呂尚、画策す

 呂氏一党は、鐘が何を告げているのか確かめに、姫昌の執務用の館に向かった。

 彼らの宿舎を出て豊邑の中央を貫く大通りに出たとき、その正体を知った。


 商のものであることを示す旗。それを先頭に、大層な行列が威容を誇示するようにゆっくりと姫昌のもとに向かっている。

 館の前には、姫昌の姿。迎えに出ているのだろう。旗が近づき、うやうやしく頭を下げた。その後ろには、緊張した面持ちの黄親子。


 ——おれがちょうど周に入ったその翌日に、早速、のか。

 何だろうと伸び上がり、なにか囁き合う人々の中、呂尚だけが眉を暗くしていた。


 商の使者は、王からの使者であることを示す体裁を取り、王の言葉を伝えた。

「周公姫昌。そなたは、よく土を肥やし人を安んじ、その功は計り知れない。奇しくも、その子姫考は、そなたのもとを離れ、もう戻ることがなくなった。そなたに、日頃の功を讃え、かつ、姫考と引き換えるため、これを下すものである」

 姫昌は、内心はともかく、王の言葉を述べる使者に向かってぴったりと頭を下げたままである。


 差し出したその手に、木箱に容れられた器が渡された。なにか、液体が入っている。

「これは——あつもの?」

「世にも珍しい獣の肉を用いてある。心して食せ」

 羹とは、今で言うスープのようなものである。遠路、わざわざ運んでくるには無理がある。昨夜のうちにでも作らねば、腐る。まず、そこに呂尚は引っかかったし、姫昌も意外なものの出現に戸惑っている。


 人々が、何が何だか分からないといった具合に様子を見守る中、姫昌はその液体をしばし眺め、俯き、唇を噛み、やがて目を上げ、一息に飲み干した。

 なにか、悟ったらしい。


「結構。以上である」

 器を回収すると、使者は黄親子にちらりと目をやり、立ち去った。姫昌の家臣があわてて追いかけ、その日の宿のことを尋ね、もてなすために政務の館に入るよう勧めるという決め事どおりの礼を施した。


 その夜も、宴であった。呂尚も呼ばれたために同席したが、酒は過ごさぬようにした。

「いや、しかし、姫昌どのは、たいした器だ」

 と使者は上機嫌である。

「与えられた羹を、何かも分からぬまま、飲み干すとは」

「全くですな。世にも珍しい獣とは、よく言ったものだ」

 姫昌は杯を握ったままの手を、ぶるぶると震わせている。


 ——あれが何だったか、やはりこの人は分かっているのだ。


 そう思うと、呂尚の赤い血を、それを煮やし湯気にしてしまうほどの怒りが巡った。


 ——こいつらは、にんげんではない。


 思った途端、立ち上がっていた。


「何かね、あなたは」

「姫昌どのに用いられております、呂尚と申します」

「無礼であろう。いきなり」

 使者どもは、口々に呂尚を罵る。

「ひとつ、お尋ね申し上げたい。あの羹は、朝歌でこしらえたものを、わざわざこの地へ?」

「そうだが」

 使者の一人が、訝しい顔をして返答した。

「道中、腐っていれば、どうなさったのです」

「それは——」

「呂尚どの。無礼ですぞ。この時期、もう寒いのだ。腐ることなど、ありはすまい」

 周の役人の一人が、呂尚をたしなめた。

「それも、そうですな。しかし、朝歌からこの豊邑までの日数、舟を用いても相当に時がかかる。いかに寒くとも、かならず腐らず運んで来られる保証はない。それに、届けるなら、別のものでもよかったはず。なぜ、商王は、わざわざ羹のような、運びづらいものを?」

「貴様、商王のお考えに、何か得心のゆかぬことでもあるのか」

 滅相もない、と呂尚はわざとゆっくりかぶりを振り、さらに続ける。

「ただ、不思議だったのです。私のような浅はかな者では、商王のお考えは、とうてい計り知れない。ゆえに、使者たるあなた方なら、その答えを与えてくださるのではと思ったまでです」

