第三章 天地、未だ莫し

楊戩、牧馬を駆る

閑話休題、人類と青銅

 殷代のことから、やや主語を広げてみたい。

 作中でも触れたとおり、殷代には騎馬戦は行われていない。馬は農耕か、戦闘用ならば戦車を曳くことに用いられていた。おそらくこの時代でも中華から外れた地域の民族のうちではよく騎馬をするものもあったろうが、騎馬隊と騎馬隊がぶつかり合うような戦いは、中国史においては春秋か戦国時代かに降らなければ見られない。

 また、彼らの用いる武具はことごとく青銅製であり、描写するような鋭利な刃を持っていたかについても疑問はある。


 創作において考証とは大切である。しかし、史実のとおりにしてしまえば不明瞭なことの多いこの時代については何も書けぬし、そもそも封神演義と中国史をドッキングさせることすらできぬようになる。

 創作の世界においては、仙術や宝具が許されるのだ。それが、面白くあるならば。ならば、楊戩や哪吒が騎馬隊を操ることくらい、何ということもない。彼らが用いる青銅製の武器でも、何十人も斬ることができるし骨も断てる。


 この筆者が生み出した創作の世界に、ただ史実と現実の物理現象、あるいはそれらを全く無視したか考慮しないような描写を無邪気かつ無作為に投入するのはいささか芸がない。ゆえに、彼らが用いる武具に用いられる青銅というものについて掘り下げてみたい。



 まず、当時の青銅器の製造技術についてである。出土品はどれも、現代の技術においては再現が困難なほど緻密であり、殷代の末になると全長一メートル、重さ八百キロを超えるようなものや、動物を象った複雑な形のものも造られるようになり、細かい文様がびっしりと鋳込まれるほどになっている。

 その姿を知ったならば、現代人が青銅という語彙について想起する、柔らかい、脆い、原始的という、鉄器の下位互換あるいは前任者としての性格をやや見直さなければならないだろう。

 春秋時代のものだが、越王の勾践こうせんという者の青銅製の剣は墓中に二千年あっても朽ちることなく、ほぼ当時のままの神々しい輝きを現代に留めている。ネットで検索すればすぐに画像を見ることができるから、どんなものか知らぬ人は画面越しからでも伝わる美しさを一度見てみるとよい。


 青銅というのは言わずもがな、銅と錫の合金である。銅は柔軟性があり、折れにくい。それに錫を合わせることで硬度が増し、鋭く研ぐことができる。さらに、合金組成の過程で配合されるであろう硫黄などの物質は酸化や腐食を防ぎ、青銅器や武器を保護する。前述の勾践の剣も、輝きどころか鋭さすらも留めていると言う。

 こう聞くと、鉄剣より劣る、という単純な想像から解放され、なにやらファンタジックなものを感じることができ、そういう材質でできた武器をこの物語の登場人物が振るっていることに説得力が出てくるではないか。勾践の剣の姿を見れば、なるほど、首の一つや二つくらい飛ばしても支障はなさそうだと

 少なくとも、投げれば必ず当たる腕輪(しかも当たればたいてい一撃死か、背骨などが粉砕骨折して再起不能になる)、だとか、どんな大きさにも変化する布などというものより、呂尚が自慢の打神剣で商の使者を斬り殺したり、聞仲が大刃の槍(偃月刀、と彼の武器をあらわすとするなら、その出現は十一世紀ごろであるはずだが、筆者はそれを彼に握らせている。三國志の関羽が生きていた時代よりも数百年あとに開発された形状であるが、偃月刀と言えば関羽と誰でも知るほどに浸透している。史実と創作の関係を端的にあらわすだろう)で何十もの敵を薙ぎ伏せたりする方がよほど現実的である。



 ところで、青銅と人との出会いは、そもそもいつのことだったのか。

 ヨーロッパにおいては、紀元前二千年代の、ビーカー文化と言われる、西ヨーロッパ圏のうち高山地を除いた、今のイギリス、スペイン、ポルトガル、フランスあるいは北欧を主とした地域における文化圏が最も早いとされている。


 現代の我々も受け継ぐ多くの文化の発祥であることが多いエジプトやメソポタミアなどにおいても、紀元前三千年から三千五百年くらいが古いものとされており、このアッシリアを含む西アジアが、青銅の発祥ではないかというのが定説である。

