溶ける影
商の一行は、翌朝、豊邑の城門を出た。また、朝歌を目指す船まで渭水沿いに歩いてゆくのだろう。彼らは、威容を見せつけるため、豊邑から一日の距離の邑に船を停めていた。
姫昌や重臣らは城門の前まで見送りに出て、その姿が見えなくなるまで頭を下げていた。
「姫昌どの」
ようやく頭を上げた姫昌に、黄天化が声をかける。
「お怒りでいらっしゃるか」
姫昌は、しばらく黄天化の目の色を読んでいたが、ふとやわらかな線を頬に浮かべ、いや、とかぶりを振った。
「なぜ、お怒りにならぬのです」
「怒るなどと。怒って、どうなるのだ、天化」
「どうしても我慢ならぬことが、この世にはある。今、まさに、それを身に沁みて味わっておられるのでは?」
「さあ。どうなのだろう。——私は、もう、どうでもよいと思っているのかもしれん」
傍らで、次男の姫発が、心配そうに父親を見上げている。
「私から、あえて言いますまい」
黄天化は、姫昌が浮かべる諦めの色に似たものを言葉に浮かべ、立ち去った。父親の黄飛は何のことか分からぬようで、姫発と目を合わせて、瞬きを二つ残している。
ところで、商の一行が、遥か向こうの伏牛山の姿を右手に見上げながら、そこを駆け上がる風が冷たくなっているのを感じたころであろう。陽が暮れかけていた。
その行く手で、火を手にしながら待ち受けている者がある。一行のうち護衛の役割を担う十人ほどが前に出て、それぞれ剣を手に
「おお、おお、やはりお通りになった」
一行のうち、腰にやたら大振りな剣を佩いた一人が、火を揺らして声を出した。
「我ら、このすぐ先の邑の者でございます。商王様のお使いの一行がお戻りになられるのではと、我らの邑をお発ちになってから、こうして夜の案内のために船番と交代で迎えに出ておりました」
「もうすぐ日が暮れそうだというのにお見えにならぬから、今夜も豊邑にお泊まりかと」
別の若者も、火を振って嬉しそうな声を上げた。
たしかに、行きの旅程で最後に宿を取った邑が、すぐ東にある。渭水に沿っているから、彼らはここに船も付けていた。
父老の家に泊まり、礼として財を与えたから、帰りもそれを目当てにしていたのだろうと一行は思った。
豊邑から朝歌までの距離は、それを長安と洛陽とするならばおよそ三百七十キロメートルほど、おそらく直線距離で東京から京都か奈良くらいの距離がある。
船といってももちろんエンジンもなく、また帆もない時代であり、動力は人力による
また、手配が行き届かず役人の不興を買えば、どのような禍いがもたらされるか分かったものではないから、邑々の者は父老を中心として、できるだけ商王の遣いであることを示す旗を掲げる一行を歓待した。
だから、護衛の者も剣を納めた。なにも、不思議ではない。
ふつうと違うことが起きたとすれば、はじめに声を発した者が道脇に伏せず、ただ身を開くようにして道を示したことである。
無礼であろう、と護衛の者が咎めるために近寄る。礼も何も知らぬ若造に、怖い思いでもさせてやるつもりだったのかもしれない。
「道脇に退け。伏せよ」
と、護衛の一人が若者の肩に手をやりかけた。
その手が、いきなり飛んだ。
何が起きたのか、誰にも分からない。手を飛ばされた者ですら、叫びを上げはじめるまでただ鮮血の噴き出る左手を眺めていた。
それを皮切りにもう一人の若者が猿のように
跳躍して取って返し、ほんとうの猿のような叫びを上げながら、二人の喉を突き刺す。ほとんど同時と言っていいほどに素早く、そして正確に喉笛を貫いていた。槍が翻るとき、西陽を吸って炎のように見えた。
護衛の者は、形式の上で従っているまでであり、まさか道中に自分たちを襲うような者があらわれるとは思っていない。それが、現実に存在する。それを知覚したときには、もう五人までが剣と槍によって斃れていた。
声にならぬ声を上げ、周公に羹を下げ渡して得意になっていた役人がもと来た道を逃げた。冠や衣装からして、商王の言葉を直接伝えるに値する地位の者なのであろうが、目の前で暴れ狂っている二人の凶賊と、その振るう恐ろしい刃の前では無意味だった。
逃げた。護衛の者は、残りの人数で暴漢に応戦している。
逃げたが、十歩ほどでその足が止まる。
