国と人

 夜、訪ねてきたその者の姿を見て、呂尚は特に驚くこともなく、まるでその来訪を知っていたかのように、昼間から着替えることもなく過ごしていた。

 出迎えに出た妲己も、呂尚にそのようにするよう言い付けられたのか、持ち合わせる中で最も見栄えのなものを身に付けている。


「まあ、湯でも」

 と、これまたあらかじめ沸かしてあったのであろう湯が注がれた腕を勧める。

 それを訪問客が息を吹きかけることで冷ますのを、ただじっと見ていた。


「呂尚どの」

 どれほど、お互い黙っていたか。遂に、訪問客の方から口を開いた。

「昼間のことです」

「はい。また、口が滑りましたな」

 呂尚が顔色ひとつ変えずそう言うので、訪問客は少し笑った。

「父上の様子を見て、察しています。あのあつもののことを」

「ああ、あなたの兄上のことですか」

 はじめて、訪問客の眼が上がった。そこには、大人しく内気な次男坊ではない、姫発の持つただならぬ光があり、頼りなげに室内を照らす獣脂の灯火を宿していた。


「——やはり、そうなのですね」

「いかにも、商王らしいと思いませんか、若」

 と、ほかの重臣がそうするように、呂尚は姫発を呼んだ。

「商王にとって、兄君は、自分の好きなようにしてよい、我が物でしかなかったのですね」

「子供が木彫りの玩具を求めるのと同じでしょう。はじめこそ嬉しがり、それを用いて遊んでも、すぐに飽きて乱暴に扱い、そのうちに壊してしまう。ましてや、その玩具が口をきき、自分の非を説き、周に帰せなどと言えば」

 姫発は怒りなのか悲しみなのか、目を真っ赤にしながら唇を噛んでいる。それを解くように開き、

「兄君は、常に、民のことを考える人でした。父上も、兄君がいれば何の心配もない、と常に仰っていました。とても頭がよく弁も立ち、剣を握っても誰にも後れませんでした」

「それゆえ、商王は欲した。玩具としては、この上なかったのでしょうな」

 呂尚は、どうあっても話題の向きを変えない。まるで、針にかかった大魚を決して逃さぬように。


「呂尚どの。あなたは天下一の賢人だと父上から聞いています。あなたなら、どうしますか」

 自分がどう、と言うよりも、まず人の話を聞くことを欲する。良い若者だ、と呂尚は目を細めた。自分の椀の湯がほどよく冷めているのを確かめ、少しすすり、口を湿した。


「敵とはふしぎなもので。そのようなものが無ければどれだけ幸せか、と誰もが思うのに、どこかからあらわれてしまう」

 彼らにとっての敵とは、たとえば黄河文明域から外れた地域からやってくる蛮族のことを指す。しかし、呂尚はそれとは違う、あらたな価値観をこの若者に教示しようとしている。


「敵があれば、人は共に立ちます。それも、あっさりと。昨日まで畑がどちらのものだといがみ合い、殴り合っていた者同士でも、いざ村の外からわけのわからぬ連中が武器を手に村の作物や家畜などを奪わんと欲して攻めてきた途端、きのうまでのことなど忘れたかのように手を取り合い、それをうちはらう」

「たしかに」

 敵など存在せぬに越したことはないが、敵があらわれれば人は手を取り合うことがある。いや、呂尚が例えに引いた村の者とやらも、敵がおらぬようになれば、また畑のことで殺し合うのかもしれぬ。

「人など、二人顔を合わせれば、愛し合うか殺し合うか、そのどちらかしかないのです」

 と、端的に激烈なことを言った。


「どうせなら、愛し合っていたいではないですか。そのために、敵というものは、ひどく役に立つことがあるのかもしれません」

 姫発の目が、見開かれてゆく。はじめて触れる思想というものに——この時代、どれほどの人が思想と呼べる思考体系を持っていたのかははなはだ不明瞭であるが——、彼は鮮やかな驚きを覚えている。


「敵を待つのではなく、作ってしまえばよい」

 そのために天が与えた好機にする。呂尚は、そう姫発に思想を授けた。

「そうすれば、人が集う。人が集えば、もう、それはあらたな国となる」

 その国で、人と人とが顔を合わせて愛し合ってゆけるようにすればよい。少なくとも、今の商がそのように転化することなど、どう考えてもあり得ない。

「これは、天数うんめいによって定められたことなのかもしれません」

 うっすら微笑んで言った。天数、という言葉を聞き、姫発ははっとした顔を見せた。なるほど、天数というものは、人が思い切れぬ領域に足を踏み出す強力な、いや、あるいは極めてささやかな一押しになるらしい。


 ——思いもせぬことを口にしたとて、この心に誠があれば。言葉など、ただ音を組み合わせただけのもので、それは草や木が風で鳴るのと、何も変わらぬのだ。

 と、天数嫌いの呂尚は己の胸のうちの矛盾を片付けている。だから、姫発がついに涙を流し、あなたは天が天下のために遣わした人だ、と声を高くするのを見ても、何ら心が痛まない。


「お父上は人のことを思い、人の言うことをよく取り上げ、かといって言われるがままにもならず、誠実さには賞をもって、悪には罰をもって応えることのできるお方です。だから、あなたのお父上なら、その声一つが、天下の声になる」

 あるいは、と呂尚の眼が、また姫発の涙を追った。

「あるいは、あなた。兄を殺されたことを怒り、人の為すべきことを説き、あなたの剣でその道から外れた者を誅すため、我に続けと。そしてそののち、お父君を中心に、人よ集えと。あなたなら、そう言うことができる。若いあなたがそれをすることに、意味がある。人は、その姿に打たれ、己が姿を重ねる」

 姫発は、立ち上がった。

「呂尚どの。あなたは、私に人の何たるかを教えてくれた。私が、何を為すべきかも。何が正しく、何が間違っていて、それをどう正し、人が何を求め、何のために生きるのかを」

 そこまで言えれば上々、と呂尚は思った。それとは別のところで、この少年と言うべき若者のことが、心底好きになった。


「妹君。——妲己どのでしたかな。おいしい湯を、ありがとう」

 と、この歳のものらしい笑顔を向け、立ち去った。


 翌日、豊邑の臣はおろか、その勢力の及ぶ全ての邑を統治する豪族たちや邑々の父老に対して、同じ日に集うようにと伝えるための人が方々に駆け散った。

 召集の主は、姫発。周公太子、と自らの名の前に付け置いた。

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