豊邑の夜

 べつに、周に行ったとて、どうするわけでもない。この時点での呂尚には、いや、彼に熱烈なラブコールを送った姫昌にすら、具体的に世の乱れをどうこうする、というような考えはなかったし、あったとしても行動に移す動機が希薄すぎた。あるのは、ただ漠然とした憂いと、このままでよいはずはないという焦燥。


 ただ、呂尚一党となった彼らが、姫昌のよこした迎えの者に続いて渭水沿いの道を延々と歩いて、その首府である豊邑に着いたときは、その名のとおりの賑やかさに目を見張った。


 まず、土がいい。一行がさいごに宿を借りた隣邑のあたりから、一気に土が変わる。渭水がもたらす肥沃な土壌は、彼らがここに歴史を持つ遥か昔から文明を育んできたわけであるが、このあたりは特にその色が濃い。黄河文明域の主食である麦も粟も多く採れ、まさに豊な邑という具合であった。

 呂尚は、かつて商の都である朝歌にいたことがある。その栄えようは天下の宝をひとところに集めたかのようであったが、しかし、城壁の隅やその外においては、飢えて死ぬ者を埋めるための穴が絶えず掘り続けられていた。もちろん朝歌も申もその土壌が豊かであることに変わりはないのだが、やはり、その土壌からもたらされるものよりもその土壌の上にある為政者による搾取のためであろう。

 この周の地は、そういうことはないらしい。


 豊邑の城壁は高く、厚い。呂尚らが見上げているものを共有していただくためにあえてメートル法にしてみれば、十五メートルほどもあろうかという高さである。

「西の野蛮人が攻めてきても、びくともしません」

 と、迎えの者は言った。少し自慢げであったから、周人しゅうびとの誇りのようになっているのかもしれない。


 西の者、というのは、山地に棲む野蛮人——とこの黄河文明人たちは思っていた——のことで、高地にあっては家畜の遊牧などをしているが、ひとたび文明域に降りてくればひどい略奪を行う。そういう外敵から、文明を守る。城壁にはそういう役割があると同時に、外敵の侵略を寄せ付けない自分達の先進性の象徴としての機能もある。


「西の野蛮人、か」

 呂尚は、ひとり苦笑している。その意味が分かる者は、この場にはだれもいない。

「さて、館へ。周公が、お待ちかねです」

 門兵の脇を通り、一行は城壁の内側へ。


 人が行き交い、通りには品を交換するための市が立っている。宝貝はあれど、まだ世の中にそれが流通して全ての価値をそれで数えるほどの貨幣経済は成立していない時代のことであるから、物々交換が多い。

 哪吒などは珍しがり、あちこちを見ては声を上げている。果物、菜、燻した肉、日用品、生きた鶏や豚、衣、それに奴婢まで。ここで揃わぬものはないというほどに色々なものがあり、それぞれの色でこの豊邑を彩っている。


