釣りをする

 風が、快い。陽があるうちは、過ごしやすい。釣り糸を垂らしながらものを考えるには、うってつけの気候である。呂尚は舟が川の流れを切るのを感じながら、なんとなく口を回した。


「お前の母親のこと、よかった」

「いや、兄哥あにきには、ほんとうに感謝してます」

「よせ。たまたま、ただものを食っていないだけなのではというおれの想像が、当たっただけだ」

「それでも、いんちき占いなんかより、ずっといい」

天数うんめいなどと言って片付けてしまうのを、おれは好かんだけさ」


 哪吒は、約束のとおり、呂尚を川の中洲に運んだ。

 なるほど、舟から水面を覗けば、中洲がちょうど川の速いところとそうでないところを隔てており、また、中洲がそのまま川の中へ馬の背になって伸びており、いかにも魚がいそうである。

「ここなら、蓮魚だって草魚だって、なんだって釣れますよ」

「ほんとうだろうな」

「いや、あとは兄哥の腕次第」

「違いない」

 呂尚にしては珍しいことだが、彼はこの哪吒という若者が好きであった。以前にそう観察したとおり粗野なところがあってもその心は細やかで、なにより優しい。邑の者が未だに接し方を計りかねている呂尚のような変わり者に対しても屈託がなく、なにやら小猿のようによく笑いながら懐いてくる。


 その哪吒が、日が高くなる頃に迎えに来ます、と舟を中洲から離しかけて、その棹を止めた。

「そうそう。このあと、もうお一方、この中洲に案内することになってるんです。構いませんよね」

「ああ、べつに構わぬが」

「魚がよく集まるのは、川下の方だ。次のお客に魚を取られたくなけりゃ、いいですか、川下の方に糸を出すんですよ」

「分かった、そうしよう」

 呂尚は頬を僅かに緩ませ——笑ったのかもしれない——、静かに糸を出した。



 なるほど、哪吒の言うとおり、川下に糸を垂らせば面白いほど当たりがある。どれも大きな魚のものであるのかもしれない。しかし、呂尚が持ってきたのは小さな餌ばかりで、一口で餌を引ったくられてしまう。

 どうにか大きな魚を、と思い、そこらの石をどかして蟹を見つけ、針にかけた。

 そうするとさらに大物と思われる当たりがあり、ひょっとして蓮魚か草魚か、と胸を躍らせたが、やはり駄目である。

 餌を付け直すために手元に針を戻すと、やはり大物が食いついたのであろう、針が真っ直ぐになるくらいに曲がってしまっていた。


 結局、釣れたのは、雑魚ばかりであった。

 まあこんなものか、と糸を垂らしたまま、中洲の風と流れを楽しんでいると、哪吒の舟がまたやって来て、彼が告げたとおり別の男を運んでいた。

「こちらです、旦那」

「済まぬな。帰りも、頼むぞ」

 男は呂尚よりもずっと歳上で、四十は超えているだろうというほどの歳の頃である。着ている者や冠から、並の者ではないことが知れる。

 行きの渡し賃にしては多すぎる貨を哪吒の手に授け、竿を手に呂尚の方へと歩いてくる。


「釣れますかな」

「さあ。このとおりです」

 呂尚は、手元のを目線で指した。男は覗き込んで、歳の割に白い歯を見せて笑った。

「これはまた、醤で煮れば美味そうですな。どれ、では、私も。ここで糸を出しても、よろしいかな?」

「お好きになさってください」


 男はしばらく無言で糸の先の水面を見つめ、呂尚もべつに気にすることなく時間を潰した。きょうの夕に妲己と食べる分は、すでに釣っている。これ以上の魚を得ても、仕方がないのだ。


「もう、釣りはおしまいですかな」

 男が、訊ねてきた。呂尚は、もう十分である旨を説明してやった。

「なるほど。多くを求めず、か。たしかに。妹君とともに口にするものを得たから、これ以上釣りをする理由がないとは、なんとも道理ですな」

 そこから、男は呂尚に次々と些細な質問をした。呂尚が答える度に、

善哉よきかな、善哉(なるほど、と賛同する意味が強いように思う)」

 と感心するから、呂尚もべつに悪い気はしない。


 不意に、男の眼が、これまでの柔和なものと違う光を帯びた。

「では、あなたは、天下の人材を得るには、どうすればよいと思われる」

 呂尚は、この男がただ者ではなく——おそらくどこかの王侯であろうことはかんたんに想像できる——噂を聞きつけて自分のことを見定めにきたのだと思い、少し興醒めをした。これも、哪吒の手引きというわけだろうか。

