天化、疾る
婚
「——本気で、仰っているの?」
妲己が、ちょうど飲もうとしていたのだろう、水で満たされた
「ああ。俺は、本気だ」
「紂王さまの直々の仰せです。お断りすることは、許されないのでしょうね」
「断りたければ、断ってくれてもいい。べつに、咎めたりはせぬさ」
「では、ひとつだけ問うても?」
「なんだ」
陽が高い。さすがに、婦人のところに陽が落ちてから訪いを入れるのは、憚られた。聞仲や盂炎らの前を出て、ふとそう思い、自室で十分に眠ってから訪った。
そろそろ、様々な木の実が落ちはじめる頃である。それを告げる祭祀の日も、近い。
全然関係のない、そういうことを考えた。妲己の瞳が丸く、それを思わせるからか、なにか実りや恵みというような概念を暗示的に彼女から感じているためかは、分からない。
「なぜ、わたしなのです」
「お前を、この天下に
「欲しいものは、全てそのお手に入れたいと思われるから?」
「いや、違う。
妲己はその物言いがおかしかったのか、少し頬を緩ませた。
たしかに、紂王の妾の数は異常に多い。利害のことに聡い連中が、物のようにあちこちの邑や
気にいって、しばしば通う女は山ほどいる。しかし、どの女にも、精を体内に放たぬことにしていた。それをすると、後がややこしいからだ。
衣服を剥げば同じようなものがあり、同じような声、同じような温度、同じような匂いしかせぬ。女は、どれでも同じ。そう思っている。正妻である姜婦人に対しても、同じように思っている。
「だが、決して、ほかの女と同じように、お前を求めるわけではない」
「わたしが、周の呂尚と繋がる女だから?」
言葉は皮肉である。しかし、その頬や口元に浮かぶ笑みは、透き通っている。紂王は自分の背中が冷たくなるのが、内心にあるものを見透かされたと感じたためなのか、それとも妲己の醸す妖しいまでの色香に当たられたのか、自分で理解できないでいる。
「わたしを手懐け、兄に使いとして寄越し、従わせようとお考えなのですね」
「それは、確かだ」
「まあ。こういうとき、男の人とは嘘をつくものとばかり思っていたのに」
妲己が声を高くした。楽しんでいるようにも見えるが、その内心がどのような形であるのか、いや、彼女が見ている天地というものがどのような姿であるのか、想像すらできない。
「そうか。嘘をつく、か。お前は、案外、男を知っているのだな」
「だって」
くすくす、と喉を鳴らす。それから、また遠い何かを見ようとするような眼になった。
「兄様だって、嘘ばかり」
「そうか」
嫉妬した。やはり、呂尚とはただの兄妹ではなかった。そのようなことをまず考えてしまう。
妲己の、薄桃色の唇が、なにかを言おうとしてやわらかく開く。その僅かな間隙に、一筋、糸を引く唾でさえ、美しいもののようであった。
「——兄様は、わたしをここにやるとき、何も大事なことは仰らなかったのですもの。紂王さまに取り入ってその骨を抜いてこいだとか、朝歌の軍の様子をひそかに探って知らせろだとか、ほんとうに、なにも」
「そうか。お前も、さぞ困ったであろう」
「はい、それはもう。ここに来てからというもの、紂王さまも、黄どのも、ほかの方々も、苦しいほどに良くしてくださいますから。わたしがここですべきことを見出すことを、許して下さいました」
「お前は、商にきて、どれほどになったか」
妲己は、息をひとつ漏らした。目に見えぬはずのそれを、紂王は目で追った。
「——もう、一年あまり。次に空が霞む季節がやって来れば、二年になります」
「そうか。それほどにか」
「わたしのために黄どのは軍を解かれ、たぶん、今も腹を立てておられると思います。とても優しい方ですから、わたしにそれを悟られぬようにしておられます」
「産まれたときから武人。死ぬときも武人。そう思っていたからな」
紂王も、後代の言葉を用いるなら忠烈無比と言うべきあの若者が嫌いでなかった。妲己のそばに付けたのは、彼ならば間違いを起こさず、監視もし、妲己にとってよい日常の支えとなることができると思ったからだし、それができると思えるのはこの天地の間に彼一人しかおらぬと思ったからだ。
「それで、どうだ。お前の為すことは、見出せたのか」
窓の外で、鳥が飛び去った。冬が来たのだ。暖かくなるまで、あの鳥は姿を見せなくなるだろう。
妲己に眼を戻す。妲己もまた、同じ鳥を追っていた。
「——はい。おそらく」
その眼を紂王に戻すと同時に、骨に文字を彫るときのような確かな色の声で答えた。
