わたしのため
妲己は、拒みはしなかった。現代とは、こういうことに対する感覚が違う。それだけで片付けてよいかどうかはともかく、天化は、驚いた。叫ばれ、人を呼ばれ、その場で斬られるか、捕らえられて首を刎ねられるかのどちらかだと思っていた。しかし、そのどちらでもなかった。
妲己は、まるで、来ることを知っていたかのように。待っていたかのように。天化どの、と名を呼ばれても答えず、ただ目を血走らせ、悲壮な影を浮かべて息をしているだけの天化の手を取り、部屋に引き入れたのだ。
天化は初めてのことで、勝手が分からなかった。だから、妲己が、手ほどきをするように、仕方を教えてやった。
遠い記憶の中で、父の黄飛に剣の振り方を教わったときのことを思い出した。いつしか、誰にも教わることなく、自分で技を工夫するようになっていた。だから、今も、途中からは自分なりに接した。そうすると、妲己の声は高くなった。かならず誰かに聞かれる、と思ったが、止めることはできなかった。
ここを訪ったときに天化がしていたような息を妲己が吐き、やがてそれも静かになったころ、乱れた髪のまま、薄汗の浮かんだ頬を笑ませ、言った。
「もう、お別れなのね」
意味が分からなかった。
無残なほどにはだけた衣から覗くしろい肌。その胸元に、青い石が飾られていた。磨かず、そのまま首飾りにしたらしい。靄の中を手探りで歩くような頭で妲己の言う意味を考えながら、それを見ていた。
「これがあなたの、お別れなのね」
妲己は、笑っている。しかし、その目からは、汗と違うものが流れた。涙。天化は、混乱した。
「あなたは、殺されてしまう。ううん、死ぬつもり」
「構わない」
やっと、意味が分かった。妲己は、紂王の妾なのだ。それを抱いたとあれば、天化は間違いなく首を刎ねられる。それならば、それでよかった。
「嫌」
と、妲己は言う。また、天化は戸惑わなければならなかった。
「あなたが、わたしのために死んでしまうなんて、嫌。絶対に、嫌」
「べつに、お前のせいで死ぬわけではない」
「ううん、嘘。あなたは、わたしのために、あなたであることを禁じられてしまった。あなたがここに来たのは、自分でない自分を殺すため。そうしなければ、あなたは、ずっとあなたでないままだから」
言われてみれば、そうかもしれなかった。武人でないなら、それは自分ではない。妲己を思い、焦がれ、剣すら振れぬ者は、自分のかたちをした別のものでしかない。
その自分を殺すため、ここに来た。望むことを遂げれば、死ねる。その先はない。死ぬしかないのだから、妲己とともに生きてゆくような
頭のいい女なのだ、といまさら思った。自分には見えぬものを見、自分の知らぬ天地で生きているのだ。その妲己が言うのだから、間違いない。
——そうか。俺は、これで死ぬのか。紂王の誅に服し、不義の首を晒すのだ。なるほど、相応しいものだ。
と思った。しかし、妲己は、嫌だと言う。
では、どうすればいいと言うのか。天化は、分からなくて、ほとんど泣きそうになって、妲己の顔を見た。
「そんな、子供みたいな顔をしないで。お願い。死なないで。それだけなの」
「しかし、俺は——」
唾を、飲み下した。その唇に、妲己が重なってきた。
「生きて。わたしのために死ぬくらいなら、わたしのために生きていて」
唇は重なったまま。曇った音が、天化の頭蓋を揺らす。どんな酒でも、酔ったことなどない。紂王が酒気を発し、言葉が怪しくなっても、聞仲や父親の黄飛が顔を赤らめながら大声で議論していても、いつも、冷めた目でそれを見ていた。しかし、今に限っては、高熱に気付いた朝のように天地が回っている。
「お前が、この石に触れ、俺を思い出すと言った」
脈絡のないことを言った。なにか伝えようとするが、うまく言葉にならない。
「こんな石」
妲己は、首からそれを外し、天化の手に乱暴に握らせた。
「あなたが、持っていて。あなたの石よ」
「お前の石だ」
「いいえ。あなたの石。あなたが、わたしを思い出すの。わたしは、石なんてなくたって、いつでもあなたを思い出すことができる。でも——」
でも、死んでしまったら。
「——死んでしまったら、いつか、忘れてしまうじゃない。まだ小さい頃、隣の家にいた犬。わたしのことが好きだった。わたしも、あの犬が好きだった。だけど、作物が少なくてみんなが飢えて困った年、殺されて食べられてしまったわ。わたしは、とても悲しかった。だけど、それなのに、もう、どんな声で鳴いていたか思い出せないの」
妲己の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれてゆく。
「あなたのことを、そんなふうに、忘れてしまいたくない。いつも、いつまでも、あなたのことを知っていたい。わたしが老いて、この手が皺だらけになっても、あなたはいつまでも今のままで、それなのに、そのあなたがどんな姿で、どんな声をしていたか忘れてしまうなんて」
「わかった、言わないでくれ。わかった」
妲己の肩に両手を添えた。その片方に自らのそれを重ね、請うような眼差しを向けてきた。
「
「遁げる、だと」
「あなたが、生きるため。生きるには、それしかない」
「遁げるのは、嫌だ」
「死ぬよりも、ずっといい。遁げるのは、恥ずかしいことなんかじゃない。生きていないと、意味がないの」
わたしのために。
「わたしのために、生きていて」
自分でなら、それを選び取ることはできなかった。しかし、妲己と、今は共にあるのだ。だから、決めることができた。選ぶことができた。
「わかった。どこでもいい。どこかで、俺は生きている。お前が、自分の手に入った皺を見て、俺の手にも同じ皺が走っているだろうか、と思えるように」
それだけのために、しかし、そのためになら、生きていられる。そう思えた。
「それでいいな」
不安がある。だから、念を押したくなった。妲己は涙を流したまままた笑い、頷いた。
別れの言葉はなかった。
翌日、紂王が転ぶように駆け込んできた兵の一人によってもたらされた報せを受け、驚きのあまり座を鳴らして立ち上がって絶句する傍で、妲己はただ目を閉じていた。
天化、遁走す。
居室はそのまま、ただ片付けられ、ただ、衣服と剣、槍などの武具だけが消えていた。
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