 城壁の中を真っ直ぐに切り通された道の向こう、ひときわ大きな屋根。それが、王が政務を執り行う館であろう。その手前まで、姫昌は出迎えに来ていた。

「これは。周公自ら」

「いや、呂尚どの。よく来てくださった。この日を、どれほど待ち望んだか」

「おおげさです。厚意に甘えるような形でやっては来ましたが、それほどの働きができるかどうか」

「いや、よいのだ。あなたがこの地を踏んでくれたことだけでも嬉しいのだ。そのうえ、これからは私と共に国のことを見てくれると言う。私にとって、これほどの幸運はない」

「精一杯、務めてみます」

 呂尚がすべきは、まず頭脳労働であろう。どういう役割が与えられるのかは分からぬが、おそらく周の影響のある邑の民政や、収穫のことだろうと思っていた。


「あなた方には、それぞれひとつずつ、館を用意しました」

 と、姫昌自ら案内をはじめた。

「姫昌どの。そのようなこと、小物にでもやらせておけばよろしいのでは」

 姫昌のうしろにぴったりと付いていた若者がため息を漏らす。呂尚を誘いに来たときにも随行していた黄親子の息子の天化である。

「何を言う。私がお招きしたのだから、私が案内をして何が悪い」

「ま、お好きになさればよいのですがね」

 父親の黄飛の方はいかにも武人という風貌そのまま、多少のことでは動じない。しかし、息子の天化の方はほんとうに親子かと思うほどに神経質なようである。



「まあ」

 と、自分たちにあてがわれた館の大きさに妲己が思わず声を上げる。

「こちらが、呂尚どのの妹君ですな。はじめてお目にかかります。姫昌です」

 と姫昌が妲己にまで丁寧に挨拶すると、天化はさらにため息を深くする。


「哪吒どの、楊戩どのは、あちらの棟です」

 と屋根続きになっている別棟を指した。あきらかに、呂尚が首領で、哪吒らはその家臣のような扱いである。呂尚にそのつもりがなく、同格として扱ってもらいたい、と思ってちらりと横を見たが、哪吒や楊戩自身が自分たちにも立派な屋根と壁のある棟が与えられるのだということを単純に喜んでいるようであったから、水をさすのもどうかと思い直し、口にするのをやめた。


 鍛冶屋の李靖は、事前に随行を伝えていなかったから、専用の宿舎はない。姫昌があわてて用意させようとしたが李靖は固辞し、互いに同意のうえ、とりあえず楊戩の棟に身を寄せることになった。


 李靖といえば、呂尚一行の出立までの間に、あたらしい武器を作っていた。

 呂尚は、注文どおりの剣。楊戩の剣のように鈍く輝くものであるが、刃渡りはそれよりは短い。しかし、二振りでひとつという仕上げで、打神剣と名付けた。たいそうな名である。軽く、そして信じられないほどよく斬れた。出来上がったとき呂尚が試しに解体する動物の肉に向けて振るってみたところ、肉どころか骨すらも断ち、なおかつ刃こぼれひとつしなかった。

 これならば、逞しい筋肉に恵まれていない呂尚でも佩くことができるであろう。


 また、哪吒は槍である。刃の部分に光が当たると、まるで夕陽が燃えているように見えたことから、火尖槍かせんそうと名付けられた。楊戩がもともと佩いていた剣には名はないから、楊戩剣としておくことにする。


「これまで、我々は、己にゆかりのある邑のため、生を使ってきました。これからは、周のためにそうしたいと思います」

 物腰の丁寧な楊戩が、端的にそう述べた。姫昌は、満足そうであった。


「私の子にも、引き合わせましょう」

 姫昌は、一行をさらに誘い、自らの居館に通した。出てきたのは、哪吒よりもさらに若いと見える少年である。

「発と申します。呂先生のことは、父から聞いておりました」

 いかにも姫昌の息子らしく、優しげな風貌であった。しかし、きらりと光る聡明さがある。そう、呂尚は思った。

「ほかに、考という長男もおるのですがね。今はわけあって、朝歌におります」

 姫昌の頬に、年齢以上の陰がよぎった。


「姫昌さまが商王によって罪を問われたとき、一緒に朝歌にゆかれたのですが、姫昌さまだけが罪の疑いが晴れ、解放されたのです」

 黄天化が聞きもしないことを薄い笑み——酷薄な、とあらわすべきか——と共に言うのを、黄飛がこれ、と制する。


 ああ、なるほど、と呂尚は思った。

 黄親子は明らかに商の武人で、それが姫昌の護衛のようにして付いているのは、目付としてだろうとは思っていた。しかし、この親子の存在があるということは、もはや考を赦すつもりは商王にはないのだろう、と悟った。

 おそらく、考は類い稀なる才を持っていたのであろう。商王は、その才を欲したかもしれない。この天地で自分の思い通りにならぬものはない、と信じ込んでいるのだ。だから親子にあらぬ疑いをかけて呼び出し、姫昌のみを幽閉した。たぶん、考は今なお商王の側に置かれているのだろう。