「そうか。では、どうする。俺は、お前に妻になってほしいと請うた。受けるか、否か」
「お受けします」
それで、決まった。紂王は、妲己の内心のことを察しているだろう。妲己もまた、内心のことを知られていることを認識しているはずである。
そのうえで、合意が成立した。
困ったような顔をしている、と妲己を見て思った。しかし、口元はいつもの柔らかい笑みで満たされていた。
滅び。また、その言葉が浮かんできた。妲己がただ笑っているだけであるのに、なぜかそれを思った。それどころか、妲己は自分の妻になることを受け入れると言うのである。それなのに、頭に浮かんだのは、滅びのことだった。
ただ妾を迎えるのではない、今で言う婚礼と同じような形式の儀式で妲己は迎えられた。夏の晴れた日に突然雷が鳴るようなこの婚に、準備に疾る者、人を呼びにゆく者など、朝歌はこの十年で一番の騒ぎになった。
盂炎をはじめとする商のもとにある邑の長や豪族の長など、主だった者が揃う前で、父祖の鬼神(この場合は魂、という意味)に、商を拓いた
——
そう祈ったのちに鹿の肩甲骨が火にくべられる。
無論、答えは吉である。
そののちは当時は貴重で、有力者しか持ち得ぬとされていた牛が何十頭も葬られ、あとの宴の場に供された。
正妻の姜婦人などは自分よりも遥かに若く、しかも美しいという言葉すら当てはまらぬ、光そのもののような
聞仲は、喜んだ。
「御身にとっての幸は、この聞仲にとっての幸。まさに戦いにならんとしている今だからこそ、妲己ならばこうして儀と礼のもと迎える意味があると思います」
と、上機嫌で杯を干した。紂王が酒を絶ってからというもの、彼もまた一滴も酒を口にしなくなっていた。杯に注がれていたのは、塩を少し溶かし込んだ水に、果物を漬けた液体である。
宴席の場でも、この飲み物あるいは湯が許されていた。酒を欲する者はべつにそれを禁じることはなく、ただ酔って暴れたりした者はあとで罰した。
たいていは紂王に気をつかって酒の瓶には手を伸ばさぬが、若い天化などは気にするつもりがないのか、次々と杯を干している。
「騎馬を周が使うとなると、これは大変なことですなあ、聞仲どの」
と黄飛が声をかける。それについて聞仲は喉を鳴らして唸ったきり、答えなかった。異民族との戦いにおいて騎馬の機動性が戦闘において非常に強力なものとなることを知っているからか、あるいは別に思うことがあるからか。
盂炎も混じり、軍事の話になった。天化は、やはり見向きもしない。もはや自分は軍人ではないのだから、というところであろう。
一方、妲己は、絹で織られた朱の衣を纏い、その下の絹は深い草色で翡翠や瑪瑙、珊瑚でできた首飾りや髪飾り、腕飾りを身につけている。
正直、動きにくくてかなわない、と思ったが、隣にいて穏やかに聞仲と話している紂王がこちらに視線をやるのを感じる度、彼女がこの商にやってきたときに天地を覆っていた黄砂が霞ませる陽の光のようにおだやかに笑みかけてやった。
女は歌い、あるいは踊り、これはと思う男の前でしなを作る。男は大いに食い、大口を開けて笑っている。
とても賑やかな場で、たのしい気持ちにならなければならないはずであるのに、どういうわけか、自分だけがこの天地にひとつだけ浮かんでいるもののように思えた。
いや、もうひとつ。自分にときおり注がれる、紂王の目だ。濁っているとか澄んでいるとかではなく、その目にも、おなじものがあると感じた。
初夜については、妲己は、こんなものか、と思った。呂尚の方がずっと激しく、心揺さぶられるものがあった。
怒り。悲しみ。そういうものが、この相手には何もない。深い井戸を覗き込んだときのように、何もない。そう感じた。
それでも、紂王を傷付けるつもりはないから、天が人に与えたとおりの声を上げ、精一杯に応えた。
案外あっさりとことは済み、紂王はさっさと起き上がって背を向けて座った。
「お前の為すべきことが、成る日が早く来るといいな」
それだけ言い、あとは妲己が眠るまで彼女の頬や肩に手を当てていた。
そこではじめて、妲己は感じ取っていたものが何であるのかについて想像が至った。
——寂しいのかしら、この人は。
口に出すことはなく、それならば少しでも寂しさを紛らせてやりたいと考えることなく思い、自分のちいさな手を紂王のそれに重ね、目を閉じた。
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