 周の役人の一人が慌てて取りなす。

「いや、使者どの。この者、じつは昨日召し抱えられたばかりで。新参ゆえ、我らが商にどれほどの恩を受けているかも知らず。大変、申し訳ございません」

 呂尚は、失礼を申し上げました、どうかお許しください、と笑みを浮かべ、着席した。


「ところで」

 着席したところで、さらに呂尚の声が大きくなる。この場にいる誰もが、ぎょっとして注目した。

「商王は、あの羹を、その珍しさがゆえに下されたのでしょうかなあ」

「これ、呂尚どの」

「ああ、失礼。独り言です。酔うと、どうも」

 呂尚は杯を置いたが、また大きな声を出す。

「私には、どうも、珍しさのためではなく、こと自体に、意義を感じておられたように思えるなあ」

「呂尚」

 姫昌である。やりすぎたか、と思ったが、その顔には怒りではなく、悲しい諦めが浮かんでいた。


「もうよい。使者どのがいらしているのだ。旅の疲れを癒やしていただくため、山河の珍味を楽しんでいただければ、それでよい」

「姫昌どのが、そう仰るなら」

 呂尚はそれきり何も言わず、目を閉じたまま座を過ごした。酒乱の気がある、と誰もが思ったであろう。使者たちもはじめは呂尚の無礼さに腹を立てていたが、周公自らのもてなしに機嫌を持ち直し、夜が更けると散会になった。


「呂尚どの」

 帰路、月から隠れるようにして暗がりから呂尚を呼び止める声。何者かと目を細めると、月が見下ろす位置にあらわれたのは黄天化であった。

「これは、黄天化どの。いかがされた」

「酒のせいであっても、よろしくないな」

「ああ、先程は、失礼いたしました。なにせ、慣れぬ周の酒を、二晩も過ごしたのです。自分が何を言っていたか、よく覚えておりません」

 老人のような欠伸をした。実際、呂尚は見方によっては年齢よりずっと老けて見えるから、若い黄天化はもしかすると呂尚のことをほんとうに老人だと思っているかもしれない。


「商の使者への無礼は、あなたが恩を受けた周公の首を絞めることになるぞ」

「首を絞める?」

 呂尚はわざと考えるような素振りを見せ、

「——落とす、の間違いではないのか」

 と目を鋭くした。黄天化は、はじめて見る呂尚の表情に、なぜか少したじろいだ。

「黄天化。お前は、あの羹が何なのか、分かっているのか」

 急に言葉遣いがぞんざいになる。月を吸った瞳だけが光り、遥か神の代の生き物のようだという印象を黄天化に与えた。

「羹、羹と、うるさい奴だ。あの羹が、何だって言うんだ」

 吊り込まれ、黄天化の声が荒くなる。そこへ、呂尚が言葉を挟み込む。ちょうど、肉を骨から外すときにとうを入れるように。


「分からぬのだな。あの羹は、考どのだ」

「なに?」

「考どのだ。殺されたのだろう。それも、朝歌で切り刻まれ、塩漬けにでもしてこの近くにまで運び、羹に仕立てたか、あるいは罪人のようにして近くまで引き出し、殺したか。あの連中のことだ。周に帰してやると嘘をつき、喜んでいる考どのを見て、笑っていたかもしれん。酷いことだ。たぶん、周公にそれを食させるためだけに。それを、面白がって」

「まさか……では、姫昌どのは」

「分からぬほど、あの人は暗愚でない。それは、お前の方がよく知っているであろう」

「知っていて、あえて?」

 知っていて、あえて。愚かであると嗤われても、商に歯向かって人を死なせるより、ましだと思ったのか。考は殺されたが、それを恨み、商に牙を剥けば、もっと多くの人が死ぬ。それを、嫌ったのだろうか。

 黄天化は呂尚の言うことが信じられぬという風でありながら、しかし、疑いはしていないようであった。ずっと、黙って自分の背を月に曝している。


「それを知ってなお、お前は、あの人を斬るか」

「なにを——」

「みなまで言うな。お前たち親子がなぜここに遣わされているのか、見当はついているのだ。しかし、お前は、その剣をこの豊邑で抜くことはない」

 父を助けてやるから、という交換条件のもと考が商王のものになれば、用済みになった姫昌はかえって殺され、考は、一生、外の情報に触れることなく、商王の玩具となって生きていったであろう。姫昌が考の死を知り、怒りをあらわすなら、それを罪として殺す。そのどちらにもならなかった。姫昌は、そのどちらも選ばなかった。


「だから、黄天化。お前は、その剣を抜くことはないのだ」

 黄天化は、絶句している。それが言葉になったとき、

「ほんとうに、そんなことが。何の罪があって」

 と呟いていた。

 この時代、法というものはまだない。しかし、罪を犯せば罰は受ける。いったい、どれほどの罪を犯せば、身体を切り刻まれて羹にされ、親のもとに送られるのだろう。また、どれほどの罪があれば、我が子の羹を食わされるのだろう。

 黄天化は、良くも悪くも武人である。だから、ひどく衝撃を受けている。


「これが、商だ。そうだろう、黄天化」

 答えはない。それでいい。これ以上お互いに何かを言えば、たぶん、彼は呂尚を斬らなくてはならないようになる。


 夜の間、姫昌の館からは嗚咽が漏れ聞こえていた。呂尚も、黄天化も、眠ることはできなかった。

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