妲己、朝歌にありて
鹿台に参上する日である。
妲己は特に何ということもなく日を過ごしており、間者であるかどうかという以前に、妲己自身が何のために自分がここに寄越されたのか、いまだ戸惑っている様子であることに変わりはない。
当たり前のように、天化もそのそばに付いている。
「——ほう、市が、な」
紂王は、いちいち妲己の言うことに興味を示し、相槌を打ったり質問をしたりする。天化からすれば鮮やかな驚きであるが、占いのことを取り仕切り、たとえば骨の裏側にあらかじめ彫り込みを入れておいて火にくべたときに望みの形に割れるような細工ばかり得意で何の役にも立たぬくせに偉そうな連中を誅滅してから、紂王の様子は全くの別人のようになった。
まず、酒をやめた。女を絶ったわけではないが、きまった女のところにしか通わない。盗人が多いことを嘆き、市の品のことを気にする。人がどのような会話をし、どのように行き来しているのか。そういうことを妲己から聞く様子は、楽しそうでさえあった。
聞仲は、夕に一度、紂王のところに顔を出し、みじかく何かを話しているらしい。動きやすくなったのか、軍の調練も活発で、紂王も二日か三日に一度は狩猟にかこつけた調練に出ている。
——まるで、ほんとうの王ではないか。
と思いかけ、慌ててその思念を振り払った。自分は大商邑の軍人であり、その頂にあるのは神の末裔である王なのだ。
天化自身、分かっている。自分が軍役を解かれたことを不満に思っているのだと。軍人だ、とつい思ってしまうが、そもそも自分は軍人ですらなくなったのだと。周から寄越された妲己の世話役のようなつまらぬ役を押し付けられ、腐りかけているのだと。
「ね、黄どの」
不意に妲己が視線を向けてきて、我に返る。
「——市にあって妲己どのに手を伸ばしたのは、よくあるならず者の類でありました。とくに、周やほかの方どもの息がかかっている様子ではありませんでした」
妲己が、自分が連れ去られそうになってびっくりした、しかし天化が助けてくれたから何事もなかった、というような話を、面白おかしく話していたところであった。紂王に向かって、淡々と、あったこと、感じたことを報告した。
「そうか。天化。よく妲己を守ってくれたな」
紂王が笑って立ち上がり、脇の台から小さな貝殻をつまみ取り、歩み寄って天化の掌にこぼした。宝貝である。報償の意味であろう。
それが掌でころりと転がるとき、なぜか、紂王が、妲己の所有者になっているように思えて、戸惑った。べつに、紂王が妲己を殺そうが犯そうが、それに何の問題もないはずであるのに、そう思っている自分がいることを発見し、さらに戸惑った。
「紂王さまは、わたしのような者も不自由なく置いてくださり、黄どのにもこうして、惜しむことなく報いを与えられる。周にいたときに聞いていたのと、何もかもが違うのですね」
「ほう。そうか。俺は、それほどに嫌われていたか」
妲己の、遠慮のない物言いは、誰にとっても好感が持てるものであった。紂王も、思わず笑ってしまって、冗談めいた口調になっている。
「だって。とてもひどいことをする王だと。許しておいてはいけないのだと。そう聞いていたものですから」
「それは、お前の兄君から、か」
「そうです。わたし、周に戻ったら、兄様に紂王さまのほんとうのことを話すつもりです。いえ、今すぐにでも周に戻り、そうしなければならないとさえ思っています」
「そうか。兄君に、なんと言うつもりなのだ」
妲己は、少し考えた。眼を浮かせ、また戻し、ぱっと笑う。
「——とても、いい人だと」
紂王は声を立てて笑い、天化もさすがにこらえきれずに吹き出した。そうしたところで、呂尚が、ああそうか、と言って企みを止めるはずもなかろうに、妲己は大真面目にそれをすると言うのだから無理もない。
ああ、と天化は思った。自分が、妲己について感じている戸惑いが何なのか、少し分かったような気がしたのだ。
