盂炎、朝歌に報ず

 西の空。茜から青になってゆく。

 陽が版築の城壁に落ちるのが早くなった、と紂王は感じた。

 王になって、何年になるか。たぶん、二十年か二十五年にはなるだろう。

 そもそも、産まれて、何年になるか。三十五か、四十か。どうしても、正確に思い出せなかった。先王である父の顔も、自分を産んだ母の顔も。


 大小の反乱があった。聞仲や、ほかの有能な将や、ふるくから同心している豪族がそれを打ち払い、この朝歌が侵されることなど決してなかった。

 しかし、ただここに座しているだけでは、占いのときにそれを司る者が傍らに備える青銅器とおなじで、ただ飾るのみで何の意味もないものになる。

 それは、嫌だった。自らが軍を統率するのだという気概を示し、天下に知らしめるため、これまでのどの王よりも多く軍を引き連れて狩猟に出た。

 しかし、いつも、かならず聞仲がそばにあり、結局彼が兵を指揮していた。


 占いをする者が、王としての威を示すべきだと進言してきて、それを容れた。ふと気付いたときには、自分の知らぬところで、自分の名で珍しい財物を集めさせ、何のためか分からぬような土木工事が催されていた。


 鹿台の造営が始まった頃には、もうどうでもよくなっていた。占いをする文官どもが、自分たちの周囲が潤うためにしか国を用いないのなら、王など不要ではないかと思った。実際、自分は彼らにとって理解ある王であればよく、そうでなくなればこの国の歴代の王のうちの何人かのように、不要とされてするのみである。

 財物や珍味。朝歌にいては見ることすらできぬような色の石、遠いとおい海にしか棲まぬ魚、南からもたらされる象の牙や虎の皮。それらは、なるほど、どれも大変に見事で、触れるたびに感嘆を禁じ得ないものであった。

 女。天と地の狭間にある女のうち、美しいとされるものは全て自分のもとに集まってきた。誰かが、物のようにして寄越すのだ。それらを夜な夜な抱き、白くて柔らかい肌に顔を埋め、嬌声に浸りながら精を放つのは、ほかに代え難い喜びである。

 彼らに従順でさえあれば、天下はすべて自分のものなのだ。それが王だと、誰もが言う。人の子でなく、遠い神の子であると。どの占いにも、吉兆を告げる印しか出ないのも、そのためであると。


 しかし、知っている。あの占いは、それを司る者どもの都合のいい結果になるように、あらかじめ裏側に彫り込みを入れているのだ。なにが天意か、と思うが、それ以外に政をする方法が分からないので、時が過ぎるのに任せていた。


 いつしか、胸の中にどうしても溶けない泥の塊のようなものができていた。それに与えるべき名は、知らない。だが、もたらされる酒を飲むときだけ、その泥はやわらかくなり、甘美な香りを醸すのだ。

 はじめは、杯ひとつ。そのうちに、五杯。気付けば、二十杯。そうしなければ、泥は溶けないようになっていた。

 泥の塊が大きくなっているのか、酒に酔いにくくなっているのか、どちらでもよかった。何をどうしたところで、国とは、それを上手く使う者の思うとおりにしかならぬのだから。


 聞仲だけは、ほかの者どもと違う。ほんとうに、国とは何か、王とは何かということを考え続けてきた男だ。今はもう老いているが、以前に久しぶりに戦に出たときは、昔よりもさらに冴えた戦果を持ち帰ってきた。


 しかし、たぶん、聞仲は自分よりも先に死ぬ。天とは、そういう定めを人に与えている。

 では、聞仲がいなくなったあと、自分はどうなるのか。

 きっと、胸の中にある泥が、胸のうちに収まりきらぬようになり、口からあふれ、身体を多い、まつりの泥人形のようになってしまうのだろう。

 そうなるのが、恐ろしい。そうなる前に、死んでしまいたい。しかし、それは許されない。

 自分は、王なのだから。


 周の呂尚なる者が、古今未曾有のはかりごとを巡らせ、この商を滅ぼそうとしている。自分はべつにどうなってもいいが、朝歌の薄汚れた街路や、そこを行き交う人や、彼らが丹念に手入れをして粟を作る畑がないがしろにされるのは嫌だった。

 自分は何も持たぬが、民は、自分で何かを作ることができるからだ。それを、また、勝手な連中が踏み荒らしに来るのを、許したくはなかった。

 かろうじて、王でいる。かろうじて、自分でいる。周の公子である姫考は、よい青年だった。できれば、周になど帰らず、ここで自分のそばにいて、聞仲なきあとも、自分を王に、自分自身にしてくれるような存在になってほしかった。姫考は、それができる器でもあった。


 勇気を出して、その話を持ちかけた。

 申し訳なさそうに、それでいてきっぱりと、姫考は断った。自分が今ここにあるのは父の疑いを晴らすため。紂王さまがお聞き入れくださった暁には、すぐに周に立ち戻り、父のあとを継ぎ、父よりもさらに紂王さまによくお仕えします、ということであった。

 引き止めることはできない、と思った。

 周囲の者に、そのことを漏らした。

「あれは、ついぞ俺のものにならなんだなあ」

 たったそれだけであった。


 姫考をしばらく見ないな、もう帰ったのか、と誰かに訊ねた。それで、はじめて身体を切り刻まれて羹にされ、送り返されたのだということを知った。

 目の前が真っ白になった。呂尚が攻めて来ようとするのを、誰も咎めることはできないと思った。


 だが、そのことを誰にも知られてはならない。自分は、王なのだから。


 思考が、月が出て沈み、太陽がまた昇るようにいつまでも途切れずに回る。

 そういえば、視界にも月がひくく顔を覗かせている。


盂炎うえんどのが、おいでです」

 室外から、聞仲の声がした。それでようやく、思考から解放されることができた。この時間に聞仲の声がするということは、軍事向きの話題ということである。

「盂炎か。こんな時間にか」

 盂炎は商からそう遠くない申邑——呂尚や妲己に馴染みの深いあの申である——を統治する豪族で、古くから商に全面的に協力をしてきた一族の長である。

「いや。もう月が出かかっておりますなあ、紂王さま」

 聞仲に連れられて入室してきた盂炎は、さいごに見たときより少し老けたようである。たぶん、とうに四十を超えているはずだ。しかし、白い歯を見せて人懐っこく笑うのは変わらない。

 目立つ変化といえば、髪が白くなりかけ、目尻や口元の皺が深くなっていることと、額にまだ血が止まって間もないくらいの新しい傷があることである。

「久しぶりにやって来たと思えば、こんな時間にか。それに、どうしたのだ、その傷は」

「ああ、これですか」

 見えるはずがないのに、上目になって笑う。

びん方ですよ」

 岷というのは、この商から北西の方、周の位置する関中盆地の入り口のやや北方にある一族で、しばしば商に敵対的な行動を取ってきた。

 盂炎の本拠から近いから、その迎撃はいつも自ら買って出ており、終わるとその報告にこうしてやって来る。それで、紂王は盂炎がこの時間にここにいる理由を知った。


「珍しいではないか。盂炎ともあろう者が、岷方ごときに不覚を取るなど」

「いやあ、それがですな」

 盂炎が、そのときのことを話しはじめた。ときどき、言葉足らずなところは聞仲が補足した。はじめ、報せを聞仲にもたらし、詳しく話しているらしい、と見て取った。その上で陽が暮れていたとしてもすぐに自分の耳に入れたいと聞仲が判断したということは、なにか重要なことなのだろう、と月に眼をやりながら思った。


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