 商王は、考には姫昌が解放されたことを伝えておらず、お前が俺のものになるなら親父を解放してやってもよい、と持ちかけるつもりなのだろう。


 持ちかけるつもり、と呂尚が想像するのは、すでにその打診があり考が応じていたならば用済みの姫昌はこの黄親子によって始末され、周の管理する邑は自分の言いなりの何者かに与えているはずであり、断っていたなら考は処刑され遺体のみがさきほどの城壁をくぐって帰ってきているであろうと思うからである。


 商王は、この豊かな地を欲しているのだ。属国であるとはいえ、ここに姫昌という者が存在していることが許せないのだ。そう思った。

 黄親子は、ひとたび商王から連絡があった際にはその腰の刃をただちに姫昌の喉にあてる役割を担っている。それは考が誘いに応じたときでもあり、応じず処刑されたときに姫昌が怒り狂って商王に歯向かおうとしたときでもある。

 そういう考察である。


 ——それにしては、親父の方は、ずいぶん情がうつっているようだが。


 姫昌と黄飛は歳が近い。おそらく考も、天化と同じくらいの歳なのであろう。なにか、通じ合うものがあるのかもしれない。天化は自分の役目に忠実であるから、姫昌に対していつも冷たい。あくまで自分の主は商王であり、この人がいいだけの凡庸な男と虫一匹すら殺したこともなさそうなその次男坊のいのちの自由を自分は握っている、とでも思っているのか。



 一行をもてなしたい、と宴に誘われた。

 夜、主だった官の者が集い、盛大に執り行われた。この時代の酒は純度が低く、そう酔うものではない。哪吒も楊戩も李靖もひときわ強いらしく何杯過ごしてもけろりとしていて、豚の肉を遠火で炙り、油が垂れれば切り取って土器の皿に盛り、岩塩を振りかけただけの料理を食らい、美味い美味いと喜んでいる。土器のざらざらとした表面がうまく脂を吸うのか、何枚食っても腹が膨れない。それに、手でざらざらしたものに触れているから、肉が口に入ったときに余計にその滑らかさを感じるようでもある。


「呂尚どのは、あまり豚は好まれませんか」

 呂尚があまり料理に手を伸ばさぬのを見て、姫昌が気を遣った。

「いえ、長く、このけものの流す血を見すぎたのかもしれません」

 その血の色と臭いは、いつまでも呂尚をあの酒池肉林の夜に連れてゆく。それを、恐れているのだろうか。


「私は、動物の血を抜き、肉を切り分けることを生業としていました」

 呂尚は、問われもせぬことを語り出した。哪吒が、ぎょっとしたように目を向ける。天下の賢人のようにして迎えられたのに、肉屋であることをわざわざ今言わなくても。顔に、そう書いてあった。

「呂邦の屠肉小屋、などと申では陰口されたものです。皆、私を、どう扱ってよいのか分からぬようでした」

「尚兄様は、昔、邑の子らに意地悪をされていたわたしを助けてくれた、優しい人です。その知恵を、誰もが頼りにしていました」

 同席をしていた——この時代においては不自然ではないと考える——妲己が、憚りながら口を挟む。そうだろうか、とさらに呂尚が遮る。

「皆、おれにものを訊ねておけば、おれを知ったと思えるからではないだろうか。知れば、恐れはなくなる。人とは、知らぬものに対してはひどく怯えるものだ」

「兄様。そんなこと。周公様が、困ってしまわれます」

 いいや、妲己。と呂尚はさらに自分の杯を傾ける。


 酔っている。

 哪吒や楊戩、李靖は勿論、妲己ですら呂尚が酒を過ごすとこうなるのだということを知らなかった。

 姫昌はおもしろがって笑っているが、ほかの官の連中は白い目で呂尚を見て、口に袖してなにか囁き合っている。それを見て取った姫昌が、呂尚を救うつもりで、大きな声を上げる。

「豊邑の夜は、長い。まだまだ呂先生のお話を聞けるぞ。これは、幸運」

 呂尚の語りは、なお止まらぬ。長くなりそうである。

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