彼らの退路を、ふたつの影が遮っていたのだ。
それは、ちょうど、西陽を背負っていた。だから、顔は分からない。
一人が、抜剣する。役人も、震えながら応じて美々しい飾りのついた剣を抜いた。
「これが人なら、殺めることを躊躇うべきであろうなあ」
西陽を背負い、一人が呟いた。その影は、どうやら抜剣はしていないらしい。
「しかし、人ではない。お前たちを、おれは、断じて人とは呼ばん」
役人が、汗を垂らしている。目をこらすと、その影は、両腰に二本の剣を佩いているのが分かった。
「なにを、卑しき分際で、神なる声を預かる我らに向かって」
掠れた声でも、そう応じることができた役人の一人は、まだ骨がある方であろう。
影は、それを受け、くくと喉を鳴らした。笑ったらしい。
悲鳴。するすると進み出た、抜剣している方の者が、役人の一人の胸板に剣を突き立てている。引き抜くと、血が西陽に輝いた。続けざまに、三人。
「おなじだな、おなじ、赤ではないか」
屍体となったそれらを見下ろし、二本の剣の影が呟く。
残ったのは、まだ骨があると思われる一人で、姫昌に、直接王の言葉を下賜した者である。
当時、王は、遥か太古の神の末裔であると自称した。実際、商の始祖はそもそも、ある女が天からやってきた玄鳥の卵を食べたがために孕んだ子であると伝えられている。彼らの姓名を示す甲骨文字は、龍や蛇のような尾を持つ生き物をあらわす字があてられており、のちの皇帝たちよりもさらに彼らは神と近しかったわけである。
だから、王の言葉は神の言葉に近いものであるとされ、まだ法なども存在しないこの時代においては、その神聖性が王の王たる所以とされるふしがあり、原始的と呼ぶには先進的な彼らの文化的秩序を形作っていた。おそらく、もっと始原的なアニミズム信仰に見られる、神々や精霊の声を聞く者が王となるというようなものの名残なのであろう。
王の言葉を持って豊邑にやってきたこの高官は、以上の理由で、道を塞ぐこの凶賊どもと比べ物にならぬほどに神聖であるはずであった。
それは、この高官が、今目の前で起きている信じられない惨状から自分を遠ざける、唯一の理由であった。ゆえに、それを行使した。
「今一度言う。我らが、神なる声を預っていると、知ってのことか」
陽は沈むその刹那、いっそう赤く輝く。それだと思った。しかし、そうではなかった。
影だけを西陽に溶かしていた得体の知れぬ影の腰から、二本の光が
一本は高官の腕を肩の付け根から綺麗に斬り飛ばし、ほんの一瞬遅れて繰り出されたもう一本は、首の付け根を捉えている。
「お前が神なる者なら、この打神剣の試し斬りには、ちょうどよいではないか」
高官と、目を合わせた。そのまま、首にかかった剣を引く。首が、するりと外れるようにして落ち、少し後に血が飛び、あとは静かな渭水の流れの音だけが天地の支配者となった。
護衛の者も、すべてその血を土に吸わせている。
「この者らの屍体は、どうしましょうか」
護衛にあたっていた者、役人にあたっていた者、四つの影が、一つになった。
「渭水に、放り込んでおけ」
二本の剣の影が呟くように言い、剣についた血を屍体の衣で拭って鞘に納めた。
「木に吊るして晒したりせずとも、よろしいのでしょうか。この役人どもが我らをそう扱うように」
「よせ。同じ、赤だった。その血は、流れに洗わせておけ。流れは、同じように、何事もなかったかのように澄んだままでいるさ」
どういうことかは分からない。しかし、言われた者はそのとおりにした。
「はじめてのことで、震えているのか」
「いいえ、兄哥。震えてなんかいません。そう言う兄哥こそ」
「そうかもしれん」
「しかし、見事なものでありました。私がはじめて人を斬ったときは、剣が折れてしまったものです」
「なあに。獣も人も、肉のつき方は同じさ」
驚くべきことに、四つの影は、これだけの人数を相手に、夥しい血を流すような真似をするのがはじめてであった。だから、何かを紛らわすように、互いに、言葉を交わし合いながら西を目指した。
やがて陽は落ち、その影も声も、夜に溶けていった。
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