目の合わぬ男
「わあ、すごい」
市に並ぶのは、絹である。養蚕の歴史は古く、なんと今から五千年、この時代から見てもさらに二千年近く前から存在していたことが最近の発掘で確認されている。今の鄭州市であったはずだが、たしか出土した子供の頭蓋骨の付着物が蚕の繭のものであることが確認され、その子供を埋葬する際に絹でくるんだのであろうということが分かる、というような記事を見た記憶がある。
だが、妲己が着るのは麻ばかり。庶民がまとう、麻ですらないような植物の茎をほぐして水にさらして得た繊維を織ったものは申を出てからは着てはいないが、当時、よほどの権力者でもない限り、着替えすらも持たず昼夜同じ衣装で過ごすことも珍しくなかったから、豊邑でも見ぬほどに積まれた絹布の束を見上げれば、感嘆の声しかない。
しかし、それを求めるのは皆、身なりのよい婦人か、いかにも恵まれた生まれでありそうな男ばかりである。おそらく、官にあって身を豊かにしているか、力あるものに取り入って自らもその恵みにあずかろうとする者かであろう。
さまざまな立場の者が入り乱れる市の中にあって、庶民と見える者は絹などに見向きもせず、食うもの、日常の道具など、そのようなものばかりを求めている。
「わあ。見てください。大きな卵」
妲己は、今度はなんの卵だろうか、大きな卵を覗き込み、腹の虫に答えさせている。
「珍しがるのは結構だが、少々、声を低くした方がいい」
憮然としてその後ろに従っているのは、黄天化である。彼は軍役を解かれ、妲己の守り役にさせられてしまったから、当然面白くない。
「あ——ごめんなさい」
「まあ、豊邑にはないものも多くあるのだろうから、分からないでもないのだが」
「そうですね——でも、黄どの」
と、妲己は無邪気に親しみをこめて、それでいて礼を失わずに天化のことを呼ぶ。
「豊邑の市の方が、人は笑っていましたね」
ふと悲しげな顔をする。天化は、それがなぜかあってはならないもののような気になり、うろたえた。
「たしかに、ものの値は、貨と引き換えるにしても、物と引き換えるにしても、豊邑の方が安いかもしれん」
積み上げられた品に目をやり、そう教えてやった。
「そうなのですね。おなじ品でも、求める場所によって値が違うということも、あるのですね」
そこで妲己は、かつて呂尚がものの値について語っていたことを何となく思い出した。
「豊邑よりも、朝歌の方が、多くの費えを要している。おなじ一掬いの粟でも、朝歌の方が土が痩せ、作るのが難しい。遠くから運ばれる品は、この城門をくぐるために支払う心付けを多く必要とする。そういうことでしょうか」
かつて、呂尚は肉を仕入れ、それを切り分けて売るとき、仕入れた値よりも高くで売ることができるのは、その肉を切り分けるという労働もまた価値の算定の対象となるからだというようなことを説いた。
その理屈の延長には、同じ粟でも土が豊かであれば少ない労力で多くの実りが得られるであろうし、品物が別の地域から運ばれてきたのであれば運送にかかる費え、具体的にはその品を門兵や市場の番人などに奪われぬようにするために用意すべきものの分まで補わなければならないから、それが転嫁されるのは最終消費者であるはずで、ゆえに自然と値が騰がるのではというような着想がある。
そのことを、口にした。
「ほう。そなた、物の売り買いのことが分かるのか」
「いいえ。兄の、受け売りです」
「なるほどな」
当時の市というのは、今の我々が想像するものと、少し違う。たとえば市には罪人の処刑場としての役割もあったし、ふつうに物盗りや人殺しも出た。たとえば漢代などでは市の治安維持のための役職などがあり、職務が全うできない場合は減給処分の対象となったというが、この時代はもっと野放図であったろう。
だから、市を見たいと妲己が言うならば、天化は常に気を張っていなければならない。しかし、妲己が春を迎えた鳥のようにあちこちを飛び回るものだから、大変である。それでも、妲己はいちいち天化に話しかけ、無邪気に会話をする。そのたび、天化はあまり目を合わせぬようにして、最低限の受け答えだけをするという具合であった。
「豊邑の方が、人は笑っている、か」
「だって、そうでしょう。それとも、黄どのは、朝歌の方が人は笑っていると思う?」
「いや。先程の絹にしても、豊邑の庶人などは、求められるはずもないながら手触りを確かめて喜んだり、そういうことをしていたな」
「きっと、みんな、心が豊かなんです。そうでなくては、きれいとか、美しい、なんて思うことはできないと思います」
なぜか、天化は自分の背中が冷たくなるように思った。自分は、豊かか。きれい、だとか美しい、などと感じることができているか。そう問われたような気がし、かつ、責められているような気分になった。
「美しいと思うことくらい、できる」
かっとして、つい、口にした。妲己は天化の語調が強いことに驚いたのか、目を瞬かせている。
「いや、済まぬ」
「よかった。なにか、よくないことを言ってしまったのかと」
胸を撫で下ろす妲己から、天化はまた目を逸らす。
