切り分ける
夜陰が、彼らを隠していた。しかし、豊邑の城門に詰める兵の目から、血塗れの衣を隠せるはずはなかった。だから、釣りの道具の包みの中に入れていた新しい衣に着替え、何食わぬ顔で門を通過した。
姫昌には、あたらしい土地の魚の具合と、豊邑近隣の地形を見ておきたい、と届けてあったから、呂尚が、外出した翌日の日が高くなってから帰城したことについても誰も、何とも思わなかった。
道中、彼らの口数は少なかった。なにしろ、人を殺めるのは楊戩以外ははじめてなのである。
そのまま四人はそれぞれの居館へ。呂尚は与えられた館の門をくぐり、戸口に手をかけた。新しいはずのこの館の戸が、かたかた、と頼りなく鳴った。
「兄様」
と、妲己がいつもの呼び方で迎えた。
「妲己。戻った」
「あら、お魚は?」
呂尚が釣り道具の包み以外に何も持たぬのを見て、また坊主で終わったのかと揶揄うように口を尖らせた。
「これを、燃やしておいてくれ。表でなく、裏の庭でだ」
呂尚は応じず、包みをそのまま妲己に押し付けた。
首を傾げながら裏庭に向かった妲己が、きゃっと声を上げる。それで、呂尚は妲己が包みを解いてしまったことを知った。
「血が、あんなに」
夥しい返り血で濡れた衣。それを、燃やせと言ったのだ。何も知らぬ妲己は、当然、驚いている。呂尚が怪我をしたのではと思っているようで、どこに傷があるのかと腕を素早く伸ばしてきた。
「よせ。なんともない」
「でも、あんなに血が。手当てをしないと」
二人は、揉み合うようになった。
「おれの血ではない」
その腕を乱暴に掴み、低く鋭い声を発した。何かに気づいたように見開かれた妲己の目の中に、彼女が知らぬ呂尚がいた。
腕を握る力が、なお強く。それに、妲己が抗うことはなかった。なぜか、力の向くままに任せ、その薄い背中を板敷に預け、天地の主が人をそう作ったように呂尚の体重を受け入れた。
「——済まん。こんな乱暴なことを」
少年のようだ、と妲己はその背を見て思った。そう思うなら、なぜ自分を組み敷いたのか。そう思うと、なんだかおかしくなって、急に頭の中が透明になった。
「兄様たちは、あの商のお役人たちを、斬りに行っていたのですね」
「お前に知らせるつもりはなかった。それを、荷の始末を言い付けてしまった。迂闊であった。一刻も早く、この手から離したかったのかもしれん」
「だいじょうぶ」
妲己の声は、やわらかい。
「だいじょうぶ、兄様。兄様が行くところ、わたしも必ず。あのお役人を斬るなら、剣の握れぬわたしには、せめて荷の始末くらいはさせていただかないと」
「どうしても、許せなかったのだ。何を許し、何が許されざるものなのか、それを示したかった。自分に。そして、為さねばならぬと、確かに思ったのだ」
「だいじょうぶ。だから——」
泣かないで。
子供をあやすような口ぶりになっていた。
少しして、呂尚は落ち着きを取り戻した。はじめて人を殺めたことについても、妹としてそばで過ごしてきた妲己を自分の気の昂りのままに組み敷いて女にしたことについても、もう動揺はしていない。
「
「知っています」
妲己も着衣が乱れているのを直し、いつものように座っている。
「だが、あの役人どもは、おれの前にあらわれた。おれは、己が何をすべきなのかを、それで知った。天数があると感じたのではない。おれが考え、悟った。為さねばならぬことを」
「それは?」
商を討ち滅ぼす。そう言い切った。
「怒りや憎しみのために斬ったのではない。あれは——」
なにかを考えるときの癖だ、と妲己は思った。眼はたしかに妲己に注がれているが、その遥か向こうにある何かを探しているようになっている。
「——心優しく、争いなどもってのほかという周公に、あとに退けぬところに立ってもらうための贄なのだ」
妲己が想像していた答えを飛び越し、何里も向こうにあるような言葉が吐かれた。
