老人の石

 婚を済ませたからといって、妲己の日常は変わらない。ただ、三日に一度、紂王のところに行って話をする、ということをしなくなった。そのかわり、しばしば、夜になってから紂王が彼女を訪った。


 閨で話すのは、他愛もないことばかりであった。紂王が子供のころ、朝歌でいちばん高い木のてっぺんに登ろうとして足を滑らせて怪我をし、泣き喚いたところ、駆け付けた聞仲が泣き止むまでじっと紂王を見下ろしてただ立っており、泣き止んで立ち上がってはじめて背に手をやり、大事ありませんか、と声をかけたこと。

 ほかの豪族の長子が親に連れられて朝歌にやってきたとき、意気投合して取っ組み合って遊んでいたところ、相手に怪我をさせてしまい、また駆け付けた聞仲に頬を叩かれたこと。

「遊びなら、相手を傷付けることがあってはならない。戦いなら、相手を傷付けてもうろたえてはならない。若、どちらにしろ、あなたの振る舞いは、人の王たるものではない。奴め、俺にそう言いおった」

 どれもこれも、今にしてみればつまらぬことばかりである。しかし、妲己は、紂王が昔の話をして、聞仲に何を怒られただとか言うときだけ、笑うのだということに気づいていた。


 いや、普段でも笑顔を見せることはある。しかし、その笑顔はどこか虚ろで、自分が置かれている周辺の状況がもたらす反射的作用でそういう表情を示しているだけという具合であるところ、こういう話を閨でするときだけ、

 ——楽しそうに。

 と妲己が感じるように笑うのだ。だから、話が尽きるまで、一生懸命に聴いてやっている。ひょっとすると、自分を抱くことよりも話をすることの方が紂王の行動の内で大きな比重を占めているのではないかと思えるほど、紂王はよく喋った。


 その話題の中には、父や母のことは一つもなかった。彼に薫陶を授けるのはいつも聞仲で、身の回りの世話をするのは何人かの女。その中には、死んだ聞仲の前の妻もいたらしい。

 紂王の身の回りには、いつも多すぎるほどのものがあった。家畜、食糧、財宝、そして人。今も、そうである。しかし、なぜか、妲己には、紂王が何も持たずに細い木組みで造られた舟で河の流れるままに漂うだけのもののように思えて、だから、少しでも彼の求めるものに応えることで、力になろうとした。


 好きか嫌いかと言われれば、嫌いではない。しかし、呂尚のことを思い出したときの、全身を焼かれるような想いは、決して湧いてこない。紂王に抱かれるとき、呂尚のことを思い返しながら時をすごすことすらある。

 ——このひとは、寂しいのだ。だから、わたしがそばにいなければ。

 ただ、そう思った。


 妲己の日常は、あとは変わらない。

 また、市を見に行く。閨のあるおなじ鹿台の、離れた部屋に顔を出す。

「天化どの。また、一緒に」

「今日は、どこへ」

 天化は、ほかに役割がないから、妲己から声がかかるまでは居室で武具の手入れをしているか、外で剣を振っているかのどちらかである。このときは居室にいたから、手にしていた剣の手入れをやめ、鞘におさめて立ち上がり、素早く腰に佩いた。

「市へ」

「またか。ついこの前も、行ったではないか」

「だって」

 市を見るのが、好きだった。人が、物が、言葉が行き交っているのを見ると、楽しい気持ちになる。それ以外の目的は、ない。


 雑踏。天化がうんざりしたような顔をしながら、妲己の後に続く。離れぬようにしているのは、また暴漢に連れ去られそうになってはかなわぬと思っているからであろう。

「まあ、すごい。見て、この石」

 藁を敷いて板を乗せた上に載っている、売り物の石のひとつを手に取った。

「おお、おお、分かりますか。この美しさが」

 物売りの男は、よく日に焼けている。埃除けの被り物をしているから、顔はよく分からない。声や姿勢、仕草は老人のようである。

 妲己が石を光にかざすと、板の上では青く見えたものが深い緑になり、かすかに透き通って見え、美しかった。

「翡翠の一種です。西の方では、ごくまれに、このようなものが採れるのです」

 老人が、粟か貨と引き換えさせる——売る、とあらわすのが端的であろう——つもりで、説明をはじめた。


「私は、東西南北、あらゆるところの珍しいものを売って歩くのが好きでしてね。お嬢さん、あなたのような人が、私のもたらしたものを手にとり、心動かすのを見るのが好きなのですよ」

 老人は、満足そうに笑った。

「ねえ、見て、天化どの。綺麗でしょう」

「磨けば、よい首飾りにでもなるかもしれんな」

 剣には目がなくとも、天化にとっては宝玉などそこらの石と何ら変わりはないだろうが、とりあえず調子を合わせている。


 紂王のしょうとなってから、妲己は天化のことを黄どの、ではなく天化どの、と呼ぶようになっていた。王の妾なのだからそれでよいのだが、不思議なもので、呼び方が変わると、さらに親しみのある話し方になった。話し方が変わると、天化の表情からも張り詰めたものが薄らぎ、彼本来のものが見えるようになっていた。見えたところで、表情や声色の変化の薄い男ではあるが。


