てても咎めることなく、まっすぐに進んでゆく。
「黄飛どの」
呂尚が、罪人の処刑や民への触れ事をするときに使う市の広場で待ち受けるような格好で迎えた。
「これは、呂尚どのか。久しいな。なんでも、今ではすっかり姫昌どのの側人だとか」
言葉に、やや皮肉がある。黄飛にしてみれば来着の挨拶と参軍の許可は姫昌に対してするものであり、呂尚にするものではないという意思表示のつもりであろう。
「そうかもしれません」
呂尚には皮肉が分からぬのか応じるつもりがないのか、いつもどおり色のない声の調子である。
「そちらは、李靖どのか」
「お久しぶりです、黄飛どの」
李靖が、つつと進み出る。
「黄飛どの。まず、姫昌どののところに参られるおつもりか」
「無論だ。この黄飛、ゆえあって商を脱し、周に参じた。そのお許しを求めるのは、姫昌どののほかあるまい」
「では、呂尚どのがご案内なさるでしょう。しかし、その前に、あなたがこの豊邑にやって来られたほんとうの目当てを、叶えて差し上げたいと思ったのです」
「と言うと——?」
訝しがる黄飛の視界に、別の人影があらわれた。
「お久しうございます、父上」
「——天化」
しかし、その姿は、黄飛の知る天化ではなかった。あれほど充溢していた覇気は消え、体もわずかに小さくなったような気がする。
「天化どのがおられる。だから、この豊邑を目指された。違いますかな」
呂尚が、眠そうな目のまま言うのに答えず、黄飛は震える両手を天化の肩にやる。
「なにをしている」
天化は、表情を変えることはない。
「ここで、なにをしている」
「断りなく朝歌を辞したことを、今さら責めるおつもりですか。そういう父上こそ、ここで何を?」
責めるつもりはなかった。ただ、久しぶりに見る息子の姿に、思わずそういう言葉をかけてしまっただけである。
「俺か。俺は、何もできなかった。済まん、天化。お前の妹も、弟も、この父が不甲斐ないために命を落とした。朝歌にあるお前の母も、おそらく無事ではいまい。全て、父のせいなのだ」
枯れたはずの涙。それが、また黄飛の瞳から溢れた。
「父上」
しばらく黙り、天化は静かに父を見下ろした。
「妹や男がすでに命を落としたとは、誠ですか」
「そうだ。お前には、辛い報せであろう。全て、この父のせいだ。お前に斬られるなら、俺は喜んでその誅に服する」
「武人気取りは、おやめになられた方がよい」
なに、と眼を上げる黄飛に、天化の静かな視線が言葉を織る。
「私は、知ったのです」
「なにを知ったと言うのだ、天化よ」
「武人として、生きてきました。しかし、武人として死ねなかった。あろうことか、その先を見よと私に言う人がいたのです」
天化の胸の首飾り。それが、陽光を吸ってひとつ瞬いた。
「生きろと。生きていよと。私が何者であるかは、その人は問わぬそうです。ただ、思い出すために。そのためだけに、生きていてくれと」
黄飛は、少し息を飲んだ。間違いなく、これは女の話である。女になんの関心も示さずに過ごしてきた天化の心にこれほど深く杭のようなものを打ち込める女など、一人しかいないではないか。
「だから、私には、剣は要らぬようになったのです」
それ以来、一度も剣を抜いていない。武人である必要がなくなったのだから、当たり前だと天化は思っている。
「父上が、妹や弟を手にかけられたわけではありますまい。だとすれば、彼らの命を奪ったのは、父上ではありません。彼らの命を奪った者が、奪ったのです」
天化は、口を閉じた。ぱらりと翻る裾に、ただ提げているだけの剣の鞘が触れて揺れた。
「黄飛どの」
李靖が、地に両手をついた格好の黄飛のそばに屈み込む。
「よかったですね。天化どのは、ああして生きておいでです。今は静かでも、たしかに生きて言葉を発し、あなたのせいではない、と黄飛どのを気遣う心をお持ちです」
虎が吠えるようだった。
黄飛の慟哭を、誰も止めはしなかった。
呂尚はそれを静かに見つめながら、黄飛をここに
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