心同じくするもの

 呂尚が西岐へ移住するにあたり、提示した条件は、以下のとおりである。


「妹もともに暮らすことができるだけのものをいただきたい。それと、粗末でよいので住処も。あとは」

 妹以外にも、伴いたい者がある。


「舟渡しの哪吒。母親がおりますから、彼が望むなら母親も。それと、楊戩という者」

 姫昌は、即答した。

「構いません。あなたが有用だと考える人は、どなたでも。私の興味からお聞きしますが、その二人を挙げられた理由をお教え願えますかな」

「哪吒は、舟を操ります。棹が操れるということは、槍を握らせればすなわち負け知らずの武人となりましょう。舟渡しで培った目は、流れの細やかな変化にも敏感です。よく気のつく、よい臣となることでしょう。楊戩は、天下の名剣を帯びた武人です。腕前についてはよく知りませんが、どうやら並ならぬものであるようです。なにより、彼は多くの人とつながりを持つ。いずれ、それは有用なものになりましょう」

「なるほど。では、ぜひ。いや、よく分かりました。ほかにも伴いたい方がおられれば、あなたが推すというだけで召し抱えるに足りるわけですから、これ以上私からお訊ねすることはない。あなたの方からも、お訊ねいただかなくても結構です。どうぞ、ご随意になさってください」


「しかし、姫昌どの。あまりに多くの者を勝手に召し抱えるとなると——」

 共周りのうちの若い方が釘を刺すようなことを言う。姫昌は遮って、

「なあに、天化。私がよい人を多く召し抱えるほど、商が潤うのだ。なにを遠慮することがあろう」

 と笑った。


 天化というのがこの若者のあざなで、姓はこうと言う。名はよく分からぬから、親や主君以外の者が軽々しく相手を字で呼んでもよいものかという違和感は無視し、彼を天化で通してゆく。

 父親の方は黄飛こうひ。やはり、呂尚の見たとおり商から出向してきている武人の一家であることがこのやり取りで分かった。その役目は目付であることは言うまでもない。


 呂尚は西岐にゆく日取りについて姫昌と約束をし、その日は別れた。

 家に戻ると、妲己にそのことを告げた。

「西岐へ?ほんとうに?」

 妲己は目をまん丸にした。

「済まん。お前の許しなく、勝手に約束をしてしまった。お前が嫌なら、おれだけでゆくことになるが、おれはお前とともに行きたいと思う。どうだろうか」

 どうだろうか、と問うときの呂尚がひどく頼りなげで、妲己は思わず吹き出してしまった。


「そんなの。行くぞ、と一言お命じになればよいだけのことなのに。そんなことで、周公さまにお仕えできるんでしょうか」

「まあ、そうかもな。——では、来てくれるのか」

「この申の邑から離れるのはさみしいけれど、尚兄様が一緒なら、さみしくはない」

「わかった」


 あとは、哪吒である。翌日、早速に哪吒の舟のところへ出かけた。

「昨日の男。あれは、周公姫昌さまであった。気が合い、西岐に来ぬかと言われたので、お前もともに連れてゆきたいと言った。姫昌さまは、それを受け入れた。お前は、どうだろうか」

「待ってください、兄哥。どうにも、話が急すぎる」

「そうだな、済まん」

 呂尚は苦笑し、細かく昨日のことを説明してやった。


「ふふ、あのお方が周公さまだってのは、知ってましたよ。兄哥のことを訪ねられるつもりと聞いたので、天下第一の才人と宣伝しておいたんです」

「なんだと」

「そりゃあ、ですから」

 この場合、呂尚と姫昌との間を渡したということであろう。

「哪吒。お前は、食えぬ奴だ」

「そんなことありませんよ。兄哥の才を認めない奴がいたなら、そんな奴、公なんかじゃない。周公さまは頭が良く、やさしいお方だ。きっと兄哥のことを気に入るとおもったし、兄哥にはこんな下らない邑で肉を切り売りするばかりでなく、もっと多くの人を助けることができる才があると思ったんです」

