鐘が鳴っている。そう思い、目を開いた。

 開くと、鐘ではなく頭痛なのだということが分かった。

「お目覚めですか」

 ぐわんぐわんと揺れる視界に、妲己のうっすらとした笑み。黙って立ち上がり、水を汲んで戻ってきた。


「酒を、過ごしてしまったようだ」

 飲み干し、そう言うと、妲己はおかしそうに喉を鳴らした。

「——醜態を晒したか、おれは」

 酒臭いため息を吐き、顔を洗おうと井戸に向かう。


 水の冷たさに驚いた。その冷たさから、あやふやな記憶を手繰り寄せてみた。

 たしかに、酔っていた。なにかまずいことは口にしなかったか、と思い返したが、たぶん大丈夫だろうと思った。

「この地にお招きいただいたからには、周公にこの身を捧げましょう。ともに、いずれ大魚を釣り上げようではありませんか」

 と叫んだのが、唯一まずかったか。しかし、具体的に何をどうするという話ではないから、問題はないはずである。姫昌は呂尚の言葉を聞き、涙を流して喜んでいた。


 顔を洗っている姿を、哪吒に見られた。あっと声を上げ、取って返して楊戩と李靖を呼んできた。

「兄哥。だいじょうぶですか」

「ゆうべは、ひどくご機嫌でしたな」

 などと皆が言うのに対して、呂尚は鼻を鳴らして答えた。


「酔い、乱れたと思ったか」

「それは、もう。呂尚どののあまりの変わりように、驚きました」

「楊戩。お前がそう思うのなら、おれの思惑は当たったということだ」

「思惑?」

 呂尚が言うには、こうである。


 周公自らが誘い、迎えを出し、手を引くように宴の場に着座させたを、快く思わぬ者もいるだろう。だから、わざと酔ったふりをし、なんだ、ただ酒に弱いだけの小物か。と安堵させる。その方がこの新しい天地で立ち回りやすい。はじめから才人一行がやってきたとあれば、何かにつけて足を引っ張ってくる者がかならずあらわれる。


「さすが、兄哥。そこまで考えていたなんて」

「それだけではない、哪吒。おれは、昨夜、ああしながら、あの場にいる者をじっくり観察していたのだ」

「と言いますと?」

 まず警戒すべきは黄天化。あれは商の遣わした者で、今はただの目付役だが、いつ刺客になるか分からぬ。そのことを、教えてやった。

「いけ好かねえ奴だ。俺がぶん殴って、言うことをきかせてやる」

「駄目だ、哪吒。あの者に何かあればすぐにそれは姫昌どののせいということになり、姫昌どのは誅殺されるぞ」

「楊戩どの。では大人しくしてるしかないということですか。それとも」

 楊戩が思慮深そうな眉に陰するところへ、口数の少ない李靖がぽつりと言葉を置いた。


「呂尚さんは、姫昌さまをどう思う?」

 呂尚は、あまり言葉の多くないこの朴訥な職人の思考を測るように目を少し細め、答えた。

「まず、天下のどこを探しても見当たらぬほどの徳人であるな。さらに、心優しい。ああいう公が立つところは、どこでも人が集まり、豊かになるだろうな」

「そうか。じゃあ、呂尚さんは、姫昌さまが好きか」

「好悪で問われれば、もちろん好となろう」

 李靖が何を気にしているのか、分かる。李靖は親を商王に殺されており、その怒りが血の中で猛り狂っているのだ。鍛冶屋を捨ててまでここにやって来たからには、何かを為すことができるかもしれぬと思っているのだ。


「俺は、楊戩のことが好きだ。こいつなら、天下のどんな悪でも斬り伏せることができる。そう信じている。その楊戩が信じて己を託した呂尚さんも、好きだ。だから、あんたから見た姫昌さまがどうなのか、聞いておきたい」

 単純な理屈であるが、人間として信用できる。申からの旅の途中はいくらか会話はしたが、ここではじめて呂尚は李靖という人間の重要な一部を見た。

「お前の恨みや怒りを、姫昌どのが肩代わりしてくれるかどうかは知らん。だが、おれは、人の上に立つ人というのは、ああいう人でなければならないとは思う」


 呂尚は、偉そうに語っているが、実際のところは、ゆうべは慣れぬ酒にただ酔っただけである。彼らに恥ずかしいところを見せたくなかった。そういう部分が、この変人にもあるらしい。