 中国においては、二里頭文化、多くの研究者が夏王朝ではないかと目しているその時代である紀元前二千年ごろには確実に存在が確認され、甘粛省で出土したものの一つを放射性炭素年代測定にかけたところ、やはり紀元前三千年ごろという結果が出てもいる。

 つまり、それくらいの数百年くらいの間に、西アジアで発生したと思われるこの利器およびそれを生む技術と人類があちこちで邂逅を果たし、それまで利器とはそれのことであった石器と訣別しているわけである。


 なぜ、人類は青銅を用いるようになったのか。

 もちろん、自然界に青銅がそのまま転がっているわけはない。石器時代、まず人類は火を制した。長い長い時間を経て、その火をさらに強くする方法を知った。そんな中、自然に存在する金や銅に強い熱を加えたところその姿を変えるのだということを、西アジアの人々が発見した。今で言うイラン高地は錫もまた豊富に採れるから、知らずに混入したか、色々混ぜ物を試している過程で発見したか、とにかく彼らはただの銅よりもより強く、より美しい金属を得ることに成功した。

 それは交易によって二里頭文化に、さらに後にはヨーロッパにともたらされた。誰が見ても美しく、誰が用いても強い青銅を、あらゆる人類が歓迎した。


 社会が複雑になるほど、人類は知恵を、技術を深めてゆく。

 そもそも、火というものが、人類を変えた。火は人類に調理という技術をもたらし、消化効率の悪い肉や木の実から蛋白質や澱粉を吸収しやすくなり、強い肉体や複雑な思考のできる脳を獲得した。さらに調理は食中毒や寄生虫を人類から遠ざけ、その絶対数の保持と増大にも多大な効果をもたらしたことであろう。

 火は、人類の文化と叡智の始まりであり、真髄である。火が、群れを社会に変えたと言ってもよいのではなかろうか。その火というものが姿を変えたのが青銅であるとやや比喩めいて言うことが許されるならば、青銅が人類に対して与えた役割について理解がしやすくなるだろう。

 青銅が、農耕を実現させた。石器よりもさらに生産に向く性質を持つ青銅を手にしたことで人は危険のともなう狩猟に対する依存を弱め、定住をはじめ、育てたものを口にするということを覚えた。そうして、はじめに火が人類にもたらした社会はより複雑になり、それはやがて国家になってゆく。そこには富貴卑賤があり、金属器は社会的地位の象徴にもなった。


 話はやや曲がったが、青銅とは、当時における人類最高の技術の結晶だったのだ。対称されるのは、自然物である石であろう。呪術的意味のある装飾品などにはもっぱら自然物が用いられていたことについては、今で言うデジタルとアナログの関係に類似するかもしれない。

 では、鉄器はどうか。少なくとも中国史においては、鉄器は偶発的に、あるいは火を扱ったり青銅の発見によって農耕が確実なものとなったりという事情のために広まったのではない。


 このあと、周王朝が興り、その力も弱まった春秋時代になると中華全土で戦いが多く起きる。それが戦国時代になるとどうしようもないほどにまで拡大し、鉄器は、その戦いの歴史の中で彗星のようにあらわれ、爆発的に広まった。つまり、需要が先にあり、それを充たすために開発されたものであると考えられると思う。

 より効率よく敵を殺すことができる道具を、民間において農耕や生産に流用したというようなふしさえ感じられるから、人類史におけるイコンの一つとしての鉄器は青銅器とは全く異なるのではないかと考えている。


 ともあれ、人は、言葉を得たそのときからずっと歴史を連続的に紡いでいる。

 筆者の創作の中にいるはずの彼らも、そうである。彼らが用いる宝具は青銅器の武器であり、敵を混沌に陥れる仙術はのちに軍略と呼ばれる、戦いの経験と知識の結晶体である。


 彼らは人類である。歴史の中にいたとする筆者の仮定によって存在するものであるにしても、彼らは、紛れもなく人類の歴史の一部にいるはずである。彼らが握る武器の背後にはかつて人類が見出した火があり、切先の目の前にはもう鉄器がある。

 彼らは、考える。それは、のちの世に法になったり思想になる。

 それは、歴史そのものであり、一部分の切り取りだけでは人類の歩みというものが見えづらくなるのは世の常だから、彼らを通して人の歩みを、息吹を感じられるような、そういう物語にしたいものだ、と心から思っている。

 やや、筆が遊びすぎたかもしれない。話に戻る。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る