馬と王と、約束
少なくともこの数年ほどは静かであったという岷方の反乱自体は、たいしたことはなかった。岷方が申の版築(板に泥を流し込み、それを突き固めて造る工法)の城壁に取り着く前に盂炎がみずから軍を率い、自慢の矛を振り回し、岷方どもを蹴散らした。
それだけで終わるはずであった。
「ところが、引き上げようとした我らを射るように、何者かが仕掛けてきたのです」
その者どもは、馬にまたがり、武器を手にしていたという。北方や西方の異民族どもにはそういうことをする者もいるが、岷方が馬を駆るなど、あったためしのないことである。
「若い男であったそうです。先頭の一人は、先が三叉になった槍を。炎のようであったとか。もう一人は、見たこともないような大振りな剣」
聞仲が、静かな声でそう言った。心当たりがある、そう言いたげである。
「新手か、と思い、俺はそれに向かったわけです。三叉の槍の男、そう、猿みたいな奴でした。その突きをかわしたと思ったら、もう、大剣の男に額を割られていたというわけです」
盂炎が、自分の額に手刀をあてがうような素振りを見せ、そのときの様子を語った。
「お前ほどの男が、か。それほどの手練れが、岷方などにいたのか。それに、騎馬だと。羌(西方の異民族)や北狄(北方の騎馬民族)でもあるまいに」
盂炎は異民族討伐などにおいては、無敗である。その名を聞くだけで岷方などは震え上がって逃げ出すはずが、それを上回るような手練れが馬を駆って武器を振るい、傷を与えるなど、にわかには想像しがたいものがある。
「若い男でした。岷方の主だった者のうち、俺がまだ首を飛ばしていない奴は、だいたい覚えています。今日の二人は、見たことのない若い男たちでした。岷方などはもともと何を企てるか分からないような連中ですから、視線をそらしたことはありません。馬を飼うようになれば、すぐに分かったはず」
「そこで、考えたのです」
聞仲である。
「岷方が用いるのは、せいぜいあちこちの旅人や、小さな邑の兵から奪う程度の武器しかない。三叉の宝槍や見たこともない大剣など、持つはずがないのです。それに、馬。それを育てるには牧が必要で、しかし岷方がうろつくのは山岳ばかり。何年もかけて牧を拓くには、かなり骨が折れるはず」
「たしかに。では、お前はその者らが岷方ではないと?」
そこで、聞仲が、おい、と声を発した。すぐに応答があり、黄飛が入室してきた。
「黄飛ではないか」
しばらく、この古雄の顔を見ていない。この時代に領土というものはないが、今、彼は実質的に商の領土と見ることができる影響地域の西の果て、関中盆地の入り口の蓋ような役割を担う
「岷方に動きありの報せを受け、盂炎どのが出られると思い、それを助けるため、私も戦場に向かいました」
到着していたときには戦いは終わっており、血まみれの盂炎がそれを迎えた。
「槍や剣のことを聞き、すぐに、思い浮かんだのです」
黄飛は、自分の思うところを話した。
哪吒。楊戩。ふたつの名が、紂王の耳に残った。
「それが、呂尚の配下の者だと言うのか」
「いかにも。私が豊邑にいた頃は、ふたりともただの若者でしかありませんでした。しかし、その後、軍を率いるほどになってもおかしくはないというものは十分に感じていました」
いつも落ち着いて、ものに動じぬ黄飛は、見るものは見ている。上辺の姿には惑わされず、その人間の奥深いところを見るようなところである。そういう安定感のある人間性だから、人について語らせれば信憑性があった。
「つまり」
聞仲が、今日、盂炎の額を割ったのが呂尚の配下の哪吒と楊戩だったのなら、という前提を設けて語る。
周は、姫昌に招かれてからさほど年月の経っていない呂尚を、その中枢にすでに据えている。たとえば、自由に発せられる軍がある程度に。周の抱える肥沃かつ広大な関中盆地に、自由に馬の牧を拓くことができるほどに。つまり、周が右を向くのか左を向くのかについて、呂尚の意がかなりの割合で介在するということである。
王侯のそばにあって耳打ちをするような。紂王がこれまでなんとなく想像していた呂尚の姿とは違う何かが、あらわれた。それは自分の周りにありながら己のためにしか国を使わぬような者ではなく、もっと激しく、ときに声や魂魄をも震わせながら語り、目を開かせるような。
聞仲が自分にするような関わり方を、している。そう感じた。
自分は、聞仲が何を言おうとも、ただの泥人形でしかない。聞き入れたい気持ちはあっても、いろいろな面倒がそれを阻む。それを断ち切るつもりで酒を絶ったのだが、しかし、おそらく、聞仲は自分が王でなかったならあの日の文官どものように斬って捨てているだろう。
姫昌は、違う。その人柄を知っている。気は穏やかでいつも渭水の流れのような笑みをたたえ、道端の老人の手を取り歩くのを助け、子供が戯れに語る教えにもいちいち真剣に耳を傾ける男である。
その二者が天地にあったとして、天地は、間違いなく姫昌を選ぶ。聞仲ではなく、呂尚を。
ふと、滅ぶのか、と思った。
これが、敵というものか、と。
石壁を切り通して木枠を嵌めた、建て付けの悪い窓は、木板で塞がれている。陽が落ちると、誰かがそうするのだ。
その隙間から、先ほどまで見ていたはずの月が白く、ほそい筋となって流れ込んでいた。
あとは、獣脂の灯り。それが、聞仲や盂炎や黄飛といった猛者たちを揺らしている。自分は、きっと頼りなく揺れて見えているのだろう。その影すら、彼らほど濃くはないに違いない。
どうせ、この灯も、脂が切れれば消える。誰かが注ぎ足すから、続くのだ。月も、陽が昇るからこそ落ちる。もし陽が昇らぬのなら、月はいつまでも落ちることなく夜を濡らすはずである。
不思議な感覚だった。今、盂炎らがもたらしているのは、おそるべき凶報であるはずなのに、なぜか、心がとても柔らかい。
生きられる。理由はない。そう思った。滅びを約束する敵というものは、もしかすると、自分がここにあるだけの理由になり得るのではないかと思った。
彼らが、自分を求めている。
聞仲と盂炎と黄飛が、そのほかの数え切れぬ将兵が、その身を切り、血を流し、戦っている。
民が土に穴が空かぬよう(黄河のもたらす土壌は、手入れを続けぬと毛細管が形成され、耕作がしづらい。そのため、はるか太古の昔からこの流域の人々は土をこまめに耕し、肥をやり続けてきた)耕し、すべてのいのちを繋いでいる。
それらすべてが、失われる。それが、滅びの約束。
それを見た。
抗うのだ。それに、どこまでも。
皮肉かもしれぬが、周の脅威が大きくなったことで、はじめて、ああ、俺は国にいる、と思うことができた。
この時代、詩というものがすでにあったかどうかは定かではない。しかし、詩想のようなものが豊かな、ものに感じやすい少年であった紂王は、恐怖と感嘆とともに、己のありかを知った。
——俺を生かすのは、滅びだ。
「なぜ、涙を」
聞仲が驚いている。自分が涙を流していることに、それで気付いた。
「いや、なんでもない。盂炎、急報について感謝するぞ」
袖を払った。
「どちらへ?」
決まっている。周の脅威の大きさと、その向こうに約束された滅びを目にした今、すべきことはひとつである。
「決まっている」
口に出して答えた。言わねば、分からぬだろうと思ったからだ。
「——妲己のところだ」
居室には、ぽかんとそれを見送る三人と、揺れる灯火が残された。
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