 だが、まさかその呂尚が自分を誘ってくるとは思っていなかったらしく、その点に驚いたらしい。


「だが、俺も、舟を渡す以外のことで兄哥の役に立てるかもしれねえってことですね。母親を助けてもらった恩を返すのに三度の舟渡しじゃ、安すぎる。そう思ってたんです」

「うらないのことは、気にしなくていい。おれは、お前ならば周公の求める人となれると、単にそう思ったから誘っただけだ」

「へへ、なんだか、くすぐったいや。兄哥は優しい人だけれど、俺なんかにはこれっぽっちも興味を持っていないと思っていたのに」

 呂尚は、答えない。人への興味など、とうの昔に捨ててしまっていると自覚している。

 だが、ふと思った。そう思っているだけで、これほどまでに日々を鬱々と過ごし、あれこれ考え続けているのは、人への興味を捨てるどころかむしろ日ごとに増していて、自分はふつうの人よりもよほどそれが強いと見ることができるのかもしれぬと。


「あとは、哪吒。お前が、楊戩と繋がりを持っていることは想像している。楊戩がふだんどこにいるか、知らぬか」

「楊戩さんも、誘うおつもりですか」

「そうだ。楊戩は、見たところ、多くの人との繋がりを持っている。それに、あの腰の剣。半端な腕ではないのだろう」

「さすが兄哥——」

 哪吒は、呂尚の観察眼に開いた口が塞がらないらしい。


 なにか、新しいことが始まる。哪吒はそれが単純に嬉しいらしく、早口に楊戩の寝ぐらのことを教えると、たいそう喜んで飛び上がりながら母親に西岐ゆきのことを告げに走った。



「——呂尚どの?」

 はるか昔からあるのだろう、鬱蒼と木々の茂った森。その奥、岩肌を竜が穿って通った跡のような洞穴から、楊戩は顔を覗かせた。

「どうして、ここが」

「哪吒から聞いた」

「途中に仕掛けてあった罠は?」

「このとおり、おれは生きている」

 落とし穴は地面をよく見ていれば、落ち葉のかかり方がわずかに違う。足元ばかり見ていたのでは頭上の罠を見落とすから、木々の枝に見せかけて杭などがぶら下げられていないか観察する。杭があれば、足元に細い縄か何かが張ってあり、引っかかると仕掛けが作動するだろうから、また足元に気を配る。

 そのようにして進めば、どうということはなかった。


「隠れ棲むならば、罠など不要。ここにあなたがいるということを、わざわざ人に知らせるようなものではないか」

「たしかに……」

「それに、この岩穴が近づくにつれ、罠はさらに濃くなってゆく。それで、おれは、ああ、楊戩が近いのだな、と知ることができた」

「そこまで、考えませんでした。やはり、あなたは頭のよい人ですな」

 結果はどうあれ、この周到さは用いられるべきものである。楊戩について、人脈、剣のほか、また別のすぐれたところを見た、と呂尚は思った。


「あなたを捕らえようとする役人なら、自ら罠に嵌まったでしょう。そうでない人は、はじめからこの森には近付かない。あなたがここに隠れ住んでいて、罠を張り巡らせていることを知っているからだ」