 どうやら、うまくごまかせたようである。呂尚は話の主題を、別の方向にやった。単にそれだけの目的であったものが、思わぬ重みのある言葉になって出てきた。

「いつ切り出すか、迷っていた。いつでもいいし、言わなくとも何も変わらない。だが、今、言っておくことにした」

 三人の顔が、真剣になった。

「おれは、周公をかつぎ、天下を釣る」

 哪吒があっと声を上げるのを、楊戩がしっ、と押し留めた。

「それは、つまり」

「商を、倒すのだ」

 それこそ釣りの話でもするくらいの様子で、呂尚はおそるべきことを口にした。

「おれはかつて、朝歌にいた。宮仕えをしていたのだ。おれの出た一族からは、商王の正妻も出ている。そういう縁だった」

 これは、誰も知らなかったことである。おそらく、妲己さえも。


「はるか昔、おれの何代か前までは、この周のさらに西の山で家畜を飼っていた」

「それは、もしや」

きょうだよ。おれの姓は、姜という」

 夏からはじまる彼らの文明圏において野蛮と蔑まれる周辺民族である。この時代になると同化も進み、名家も出てきて、一族の中には呂尚の言うとおり妃を出すほどの格を持つものもある。


「呂というのは、子供のころ、そういう邑に住んでいたことがあるから、呂の尚だと名乗っていたものが、知らない猫が棲み着くようにしておれの名になったものだ」

「兄哥が、姜族——いや、どこの誰だって構わない。兄哥はこんなに頭がよくて、これからも多くの人を助けることができる人なんだから」

「おれがどれほどのものなのか、おれ自身にはよく分からない。だけど、お前がそう言ってくれることは、単にうれしいと思う」

 呂尚が、感情を表現している。これは、珍しいことである。自分のことを語ることもなかった。今、彼は、胸のうちにあるものを、この三人と共有しようとしている。そう見える。そのためには、掴みどころのない肉屋のままではいてはならないのだ。


「姜尚。あざな子牙しが。この名を、今後も用いるつもりはない」

「我々も、これまでどおり、呂尚どのとお呼びするようにします」

「楊戩。あなたは、商が憎いと言って役人を斬っていたな」

 そして身を追われ、呂尚に知恵を借りに来た。

「憎むべきは、役人ではない。おれは、そう言ったと思う」

「たしかに、そのようなことを仰いました」

「ならば、お前のその剣は。李靖が自分の血と共に流れる怒りをもって作った、その剣は」

 何のために、どこに向けて振るうのか。


「ただ一人。商王に向けてだ」

 朝日を指差した。三人は目を細めたが、少しして顔を呂尚に戻したとき、東を指しているのだと認識し直した。

「葉の色が悪く、実もならぬようになった木がある。それをどうこうするのに、枝を払うのが、ほんとうに正しいか」

「そういや、裏に住んでた爺さんは、柿の木が駄目になった、と言って幹ごと切り倒していたな」

「そうだな、哪吒。それがよいときもあるだろう。しかし、幹を残しておけば、またそこから新たな芽が吹くやもしれん」

 根から断つ。商王一人を殺して終わりではない。ただ殺しただけでは、すぐに同じような行いをする者が同じ座につく。

「だから、国ごと滅ぼすのだ。あの商という国自体を」

「そんなことが」

 できる。呂尚は、断言した。そこで、そもそも商王朝がどのようにして成立したのかという話をしてやった。


 これより数百年の昔に存在した夏王朝。そのさいごの王であったけつという王は悪虐の限りを尽くしていて、天下は大いに乱れた。そこで立ったとうという者が桀を倒し、夏を滅ぼして自らの王朝を建てた。それが、商である。

「湯というのは、とてつもない名君であったと言う。商が建ってからは、天下を広く治めることに力を尽くしたそうだ」

「なんとなく、聞いたことはある」

 哪吒ですらそうであるから、楊戩と李靖ももちろん知っている知識である。


「では、桀は、どのようにして夏を倒したと思う?」

 呂尚の問いに三人は少し考えたが、楊戩がはじめに目を上げた。

「武でもって攻めら討ち滅ぼしたのですね」

「そうだ。桀が夏の都に攻め入ったときは、凄まじいものであったという」


 実際、夏の都があったのではないかと考えられている望京楼遺跡という遺跡からは、惨たらしい虐殺があったことを示す人骨が、商(殷)が用いる形の武器とともに大量に出土しており、呂尚が三人に語る内容はおそらく事実なのであろう。

「心優しく、鳥の一羽ですらその徳を知らぬものはないというほどの湯王ですら、そうだったのだ」

 ならば、姫昌も。


「ちょうど、同じようであるなあ」

 呂尚は朝日に目を細めたまま、呟いた。

 王朝が建っても、すべての王が賢く、優しいとは限らない。かならず、桀のような悪虐の王があらわれる。ちょうど、今の商王であるちゅうのように。

「そういう王があらわれたとき、心あるものは武器を手に、それを討ち滅ぼしてよいのだ。あの商王がこの天地の間に王として存在している——すなわち、商という国がこの天地に存在していること自体が、それを証明しているではないか」

