亀裂

 天化は、それから数日、なにも手につかずに過ごした。剣を振るっているときだけは、心が落ち着いた。丸二日振るっていると、翌朝起き上がるのも辛いほどに腕や背が痛くなり、どうにもならなくなってただ床に転がってまた日が暮れるのを待ったりもした。

 あれから数日、妲己からの声がかからない。

 ふと思い立ち、戸外に足を向けた。


 市。また、ここである。

 妲己が一人で来るはずもないであろうに、天化は、なぜかここに足を運んだ。

 婦人が、絹の手触りを確かめている。それは、もしかすると妲己かもしれなかった。粟を売る者の籠の前に、年老いた女が屈んでいる。それも、妲己かもしれなかった。男が引く荷車の後ろを、手伝いのつもりか押す娘も、妲己かもしれなかった。


 ああ、と天化は立ち尽くした。そして、思った。

 ——何てことだ。俺は、あの娘と、婚を交わしたいと思っていたのだ。

 そしてその思いは、日ごとに強くなっている。

 産まれてこの方、このようなことは無かった。街を歩いていると娘たちに声をかけられ誘われることもあるし、鹿台にいる女から夕暮れ時に手招きをされたことも一再ではない。しかし、天化自身が、女を女として見たことがなかった。


 あの黄砂の振る日、全てが変わった。

 ——いや、狂ったのだ。

 父は武人である。祖父も、曽祖父も武人であった。遥か昔には、自分の血に連なる者の一人が、かの天乙をたすけてその創業に携わったのだと聞いている。天化の天は、そのことに因み、天乙から取ったのだと。

 だから、自分も当然に武人であるはずであった。物心ついたときにはもう棒きれを振り回していた。長じたのち、商を脅かす異民族や方どもがあれば、ただちに剣でもって鎮圧するつもりであった。

 ところが、彼に与えられたのは、周にゆき、周公姫昌の目付けをすることであった。ようやく商に戻り、軍が与えられたかと思えばすぐにそれは剥がされ、妲己の守り役にさせられた。

 こんなはずではなかった。

 妲己のことを思うと、胸に火の玉を入れられたようになる。背骨は凍り、脚は震える。今、方が押し寄せてきたとしても、このような有様では、立ち向かうことはできないだろう。いや、それ以前に、有事のとき、もう彼には声はかからぬのだ。


 剣さえあれば。剣さえあれば、為し得ぬことはないと思っていた。剣さえあれば、打ち倒せない敵などいないと思っていた。しかし、今、彼の揺れた視界にあるのは、剣ではどうにもならないものだった。

 妲己を想うこと。剣で、それを斬れはしない。

 自分が、武人でなくなってしまったこと。ただ剣を携えるだけなら、石売りの老人でもする。

 商には、聞仲がいる。彼が生きている限り、何人にもそれは侵せない。岷方びんほうの小規模な反乱があったときにあらわれたという騎馬の群れは、間違いなく周のものだろう。いや、周が、ひそかに進めていた、兵を馬に載せて戦わせる、そういう集団を作るという画策の、実行力の検証だったのだ。そのために、岷方に反乱を起こさせるように仕向けたのだ。そう確信している。

 聞仲は、それに対抗する策を持って、いや、さらに前の、斉をはじめとする反乱の連合軍を打ち破った時点ですでにその計画があり、進めていたらしい。

 それが何なのか、自分の耳にまでは届いてこない。


 ほんとうならば、自分があそこにいたのだ。

 今、自分が最もありたいと願っている場所は、もはや戦場ではない。妲己の閨だ。そのことが、天化を苦しめた。

 剣では、それらのうちの一つとして解決はできないし、剣がそれらのことについての道を拓くということもない。自分が、剣から遠ざかっている。そう思えた。

 だから、ただ、立ち尽くしていた。意味がないことをするのは嫌いなので、戻ろうと思って足を返しかけた。


「武人どの」

 声をかけてきたのは、先日の石売りの老人であった。

「これはこれは。もう、石は売り切ってしまいましてな。西へ、戻るところなのですよ」

 天化が立ち尽くしているのを見て、老人は、また石を求めに来たが、前に藁と板を広げていた場所に自分の姿がないのを見て、もう市を引き払ってしまったのか、と思って立ち尽くしているのだと思ったらしい。