 だから、しばらく考え、

「釣りのようなものでしょう」

 と答えてやった。


「ほほう。釣りとは、また。では何を餌に?」

「おれは、あなたがここに来るまで、小さな餌でしか釣りをしなかった。小さな針に小さな餌では、いかにここに大物がいようとも、見向きもしないのです。良くても餌を引ったくるだけでしょう。釣れたのは、ご覧になったとおり」

 雑魚ばかり。さらに、呂尚は語る。

「そして、蟹に餌を変えました。すると、たしかに大物がやってきた。しかし、針が曲がってしまって釣れなかった。やはり、小さな魚にはそれに見合った針と餌。このような雑魚の前に蟹をぶら下げたとて、その値打ちも分からぬでしょうから」

「中の魚には中の餌と針」

 男が重々しく継ぐのに、呂尚は乗ってやった。

「大魚を得んと欲するならば、大きな餌と曲がらぬ針。あなたがもし天下の人材を求めるなら、然るべき恩賞を提示し、その人材が逃げぬ針——組織、と言うべきか——を設けなければなりません」

「なるほど、道理だ」

 善哉、善哉とまた男は笑い、あとは大したことを言わぬようになった。


 呂尚が釣りばかりしているくせにいっこうに上達せぬことは邑でひそかに噂になっているのだが、男はそれにもまして下手である。結局、迎えに来た哪吒の舟影が遠くに見えるまで、男は一尾も釣り上げることができなかった。


「もう、迎えか。あなたと話すのを楽しむあまり、釣りのことを忘れてしまっておりましたわ」

「よろしければ、どうぞ」

 呂尚は、自分のびくの中にある雑魚のうちの一匹を、男のびくに入れてやった。

「それはいけない。これは、あなたの魚ではないか」

「いえ、あなたにこれを差し上げても、まだ四尾ある。私と妹で半分ずつにするなら、この一尾は余っているということになる。対して、あなたは一尾も魚を持たない。持つ者が持たざる者に、己の持つもののうちの少しを分け与える。それだけのことです」

「あなたは、何と平らな心を持つのだ。これほどに世が乱れ、誰もが己のことしか考えぬというのに」

 男は声を裏返し、ひどく感心した。

「きっと、世の人全てでそうし合えれば、それこそが幸福というもの」

 呂尚は、そこまで言って、ふと思いついた。それを、ただ口にした。

「国に罪があるとするならば、もしかすると、人から、そんな当たり前の、些細な気持ちを奪うことなのかもしれませんね」

 男の目から、大粒の涙。呂尚は思いもしない事態に、ぎょっとした。


「いや、失敬。あなたがあまりによいことを仰るものですから、つい」

 舟が近づいてきて、その棹を操るのが哪吒であるということまで分かる距離になった。男は立ち上がり、自分のびくに入った一匹の魚を、呂尚のところへ戻した。

「遠慮なさることはない。どうぞ、お待ちください」

 と呂尚が言うと、男は穏やかに笑い、

「あなたが言うのが国の道、そして人の道であるなら、私は、たとえ私が飢えようとも、私よりもあなたやあなたの妹君により多くの糧が行き渡ることを望む。それが、私の思う、君(人の上に立つ者)の道です」

 と返し、哪吒の舟に乗り込んだ。


 帰りの舟では、三人は魚のことや釣りのことなど、雑談ばかりであった。陸に着くと男の供だろうか、いかにも武人という骨格の壮年の男と、その息子だろう、髪を結い上げてさわやかに目を吊り上げた若者が頭を下げて迎えた。