 楊戩が、涙を流した。

 親を殺された怒りはどうにもならないが、どうにもしようがないと思い込んでいた。

 それが、具体的な手法がここにきて提示された。自分にもできることがあるのだ、という思いが、彼を感情的にした。

 呂尚の舌は、さらによく滑り続ける。


「だがな、李靖。怒りのままでは駄目だ。自分の憎しみや怒りのために国を倒すことは、できない」

「では、何のために」

「決まっている」

 呂尚は、ふと表情を緩めた。もともと締まりのないものであるが、穏やかとあらわしてもよいようなものになった。


「人のためだ。我が知る人のため。あるいは、これから知るかもしれぬ人のため。そのために正しいと思えるなら、お前の血に流れているのは正しい怒りだ」

「正しい、怒り——」

「殺された。だから、殺す。それでは、人の行いとは言えん。ただ殺し、喰らうだけなら、獣でもできる」

「ては、人の行いとは」

「憧れることだ」

 呂尚は、端的に言った。想像もしていなかった単語がいきなり目の前に放り出されたから、三人は呆気に取られた。


「獣と人とを分つのは、憧れるかどうかだ。憧れるからこそ人は欲し、叶える。獣は憧れを知らぬから、己が獲物と定めたものしか欲しない」

 李靖だけでなく、楊戩も、哪吒も涙を流した。なぜそうなるのかは、誰も分からない。呂尚も、考えながら言葉を発し、発しながら考えている。それは申の者を相手にするときも、これまでずっとそうで、彼の思考法である——それを、さもはじめからそうであったかのように言うのは彼の癖であろう——。だから、彼自身、自分の口からこのような言葉が、商を倒すのだというような激烈な思想が、滔々とした渭水のように流れてゆくと思っていなかった。


「おれは、国とは何か、人とは何か、とずっと考えてきた。未だ、答えは得られていない。しかし、少なくとも、商王のような者がのさばる国は、あってはならない。それを確信し、ほんとうにすることができる、おれ自身。そういうものに、憧れているのかもしれない」


「我らで、やるのですね」

「叶うかどうかは、分からん。しかし、求めぬことには、叶うことは絶対にない。おれはそう思っている。楊戩」

「なんだか、すげえことになってきた。国をぶっ潰したからって鹿台に行っちまったお父は帰ってはこねえけど、でも、息子らしく幾らかは胸を張れるってもんだ。きっと俺と同じように思う奴が、わんさかいるさ」

 哪吒はいつも明るい。呂尚が今打ち明けたことをほんとうにしようと思ったら、彼の明るさが助けになることもあるだろう。

「あんたと出会えてよかった。そう思う。俺が鍛冶の腕を磨いてきたことは、無駄じゃあなかった。俺の作った剣が万の人間を殺したって、それより遥かに多い数の人を助けることになると、そう思えました」

 李靖は涙を拭おうともせず、懸命に言葉で胸のうちを明かそうとしている。

 三人に向かって呂尚は頷き、付け加えた。

「このことは、決して他言するな。露見すれば、おれたちが頼るべき周公の首が飛ぶ。今はまだ、周公自身も知らなくてもよい。ただ、おれたちの心は、ひとつにしておきたかった」

 三人は、重々しくそれに応じた。剣を抜き、合わせたりなどしない。そのような儀式めいた誓いが彼らの時代にあったか不明瞭であるし、あったとしても彼らには不要である。



「——ずいぶん、遅かったのですね。まだ、酔いが?」

 居館に戻った呂尚を、妲己が心配して迎えた。呂尚が目覚めたので、朝餉の支度にかかっていたらしい。

「いや、井戸で哪吒たちに出くわしたものでな。少し、話していた」

 呂尚は、三人にしたような話を、やわらかい言葉にして妲己にもしてやった。妲己は大層驚いたようであるが、若い眉を凛々しく吊り上げ、

「兄様の大願は、わたしの大願。ぜひ、わたしにできることは手伝わせていただきます」

「お前まで、そうか」

「あら、ご不満?」

 呂尚は、ばつが悪そうに頭を掻いた。

「いやな、ゆうべ酔い潰れていたのをごまかそうとして、つい、なんとなく考えていただけのことを、さも自分の悲願であるかのように語ってしまった。まあ、べつに実際に何かをするわけではないから、いいだろう」

 妲己が、呆れたようにため息をつく。

「なんて兄様なんでしょう。哪吒たちが、かわいそう」

「いや、しかし、おれが言ったことは、おれがほんとうに考えたことだ。だから、嘘は言っていない」

「じゃあ、わたしも、自分がどうやって兄様を手伝うか、考えてみます」

 くすくすと喉を鳴らし、用意していた呂尚の着替えを広げた。


 着替えや身の回りのことは、すべてしてくれる。呂尚が頼んだわけではなく、妲己が望んでしていることだ。はじめの頃こそ、申し訳ない、という気分と、ありがたい、という気分が混在していたものだが、今は、そういうもの、と思っている。


 また、鐘が鳴っている。まだ酔いが回っているのかと思ったが、違う。

 ほんとうの鐘だ。

「何だろう」

「見にゆかれますか」

 ああ、とみじかく返事をし、外へ出た。両腰の打神剣が、なにかを告げるように小さく鳴いた。

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