「呂尚どのの仰るとおりです」

「すなわち、罠などなくとも、人の口を介して、あの森には近付くな、近付けば命を落とす、という噂を流すだけで良かったのかもしれませんね」

「なるほど——」

 呂尚の言うことを真摯に受け止め、咀嚼している様子である。やはり、楊戩を推したことに間違いはないと思った。


「あなたに用事のないときのおれであれば、罠に気付いた途端に引き返したでしょう。しかし、おれは、実際、今ここにいる」

「ご面倒をおかけしました。哪吒にでも伝えて下さったら、私の方からお訪ねしましたものを」

「いいえ。今日は、おれがあなたを訪ねるべきでした」

「それほどのご用とは?」

 そこで、周への士官を持ちかけた。楊戩は、はじめ官は嫌だと難色を示したが、のことを打ち明けると態度が変わり、

「私の大望が、もしかすると果たせるやもしれません」

 と呂尚と共にゆくことを決定してくれた。


「では、私と心を同じくする者をお連れしても、周公のご迷惑にはならぬのでしょうな」

「おそらく。周公は、もちろん商の大王にゆるされて公でいるお方だ。だが、内心には、ひどい憂いをお持ちであると見えた。表立って周公のお立場を危うくするような振る舞いは避けていただかねばならぬが、ただ連れるだけならば、その内心までは誰にも分からぬ。心とは、それを持つ人のみのものなのですから」

「よい言葉です。では、私とかねてから心を通わせている者を、お連れします」

 ちなみに、とその者の名を問うたところ、呂尚はやはり、と頷いた。


「鍛冶屋の」

「そうです。申の邑の鍛冶屋の李靖です。かれの父親はかつて官であったのですが、商の大王の行いのあまりの有様を諌めたところ、真っ赤に焼けた銅の柱に括り付けられて殺されました」

 もしかすると、李靖は、自ら鋳型に流し入れる青銅の赤さと熱を通して、父親の受けた苦痛と無念さを思い、その憎しみと怒りを焼き付けるように刃物を作っていたのかもしれない。


 余談であるが、この時代、彼らの用いる利器はすべて青銅である。鉄の鋳造がはじまるのは戦乱が全国土に広がった紀元前四百年ごろからで、呂尚が掲げられた宝剣に目を細めているこの時からさらに六百年以上も待たなければならない。

 製鉄とは全国土を範囲とした戦乱がもたらした一大イノベーションで、やや遅れて日本にももたらされている。

 ちなみに、ヨーロッパにおいて鋳造による製鉄がはじまったのはなんと十四世紀ごろとされているから、中国文明の技術力の先進性が知れる。


 青銅の鋳造とは言っても、出土するこの時代のものは現代の我々がその技術を再現することがきわめて困難なほど精妙であったり大型であったりしたから、おそらく楊戩が掲げる剣も、今造れと言われても世界のどこにもそれを再現できる者がいないようなものなのであろう。



 呂尚は、そういう背景を持つ美しい剣を、自分たちが世界史において特異な文明の中にあるとは知らず、ただ眺めながら、

「そうか。あの物静かな鍛冶屋の李靖に、そんなことが」

 と呟いた。 

 申というのは朝歌からわりあい近いから、呂尚も含めて官を辞したり役から遁げたりした者が流れ着きやすいのかもしれない。

「私のこの剣は」

 と、楊戩はこの時代のものにしては大ぶりな鉄剣を抜き、うすい木漏れ日に透かした。

 剣はふつうの青銅の輝きではなく、金で造ったような色をしていた。しかし、金よりは鈍く、真鍮に近いかもしれない。この時代、まだ真鍮を製造する技術はこの国にはないから、青銅のもととなる銅や錫、鉛のほか、硫黄やヒ素などの割合が高いものなのであろう。それらの物質が作る皮膜は地金が空気に触れることを防ぐと言うから、楊戩が哪吒などに自慢する、何人斬っても錆びることがない、というのも言い過ぎではないかもしれない。


「李靖が打ったものです。李靖は、かつて軍にあった私のようにはこの剣を振るうことはできない。だが、私がこの剣で世を正すために邪なものを斬れば、それは自分が斬ったのと等しいことになる、と言い、この剣を作りました」

 誰にも、憂いがある。その形は、人それぞれ。

 しかし、誰にでも共通しているものがある。

 その憂いが、国に対してのものであるということである。


 楊戩はその足で呂尚とともに李靖のところを訪ね、西岐行きのことを納得させた。

 呂尚は、出立までの間に仕上げられるか、と剣を二振り注文した。武人になるわけでもなく、何に使うのかは、自分でも分からない。新たな生の記念としたかったのか、単に楊戩が浴びる剣のみごとさが羨ましかったのか。

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