 ——ことばとは、不思議なものだ。いつ、誰が作ったものか。鳥や犬はただ鳴くだけで、言葉を持たぬ。

 人だけが、言葉で、目の前の相手にものを伝えようとする。犬を見て、唸っていれば怒り、かぼそく鳴いていれば寂しいのだろうと分かるように、我々は、相手の発する言葉を理解することができる。

 言葉とは、不思議なものだ。言葉が変われば、人が変わる。言葉とは我々にとっての鳴き声であると同時に、己と相手とがどのような間柄であるのか、それを違いに確認し合うような働きもあるらしい。

 妲己の視界の端に、渭水の流れに向かって釣り糸を垂らしながら、迎えにきた妲己に背中でそう長々と語っていた呂尚の姿が映っていたか、どうか。


 とにかく、天化は、自分を天化どの、と呼び、もう自分のものになったかのようにただ色が珍しいだけの石ころを見せびらかしてくる妲己に、なぜか何かしてやりたいと思った。


「老人。その石は、どれほどする」

「そうですな。粟なら、七斗」

「なんだと」

 当時の度量衡がどのようなものであったのか、筆者は詳細には知らない。たしか商においても尺という単位を用い、一尺はおよそ十六センチ(一部、十七センチほどの尺度も出土している)ほどであったはずであるが、重さについては知らない。だから、のちの時代のものを充てるが、戦国期において一斗とは十升であり、当時の一升をグラムに換算していかほどになるのかもまたよく分からぬが、とにかく妲己が指でつまんでいる親指ほどの、磨きもしていない石ころ一つが粟七斗とはいくらなんでも高すぎるだろう。天化がため息をつき、妲己にこの場を離れることを促そうとしたところ、

「あるいは」

 と、老人が言葉を継ぐ。

「あなたがお持ちの、貨ひとつと引き換えてもよい」

 もちろん、貨ひとつならば粟七斗よりもまださらに高い。これ一つで、豚が一頭買えるのだ。天化は呆れたが、首から下げている麻袋に、以前、妲己を暴漢から救ったときに賜与されたものがあるのを思い出した。


「貨なら、ここに。なぜ、俺が貨を持つと分かった?」

「なあに、簡単なことですよ」

 老人が、くぐもった笑いを立てる。

「あなたが、どうにも面白くないと感じながらも、この美しいお嬢さんのうしろにぴったり付いて歩いておられたからですよ」

「それでなぜ、俺が貨を持つと分かる」

 天化は、訝しい顔をやめない。

「あなたとこのお嬢さんは、夫婦ではない。お嬢さんは美しい絹を纏っておられるが、あなたは麻だ。髪も整えず、身なりに気を配られないようだ。あなたの手を見ると——武人でしょう。おおかた、その任を解かれ、このお嬢さんの護衛をさせられている。それゆえ、その褒賞として貨のひとつくらいはお持ちだろう、と考えたわけです」

「なるほど」

 天化は、さすがに苦笑した。たしかに、この世の美しいものを全て並べても勝てぬと言われる妲己と自分では、吊り合いが取れないだろう。自分の手は剣を振るい続けたことにより固くなり、ができ、荒れている。衣服も、夏は汗を吸い、冬は凍えなければ何でもよいと思っている。


「老人。その石を、貨ひとつと引き換えてくれ」

 天化はため息をつき、袋から貨を取り出して差し渡した。

「よろしいのですか。貨なら、粟七斗と引き換える方が、いくらでも安い」

「お前から言い出したのだ。さっさとその石をよこせ」

 老人は恭しく貨を受け取り、石を天化ではなく妲己の掌に載せてやった。

「いいの、天化どの。嬉しいけれど」

「いいんだ。貨など、俺が持っていてもどうにもならない」

 天化はそっぽを向き、ぶっきらぼうに答えた。


 天化があの貨を賜与されたとき、なぜか腹立たしい思いに駆られた。妲己が紂王の所有物で、だから彼女を守った報いが紂王の手で与えられるのだと。

 そうであっても何の問題もないのだが、なぜか、それを腹立たしいと思った。そして、実際、そのとおりになった。

 妲己は、紂王の妾になったのだ。紂王の思うときに閨を訪れ、この白い腕を、脚を思うようにできるのだ。桃の実のように色付いた頬が、さらに紅を帯びるのも、紂王は見たことがあるのだろう。

 貨を手放すことで、そういうわけのわからぬ思いから解放されるかもしれない。天化は、そう考えた。


 豚一頭とも引き換えられる貨と引き換えたのは、妲己の嬉しそうな顔と、

「ありがとう。じゃあ、これはあなたに与えてもらった石ね。誰かに頼んで、首飾りにしてもらいます。そうすれば、いつも、あなたにもらった石だ、と思い返すことができる」

 という言葉。

 言葉とは、不思議なものである。

 天化は、なぜか、自分が決して這い上がれぬ深い穴に、抗いようのない大きな力で引きずり込まれるような感覚に陥った。

 貨を手放した。妲己は石を得た。それで、喜んだ。それでよいはずなのに。

 天化が得たのは、では、妲己は首飾りに触れるたび、自分を思い出すのではないか、という焦りに似た気持ちと、それはすなわち、妲己が自分に触れているのと同じなのではないかという困惑であった。

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