「迎えは不要と、あれほど申したであろう」

「このあたりにも賊が多いと聞きます。あなた様一人でふらふらと出かけられるこちらとしては、たまったものではありませんぞ」

 この貴人がこうしてふらふらと出歩くことは、しばしばあることなのだろう。武人は主を諫めるようなことを言うが、当のはただ困ったように眉を下げて笑っている。


「こちらが、例の?」

 と、武人の眼が呂尚に向いた。一見、男の家臣のようであるが、その主たる男が武人が配るその視線を無意識に追っているのを呂尚は見逃さなかった。


 ——おそらく、この男の臣ではあるまい。もしかすると、護衛役、というような名目で商の本国がよこした、目付役のようなものかもしれない。


 と思い、男のために応対に気を遣ってやることにした。


「そうだ。思ったとおりのお方であった」

「あなたは、結局、どなたなのです」

 呂尚がぶっきらぼうに言うと、武人は目を険しくした。

「礼を損なうな。こちらは、西岐さいき豊邑ほうゆうにおわす周王姫昌どのなるぞ」

 ただ者ではなく、どこぞの王であると見て間違いないとは思っていても、先程まで釣りを共にしていたこの貴人が、商に従う国で第一と言われる周の王であると知れば、呂尚もいちおう驚きはする。


 申を直接統治するわけではないが、西岐、と言われる由来である岐山は、この申からも遥か遠くに見上げられる。周とは、近い。また、のちの世ほど明確な国境線もなく、この邑から西、とかこの川を挟んで北、というような具合に統治を許されていたから、「岐山のあたりを中心とした一帯」を統べるのが周の定義であるから、今日のこの姫昌の行動が領土侵犯にあたるおそれはない。


 とにかく、なんとなくそんなところだろうと思いつつも驚きを禁じ得ない呂尚は、

「それは、知らずに失礼しました」

 と通りいっぺんの謝罪を示した。べつに心からそう思っているわけではなく、まあそうしておく方がよいだろう、くらいの気分である。それについて、

「いえ。名乗らなかったのは、私の方です。あなたの噂を聞き、ぜひ私の師としてお迎えしたいと思ったのです。それなのに、とんでもない失礼をした。どうか、お許しください」

 と姫昌は逆に謝罪をした。


 呂尚は、少しの間言葉を留め、

「いえ。どうぞ、お気になさらず」

 とのみ答えた。

「いかがです、先生。私のもとへ、来てはもらえませんか」

「お断りします」

 呂尚は、姫昌の誘いをただちに断った。

「こいつ。物言いというものを知らん奴だ」

 若い息子が色をなすと姫昌は鋭く制止し、

「理由をのみ、お聞かせいただけませんか。私では、あなたを師と仰ぐには不足でしょうか。あなたが私のところに来てくださるなら、どのようなものでも差し上げるつもりでおります」

 先程の餌の話である。それによれば、呂尚を大魚とし、それを釣るためにならどんな餌でも用意すると言う。


「家に妹がおります。私は、ここで、彼女と暮らしていたい」

 それが呂尚の述べた第一の理由である。

「それに、私に周王たるあなたを佐けるような才があるとは思えない」

 それが、第二の理由。


「私は、あなたを迎えるにあたり、焦がれる婦人に愛を打ち明けるような気持ちでお誘いした。それでも、あなたが、今日あらわれた私などより、長くともに暮らす妹君の方をたいせつと思うのは、当たり前です」

 と姫昌は同意を示し、少し考え、手を叩き、

「では、あなたの妹君も共にお迎えしよう。ほかに、あなたがこの地を離れたくない理由はありますか」

「——ありません」

 姫昌が景色を浮かべ、壮年の武人も頬を緩めた。若者の方はそっぽを向いて鼻を鳴らしている。どうやら、父の方は姫昌について情があるが、息子の方はあくまで自分を商の使いであると思い定めているらしいことを呂尚は見て取った。

 ひとつ、ため息を薄く風に流した。それが言葉に変わると、

「しかし、私に、王を佐けることなどできるのでしょうか」

 という呟きに変わった。姫昌は、露骨に残念そうな顔をした。その目元に走った陰を困ったように見つめ、呂尚は、

「まあ、それでも、あなたとをするのは、悪くないのかもしれない」

 とさらに吐息を漏らした。


 王が賢人を求めるのは、自然なことである。ただ、周王姫昌は、果たして内政のために呂尚を求めたのか。少なくとも、呂尚は、少なくともそうではない可能性があると考え、国をどうこう、という話はせず、さきほど二人きりのときに交わした釣りのことを引き、隠語のようにした。川面を見つめる姫昌の目は、喜びでも期待でもなく、たしかに悲しみと憂いを映していたのだ。


 姫昌は、呂尚の返答を聞いて大喜びであった。

「善哉、善哉」

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