西へ

 駆けた。遁げているという実感はない。仮に追っ手が何人来たとしても、自分に敵う者などいるはずがないとも思った。それでも、駆けていた。なぜ駆けるのかは、分からない。

 東に行こうと思った。まだ見たことのない海というものを見、そこで漁師にでもなればいい。黄河が、妲己のいる朝歌と自分とをいつも繋いでいる。

 北でもよかった。北の土は、冬になれば凍るのだという。その冷たさが、自分には心地よいものかもしれぬと思えた。

 南は、どうか。果てることなく続く森に棲む色鮮やかな鳥や、象などと共に過ごすのも悪くないかもしれない。

 どこでもよかった。ただ、早く、そこに行き着きたかった。自分ではない、あたらしい自分。あるいは自分でなかった自分と訣別した、あるべき自分。そのいずれかが、そこにある。

 闇雲に駆けた。どれほど進んでも、息ひとつ切れなかった。妲己のところに向かって駆けたときは、すぐに息が上がったのに、陽が落ちてもまだ駆けていられた。

 背には、紐で槍を結わえている。右の手には、青い石の首飾り。腰には剣。ほかは、何もない。口にするものなど、その辺の獣でも捕らえればよい。

 やがて、夜が明けた。知らぬ間に、知った道に出ていた。どの方角でもない、西への道だった。


 冬である。寒い。しかし、凍えてはいない。周にいた頃から、もう何年経ったか。妲己が商にやって来てから、もうすぐ二年なのだ。知らぬ間に月日というものは通り過ぎるが、冬は決まって寒く、夏は決まって暑い。毎度、ああ、冬が来た、夏が来た、と思うのに、これが何度目の冬で何度目の夏なのか、よく思い出せない。


 西へ。それでもよかった。ただ、父親が詰めている虎邑は、避けて通りたい。会わせる顔がないというのと、父が知る自分というのは朝歌で死んだようなものだから、会う必要もないと思った。

 どのようにして進むか駆けながら考え、申までは舟に載せてもらって行き、その後、山に入って進むことにした。西の山は、またどこまで続くのか誰も知らぬほどに深いから、自分にはうってつけであるように思えた。

 陽が高くなる頃、視界の遠くに(城壁を持たぬ小規模な村落や街)が見えた。人の営みの気配を感じると、なぜか一気に疲れが表出した。

 鄙の手前、渭水沿いに築かれた桟橋に、ちょうど手頃な舟があった。舳先は上流に向いている。男が荷を載せているから、申まで乗せてくれと頼もうと近付いた。


「お早うございましたな、武人どの」

 舟で作業をしていたのは、なんとあの石売りだった。埃除けの布をしておらず顔がはっきりと見えた。思ったよりも、ずっと若い。それでも、あの老人だと分かった。

「こんなところで、何を」

「西へ、帰ると申しませなんだかな。武人どのが来られるのではと、ここで待つつもりでありましたが。いや、思ったよりも早く来られた」

「なぜ、俺が西へゆくと思うのだ」

 天化が何者であるか、知るはずがない。知っていたところで、朝歌を出奔して西を目指すなどということが、分かるはずもない。

 老人は少し考え、含みのある笑いを漏らして答えた。


「妲己どのの故地である申に、かならず足を向けられる。そう確信しておりました」

「妲己だと」

 老人が、なぜその名を知っているのか。

「私があの市にいたのは、ただ誰か、石を買う人がいはしまいかと思ってのことではありません。私は、はじめからあなたに会うため、朝歌に入ったのです」

「どういうことだ、老人」

「いや——まどろっこしいや、もう老人ごっこは止めさせてもらいますよ」

 老人の声が急に若くなった。ぎょっとして顔を見ると、紂王くらいの歳なのではないかと思えるようなものになっていた。肌の浅黒さは、変わらない。

「あなたは、もう商の人ではない。そうですね、天化どの」

「そうだ。もう、戻れまい」

「私はね、あなたをお迎えに上がったんですよ」

 意味が分からず、天化は黙った。男が喉を鳴らし、事情を話す。


 天化を、天化と知って近付いた。そのそばにいるのが妲己だとも知っていた。男の目的は、天化を誘うこと。

「どこに、迎えると言うのだ」

「決まってるでしょう」

 男は、あっけらかんと言った。

「周に」

 周。なぜ、周に。

「あるお方が、あなたをお待ちです。商に妲己どのをやったのも、そのお方だ。あなたが妲己どのの側役になったというのを聞いたとき、あのお方は、私に、いずれ、あなたは商を去ることになるかもしれん、と言った。方法は任せるが、周にお連れしてくれ、と」

「どういうことだ。誰なのだ、それは」

「ま、私の口から聞いても、もうひとつ分からぬでしょうから。直接、当人に聞いてみればいい。そのうえで、決めればいい。どちらにしろ、周には入っていただきますよ」

 この男から、ただならぬ気のようなものが立ち上っているように思えた。剣で立ち会い、打ち負けて転がる自分の屍がその向こうに見えるような。今まで、この男に対してこういう感情を覚えたことはなかったが、今、急にそう思った。

「私は、あなたを周に迎えれば、それでひとまず仕事を終えられる。ほかにも、色々しなければならないことがあるんでね」


「分かった。どのみち、行くあてもない身だ。しかし、周に留まるかどうかは、そのとき決める」

 男は怪訝な顔をして、首をかしげた。

「ええ。だから、私はさっきそう言ったじゃないですか。人の言ったことを、自分が思い立ったことのように言うなんて。変わった人だなあ、あなた」

 答えず、舟に乗り込んだ。自分が混乱しているのを悟られたくないのかもしれない、と舟の揺れを感じてから思った。


「俺は、お前に騙されたのか」

 川面に出てから、ぽつりと問うた。

「まさか。商を出られたのも、ここに足を向けられたのも、あなたが決めたことだ。妲己どののそばにい続けることも、やりようによってはできた。そうでなく商を出奔したとしても、西、北、南、どこへでも行けたじゃありませんか」

「確かに、そうだな。俺は、自分で考え、自分で決め、ここにいる」

「分かりのよい人だ。それが、確かなことです」

 この得体のしれぬ男と、しばらく一緒にいるわけである。話をするのも、悪いことではない。さっき一瞬感じた妙な圧力——そう、あれは確かに恐怖だった——も、全く感じられない。

 ふと、思ったことを口にした。

「お前、名はなんと言う」

 櫓を操りながら、男はほんの僅かな間、考えたようであった。そののち、

「あなたには、申公豹という名を伝えておきましょうかねえ」

 と答えた。

「そうか。申公豹か。妙な名だ。やはり、西にちなんだものなのか」

 申公豹は櫓の音でよく聞こえなかったのか、別のことを言った。

「それと、もう一つ、確かなことがあります」

「何だ」

「妲己どのは、確かにあなたが好きでしたよ」

「お前に、そんなことが分かるものか」

「分かりますとも」

 舟は、ゆっくりと渭水を遡上していった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る