 天化があたりの世界を視野に入れると、なるほど、前に老人が石を売っていた場所であった。


「いや、老人。もう、石はいらぬ」

「そうですか。お気に召しませんでしたかな」

「いや、そうではない」

 老人は、天化の様子が尋常ではないのを見て、心配そうに言葉を継いだ。

「なにか、胸に思うところがあるようですな」

「放っておいてくれ。お前に、関わりのないことだ」

「あの、お嬢さんのことですな」

「お前には関わりがないと言っただろう」

 天化が若干殺気立ったが、老人は分からぬのか気にしないのか、ゆったりと笑った。やはり、埃除けの被り物のために顔はよく見えないが。

「武人どのは、あのお嬢さんを、心から愛しく思っておられる」

「お前などに、何が分かる」

「分かりますとも。あなたが彼女の右側から離れぬのは、自ら抜いた剣で彼女を傷つけないため。左手が鞘ではなく、ふわふわと宙を漂っているのは、彼女がつまづいたとき、それを支えるため。あなたは、命じられたからではなく、彼女のために彼女を守っていたのだと、そう思っています」

 天化は、黙って俯いた。なぜか、悔しいという気持ちが込み上げている。

「なぜ、恥じるのです。男が、女を好いた。それは、天が人に与えた当たり前のさがではないですか」

 そのため、人は子を為す。妲己もそうして産まれた。紂王も、聞仲も、この老人も、そして自分も。


「今、己がここにあるのは、誰かと誰かが好き合ったからです。私の産まれた国では、そう言います」

「お前は、商の者ではないのだな。西に、お前の国があるのか」

 天化は、そこでふと自分が老人がそうするのに合わせて切り株に腰を下ろしていることに気付いた。

「ええ。砂の多い国です。雨は、あまり降りません。私の産まれた国のさらに西や南の果てには、誰も決して越えることのできない山の塊があります。その山に突き当たるまで、ずっと、おなじような景色です」

「そうか。お前が産まれたときと、今と、それは変わらぬか」

「ええ。もう、何年も戻ってはいませんがね。たぶん、何百年経っても、おなじなのだと思います」

 この老人が、天化の言うことに言葉を返す。その言葉に、天化はまた言葉を重ねる。自然と、会話になった。

「その剣も、西の国のものか」

「ええ。こちらでは、あまり見ない形でしょう。荷を奪われてはどうにもなりませんから、見せかけで持ち歩いています」

 天化は、つい老人が腰に佩いている剣の鞘が不思議な湾曲を描いているのに目をやった。どのような振り心地なのだろう、と想像もした。


「西で、東で、南で、北で。色々な人を見ました、あなたのように、人を思い、そのために苦しむ人も、多く。私があの石をこの朝歌に持ってきたのは、あの石に不思議な力があるからなのです」

「なんだ、それは」

「あの石は、人と人を結び付けます。あの色の石は、滅多に出ぬのです。結ばれなければならぬのに結ばれない。そういう男女のところにしか、あの石は行かぬのです」

「それも、お前の産まれた国の言い伝えか」

 はい、と老人は重々しく頷いた。天化にしてみれば馬鹿馬鹿しいことだが、どうやら老人はそう確信しているらしい。


「信じておられませんな。しかし、実際、あの石は、あなたたちの前にあらわれた。あなたは石ひとつの値としては考えられぬほどのものを私に支払い、あの石はお嬢さんの手に渡った。それは、確かにあったことです」

「それは、そうだが」

「そして、あなたは、あのお嬢さんのことを思い、眠れぬほどに胸を焼いておられる」

 それもまた、事実。


「お行きなさい」

 と老人は言う。

「あのお嬢さんのところへ。あなたがすべきは、それだ。あのお嬢さんの影か足跡でも残ってはいないかと、このようなところを彷徨って、私のような老人と話していることはない」


 走っていた。なぜか、走っていた。老人に言われたからか。天化自身、分からない。しかし、彼の足は、何かに取り憑かれたように回転していた。

 その足が止まったのは、鹿台の、これまで足を踏み入れることのなかった領域。その一角。空はいつの間にか、濃紺が茜を浸食しはじめている。

 もう、人も、鳥も眠りに向かってゆくはずの時間である。それなのに、天化だけが、肩で息をし、その口から生命の塊のようなものを吐き出している。

 これからの時間、鳴くのは虫だ。

 ——俺も、同じようなものだ。

 そう思った。

 室外の気配を感じたのか、薄い扉が開いた。


「——天化どの?」

 妲己だった。

 その声は、天化の知っている天と地に、もう二度と回復のできない亀裂を生んだ。

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