「周公のあとを継ぐべき嫡男は商王の暴虐により殺された。そのために、周は商を討ち滅ぼし、天下を平らにする。二度と、おなじようなことを許さぬために。そのような国を、作らぬために」
それから、呂尚は、妲己に様々な話をした。
国のこと。そこで生きる、にんげんのこと。憧れるからこそ人なのだということ。すべての人がそうして過ごすためだけに、国はあるべきなのだということ。
語れば語るほど、そのとおりだと自分で思えた。今、朝歌を本拠に天下を睥睨しているのは、国などと呼ぶことのできぬ代物だと。王が王であるから何をしてもよいなどという理屈は、どこにも存在せぬのだと。
王。では、王は何のために人の上に立つのか。
「この天地の狭間にあるものを我がものにするのではなく、この天地の狭間にあるものを、人に等しく与えるためなのだ」
そうか、と自分で思った。
古来、家長というものは、得た肉を平等に切り分けることがその責務の一つであった。美、という字は得たものを均等に切り分ける様をあらわすことがはじまりとされるように、呂尚は、家畜の肉を綺麗に骨から外し、それが人によって重い、軽い、大きい、小さいが無いよう均等に切り分ける作業と重ねながら、まさにそれこそが王の為すべき唯一のことなのだと思い定めた。
だからといって、呂尚は自分が王になろうなどとは思わない。その理由を妲己が訊ねると、
「おれのような奴が切り分けたものを、誰が有り難がるか。ほんとうに均等であるかどうか、いちいちおれは説明して回らなければならなくなるではないか。しかし、おれのような奴の言葉にも耳を傾ける、周公のような人であれば。王とはそういうものなのだと人が知ることができれば。誰もが信じて任せ、肉を切る
と答えた。それもそうだ、と妲己は大いに納得したが、呂尚が王となり、国中に自分の政策の平等であることを説いて回っている姿を想像してしまい、思わず吹き出してしまった。
「そうあるべきなのだ、妲己」
考えながら話し、発見したことを、さも最初から知っていたかのように得意げに言う。それは、妲己の知っている呂尚そのものであり、なぜか少し安心した。安心すると、先程までとは逆に、今度は妲己の目から涙が溢れてきて、自分でどうすることもできなくなってしまった。
「なにを泣く。なぜ、泣く」
呂尚はおろおろとその頬を流れる滴を指で掬ったが、妲己の涙は止まらない。
「わたしは、天数というものはあるのだと思います」
その涙が止まり、瞼に化粧を施したような赤みを孕んだ妲己が、ぽつりと言う。
「なにを言う。天数など」
「いいえ。兄様は、自らのお心で朝歌を離れ、申に流れ着き、知らず、その知恵で人を助け、周公のお目に止まって迎えられた。その明くる日には、商からの使いのお役人がやってきて、兄様が朝歌を離れたことが正しく、商王さまのなさりようがあまりにひどいことをお示しになった」
それを、天があらかじめ定めたことだと妲己は捉えているらしい。
「すべて、兄様が、周公さまをお助けし、この天下にあるべき国を建てられるため。天が、兄様を使わしたのです」
「馬鹿な。そのようなことが、あるわけがない。おれはいつも、おれの心のままであったのだ」
妲己は、ぴんと人差し指を立てた。自然、呂尚はそこに視線をやり、黙った。
「兄様のお心は、兄様のもの。ですが、世の人が兄様のことを、商の世を終わらせるため天が遣わしたのだと考えるようになれば、兄様は、さらにそのお心のままにしていられる」
道理だ、と思った。たしかに、妲己の言うとおりである。自分の心のうちまで他者にどうこう言われることはないし、打ち明ける必要もない。
「世の人が求める姿こそ、世の中での自分のあるべき姿」
と、呂尚は端的にそれを表した。
その心のうちに燃えている炎のことは、誰にも知られる必要はない。自分を知る、ごく限られた人にのみ、その熱を伝えていればいい。それが誰かを選ぶのもまた、我が心。そう思った。
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