天は一人の天下に非ず

 商の役人が、豊邑から一日もかからぬところで斬り殺されたという話は、周の首府のその中枢であるこの中庭を抱いた様式の建築の宮の者を混乱させ震え上がらせた。

「これがもし、我々の仕業だということになってしまえば、どのような災いが降りかかるか分からない」

 というのが、その理由である。なかには、中庭に祀られているという代々の周王の霊に助けを求めるべく、土に額を付けているものもある。


 何食わぬ顔をして出仕している呂尚は、その様を半ばうんざりしながら眺めており、黄天化が呂尚がこの事件に関わっていることを感じているのか、呂尚を睨みつけているが、それに見向きもせず、ただこの豊邑の騒ぎの中にぽっかり浮かんでいるようである。


「呂尚どの」

 と、姫昌が声をかけてきた。

「どう考える。我々が疑いをかけられるということは、ないだろうか。また、疑いをかけられぬようにするための知恵はないだろうか」

 呂尚はその血脈が西方にあることを思わせる深い光の目を細め、考えた。


 考えて、それを言葉にした。

「国が人を疑うならば、それは国がほろぶときでしょう」

 この状況ならば、前者の国とは商を指し、後者の国とは周を指すだろう。実際、この場にあった誰もが同じように捉えた。しかし、呂尚の内心は違う。

「商王がもし、この天下を我がほしいままにしようとし、そのため人を疑い、持たざる者からその持つものをさらに奪うならば」

 この余所者は何を言っているのだ、という顔を全員がした。姫昌ほか数名は、そうではなかった。その中に、姫昌の次男の姫発の顔もあった。それを、呂尚はちらりと見て続けた。

「国など、すぐにでも亡ぶ」


 しん、という音が聞こえる。この場にある人の耳の中にだけある音が、この建物自体を包み込んでいるようであった。聞き間違いか、と耳をほじったり、目をこすったりする者もあるが、ようやく、呂尚がとんでもないことを口走っているのだということを全員が知覚しつつある。


「天は、一人いちにんの天下にあらず」

 呂尚の声は、静かである。それでいて、しんとした音に染みて、滲むようにして人の耳を濡らす。

「ただ、天下の天下なり」

 天下のために天下はあるのであって、誰かがそれを占有することはできない。

 それは、はっきりとした反商の思想である。まるで小川にかがみ込んで巻貝でも拾い上げるくらいに容易く、そのことを口にしている。


「天下を共に有するならば、すなわち天下を得て、それを恣にすれば、すなわち失う。分かりきったことではありませんか」

「呂尚どの——それは、本心から口にしておられるのか」

 あまり口数の多くない黄飛が、声を震わせている。生粋の武人として生まれたときから商のために尽くしてきたこの老雄には耐え難いのであろう。それを、呂尚はまたちらりと見た。


 何の色もない。水が流れ、赤を洗いきったあとの色で、ただ見ている。彼の視線の先にも、中庭を清めるために引き込まれた流れがある。

「人のすることのうち、許されざることというものは、ある。それを侵せば、かならず人は怒る。我々がこの天地にただ一つと信じ込んでいる商ですら、かつて存在した夏の国をそうして亡ぼしたではないか」

 くどいようだが、商王とは人でありながら人でない。皇帝などという分かりやすい肩書きが生まれるにはまだ千年近い時を待たねばならず、このときの商王とは、神なるものの末裔であった。


 それを、呂尚ははっきりと否定したことになる。なるほど、人のすることならば、盗めば手を切り落とされることもあるし、誰かの命を奪えば打ち殺されることもある。

 それは、許されざることであるからだ。

 まだ、この時代、法もない。ただ、人がその進化の過程の中で身に付けた社会性の延長と言うにはあまりにも複雑な営みがある。呂尚は、許されざることは許されず、人のためになることは大いに人を助けるのだと、このとき単純にそう考えた。


 国とは何なのだろう、と呂尚はかつて申で憮然と日々を過ごしていたときに考えたことがある。いや、ずっと考えていた。そのときは、人が集うことが国だ、と、極めて原始的な結論に至った。

 全て、そこから始まる。自分だけの力で生きるために必要なものを全て得ることはできぬ。ゆえに、人は集い、誰かと共に生きる。五人が十人に、百人になり、万になる。


 人が集うのが、自分が得ることのできぬものを得るためなのであれば、それは、自分が何かをすることを誰かが肩代わりすることになる。その集いの中で、自分もまた誰かの何かを肩代わりする。そのようにして、人は生きてゆく。

 それが、国。単純すぎるかもしれぬが、それ以外に国などという得体のしれぬものの正体を言い当てることが、呂尚にはできないでいる。


 ゆえに、確信している。

 人が、誰かのために何かをするための場所ならば、その理から外れたものを、人は許しておくはずがないのだ。

 商王はどうか。

 商王は天下を我が物と思い違い、草も花も鳥も獣も魚も土の一粒も、そしてそこにいる人もすべて、己のためにだけ存在していると思っている。己がそれらのために、そのいのちの欠片の一つでも使ったことがあるかと言えば、飢える者が粟の一粒を惜しむようにそれをしない。

 そのようなもののために、なぜ人が生きていなければならぬのか。

 そのようなものが、なぜ王などという地位にあるのか。


 呂尚の頭の中では、その疑問だけが残った。しかし、はっきりとその解決策を描くことができた。

 ——亡ぼしてしまえ。そのようなもの。


 そこまで口には出さない。今ここで自分がそれを言う意味がないと思ったからだ。だから、

「ゆえに、まさか商に限り、そのような無道をおこなうはずがありますまい」

 と自分の心中と逆の結論を述べ、うっすら笑った。


 重臣どもの中には、呂尚を狂っていると思った者もいるかもしれない。黄天化など、今にも剣を抜いてしまいそうな顔をしている。


 呂尚はやはり茫洋としたまま、その視線をただ一人の人間に注いでいた。

 向こうが気付き、目があった。

 ゆっくりと、頷いてみた。特に、意味はない。

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