——侮るな。美しいものを美しいと思うことくらい、できる。
そう思った。
「まあ、見て」
はっとして目を戻すと、もう妲己は離れたところにいる。この黄砂とともに舞い降りた佳人は、小鳥か蝶のように手元に捉え置くのが難しい。天化はため息とともに、それを追った。
追ったところで、妲己の姿が数人の男に囲まれて見えなくなり、みじかい悲鳴が上がった。
悲鳴は、妲己のものである。しかしすぐに男のものに変わった。天化が、妲己に手をかけようとしていた男の腕を、引き抜いてしまいそうなほど強く捻り上げている。
「何者だ」
「な、なんだよ。いい女だと思ったから、連れて行こうと思っただけだ」
やや違和感があるかもしれないが、当時は、男女の性について今よりかなり大らかである。たとえば、これより数百年あとの漢代にあっても、庶民の間ではそうであった。
男女、配偶者の有無、そういうものを問わず、気に入った異性がいれば声をかけて誘い、一緒に出かけたり物を贈りあういわゆるカップルになり、合意があれば林の陰でも河原でも交合した。
漢代においては、野外で集団で交合をするのはさすがに法で禁じられるようになったが、わざわざそれを禁じるということは漢代において問題視されるような前例が数多くあったというわけで、それでも女性グループの方から男性グループに声をかけ、河辺で、見つかれば罰せられるようなパーティを開催したという記録もある。
余談が続くが、筆者が思わずにやりと笑ってしまったエピソードを紹介しておく。
遠いところに単身赴任をしていた妻ある男が久々の故郷に戻ってきたところ、
「旦那は単身赴任中だから、そこのイケメンのお兄さん、うちに来ない?」
と女に声をかけられた。喜んで同意するつもりで振り返ったところそれが我が妻であった、という話である。
座布団何枚分の話になるのかはさておき、そういう時代よりもさらに千年も昔のことである。市の品を飛び渡る妲己を見て、若い男が黙っているはずがないのだ。
だが、天化にしてみれば、妲己に万一のことがあっては困る。己の職責のため、電光よりも速く駆けつけ、妲己に伸びた手を振り払うかへし折るか切り落とすかしなければならない。
「なんだ、こいつ。離しやがれ。女みてえな顔してやがるくせに」
ほかの男どもが、天化にわっと襲い掛かる。しかし、若いとはいえ軍人として己を鍛え上げてきた天化である。まるで動じることもなく、一人一人の足運びや息の荒さまで測っている。
妲己が思わず目を覆い、あまりに静かになったのでそっと指の隙間から窺うと、どういうわけか五人もいた男のうち四人までが地に転がってうめき声を上げており、そのくせ天化は最初の男の腕を捉えたまま一歩も動いていないように見えた。
「な、何もんだ、てめえ」
腕が痛むのか、男が顔を顰めながら見上げる。
「この
「道とは」
天化の声は、静かである。
しかし次の瞬間、大木をも割りそうな雷光が走った。いや、剣だった。天化が、男の腕を捉えたまま、空いている左手で逆手に剣を抜き、そのまま男の首にあてがっていた。
「道とは、譲られるものではない。歩み、あるいは人に示すものだ」
天化が力を緩めると、男は崩れるように尻餅をつき、仲間を放って逃げ出した。
「ごめんなさい。ありがとう、助けてくれて」
「——困るのだ。そなたに何かあれば、俺が責めを負う」
「そうでした。つい、夢中になってしまって」
妲己は天化が自分の監視のために付けられているということを知っている。おそらく、天化自身、そのようなつまらぬ任よりも軍人でありたいと願っていることも。
「わたしなどのために、あなたのような人がそばにいる。それを、とても申し訳なく思います」
と悲しそうに笑うのは、そういう思考からであろう。
でも、と彼女は続ける。
「もっと、怖い人だと思っていました。今も、この人たちをみんな斬ってしまうものだと。でも、斬らなかった。優しい人なのですね」
「ふん。斬らずにいたことが優しいなど。斬る方が、よほど狂っているのだ」
呂尚のことを思い浮かべているのかもしれない。呂尚は、たしかにあの役人どもを自ら誅したはずだ。
「やっぱり。優しい人。斬らずにいるのが普通。とてもよい言葉ですね」
「市の品を、血で汚すわけにはいかん」
天化は剣を納め、さあ、と妲己を鹿台に戻るよう促した。
言葉は、彼の本心から来ている。市の品を、血で汚すわけにはいかなかった。ここには、さまざまなものがある。そのどれもが、美しいものであるのだと今日知った。それを汚すことなど、あってはならないのだ。
「ねえ、黄どの」
「なんです」
「もっと、砕けて話してもらった方が、話しやすいのだけれど」
たしかに、丁寧なのかぞんざいなのかよく分からぬ距離感で、ずっと話している。
「——わかった。心がける」
妲己は、喜びをあらわすため、笑いかけた。
——やっぱり、目の合わない人。面白くもないことをさせられ、怒っているに違いないわ。
と思った。
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