自分の知らぬものだからだ、と思った。その先には思考は進まないが、とにかく、こういう類の生き物と接したことがないから、それゆえ戸惑うのだと思い、そうすることで少し気持ちが楽になった。同時に、なにか本能的な部分において、そのことについて自分でこれ以上深掘りするべきではないという確信もあるから、それで納得することにした。
「では、妲己。お前には、商と周の仲直りの手助けを頼むことにするか」
「わたしに、どれだけのことができるのか、やはり分かりません。でも、それが、わたしの為すべきことなのであれば」
「あまり、真面目に捉えるな。できれば、長くここにいてくれ。周になど帰らず、ずっと。ここにいながらにして、お前にできることもあるであろう」
「前々から、そのように優しいことを言っていただいています。どうにかして、紂王さまや黄どののお役に立ち、周のためにもなるようなことをしたいと思います」
「そうしてくれ。お前は、優しい女だな。周のことも、とても好きなのだな」
妲己の目線が、遠くなる。周の山河を恋しげに思い出しているのか、と思ったが、のどを鳴らし、こらえきれず大笑いを始めた。
「周のことが好きかどうかなんて。一年も過ごしていないのだから、分かるはずもありません」
「それも、そうか。では、お前の故地とは」
言わずもがな、申である。たしか、その肉屋の娘であった、と天化は思い出した。
「あの川の流れ。兄様は、釣りが下手でした。それでも、わたしに一匹でも多くの魚をくれようとしました。邑の街路の埃っぽいにおい。行き交う人は兄様を避けているようで、どうやって話しかけるきっかけを掴もうか、という様子でした。畑で肥やしが
そうか、と紂王は眼をわずかに伏せた。妲己が時折見せる、遠くを見るような眼の先にあるのは豊邑の雑踏でも申の山河でもなく、兄の顔なのだということを感じ取ったのかもしれない。
「申には、楽しい思い出がいっぱい。だけど、兄様は、それだけではいられない人。いいえ、世の人が、みんな兄様を必要としていたのです。だから、周に」
「そうか。妲己は、よほど兄君が好きと見える」
紂王も苦笑いしているが、まさか兄妹を越えた男女の感情があるとは思っていないであろう。
「その兄君が周にゆくと言えば、お前もゆく、か。呂尚どのというのがどれほどの男か、一度会ってみたいと思うようになったぞ」
「いいえ、違います。兄様は天下のどこを探しても並ぶ人なんていないほどに、とても素晴らしい人ですが、その兄様が、わたしに、いっしょに来てくれと言ったのです。とても、ばつが悪そうに。わたしの知らないところでわたしのことを勝手に決めてしまった、と、なんだか物音に怯える猿みたいに」
眉を下げ、やわらかく笑う。美しい女のことを桃の花だとか喩えるものであるが、妲己のこのときの笑みを喩えるべきものを、紂王も天化も知らない。
「そんなふうに言われては、いっしょに行かないではいられないではないですか」
紂王の眉が、ぴくりと動く。男女のことがあったのか、と考えたのかもしれない。
「その兄君が、こんどは商にゆけ、と。そうすれば、お前は理由がなくとも、それが商にゆくだけの理由になるというわけだ」
「はい」
天化は、額を少し重くした。紂王に、猜疑の気持ちが生じているのを感じたからだ。いや、もともと全面的に信用しているわけではなく、なにごとか言い含められてやって来ている可能性の方がむしろ高いわけであるが、妲己の裏表のない透き通った清さのため、うっかりすると忘れてしまうだけである。
「妲己」
きょとんとして小首を傾げる妲己を、紂王はしばし見た。
「——いや、何でもない。今日は疲れたであろう。もう、よいぞ」
何か言おうとしたのだろう。しかし、何を言うでもなく、退室を命じた。
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