牧の夜
風。それが、心地よかった。自分がその場に留まっていて吹いてくる風と違うと感じるのは、自分から風に向かっているからだと思った。
風は、吐いた息を、見るよりも速く後ろへ運び去ってゆく。寒い。しかし、雪はない。晴れている。空が、取り繕ったような青を浮かべている。
牧を拓いて、二年になる。豊邑の城壁がすぐ間近に見えるここ以外にも、この関中盆地は広大だから、時間をかければいくつでも拓けるだろう。
馬は、黄色く煙る陽光の下、思い思いに冬草を食んでいる。干草だけでは腹が減るのか、それにしてもなぜ草だけしか食わぬのにこれほど速く、強く駆けられるのか、不思議だった。
それを横目に、楊戩は自ら跨る馬にさらに速く駆けさせた。腿で締めて、意志を伝えるのだ。
その後ろには、さらに百ほどの騎馬が続いている。皆若く、全員が呂尚の施策により兵となった者たちである。
彼らと、自分とが、全く同じように馬を操れるようにならなければならない。今は、そういう呼吸を合わせる調練を繰り返しているところだった。
楊戩が、剣を抜く。馬上でもうまく片手で抜けるよう、さまざまな工夫をした。兵も、同じように手にした武器を携える。それぞれ、寒い中馬を飛ばしているから、手綱を握る手が真っ赤になっている。それでも武器を取り落とすことなく、正確に扱えなければならない。片手で、あるいは両手を手綱から離した状態で。自在に操れなければ、馬に乗る意味がない。
抜いた剣を、鞘に戻す。そうすると、兵も武器をおさめる。あとは、駆けながら列を作り、それが二列に、三列になり、円を描き、前後を入れ替え、また縦列に戻るような運動の訓練。そういうことを、来る日も来る日も繰り返していた。
遠くで、哪吒も七十ほどを率いて、同じようなことをしている。二人は、それぞれ別の騎馬隊を与えられていた。
はじめ、騎馬隊という着想を耳にしたとき、その場にいた姫昌はどういうものなのかもう一つ分からぬようだった。しかし、呂尚が丁寧に——相手を置き去りかねない、例の早口でもって——説明をし、理解させた。
姫昌にも、呂尚にも、周という国そのものにも、姫考を失ったそのときのような激しく、みずみずしい怒りはもうない。時間というものは、それを別の、たとえば幹から枝が伸びて葉が茂るような、あるいは蕾がふくらんで花がこぼれるような何かに変質させている。
同時に、その不確実でありながら確かさのあるものは、周やそれに参画する諸豪族や邑をあのときとは異なるものに変質させるための糧になっていた。やがて、花は散って実が落ちるときが来るのだろう。そこを目指している、という漠然とした感覚が誰の胸にもあるのかもしれない。
軍の増強。人口を増やすことは簡単でないから、それをすればすなわち農耕がおろそかになり、生産が滞る。そうすると税収が減り、せっかく増やした軍をたちまち維持できぬようになる。その矛盾を根本的に解決するため、彼らは積極的な交易に乗り出した。
それらの多くは、南からもたらされたものであった。
妲己が商にゆくことになる少し前のことであるが、周は、南方の異民族と積極的に交流を開始していた。彼らに対して周が与えたのは、拓けぬほど森が深く湿度も高く、虫やそれが運ぶ伝染病もなく、豊かな土がある関中盆地への居住権である。
彼らは、今で言う長江を母としていた。その中流域から下流域は肥沃で早くから文明が発達していたが、上流域においてはこの時代、まだ未開に近い。そういう地域に散在する諸民族と積極的に交流をし、彼らが持つ銀や金、その他珍しい動物の毛皮や象牙などを輸入する手段を確立した。引き換えに与えたのは、もしかすると中国史において最初になるかもしれない、『権利』というものの保障である。野蛮な異民族としてではなく、文化ある一個の勢力としてその存在がその場にあることを認める、という政策は、これまでの中華にはない画期的なものである。
南方の民族は、喜んだ。一族が、平地に出られたのだ。それまで平地に出たら、その途端に蛮族が攻めてきたと弓を向けられていたはずが、彼らの故地と平地とを自由に行き来できるようになった。
中には、一族ごと定住を希望する豪族もあらわれ、周は彼らに、彼らの邑を拓く自由を保障した。もちろん、野放図にどこでも拓いてよいわけではない。山や河などを目印にし、それをしてもよい区域を決めたのだ。それは、もともと中華の一員である者の邑から離れていて、まだ人が住み着いておらず、それでいて南からの移住者が万一叛乱などを企てたとき、すぐさま制圧することができるような地形の場所であった。
それらを、李靖とその配下の者が実際に踏査して得た地形情報をもとに呂尚が選定した。
周が、こののちその特徴として確立する封建制と、それに付随して確定する領土というものの黎明に、我々は立ち会っている。
居住権の保障について、条件または特約を設けた。移住者は、かならず土を拓くこと。それで得たもののうちの定められた量を、周に分け与えること。現代的な平衡感覚からすれば南のものをもたらす対価が居住権なのであればそれ以上のものを求めるのは不平等に思えなくもないが、呂尚の言い分としては、交易の対価としてではなく、居住していることについての課税であるから、不当に負担を強いているわけでないということだから、どちらかといえば法解釈のような見地から諸民族を説いたのかもしれない。
とにかく、南からやってきた彼らは、南ではありふれたものを周にもたらすルートを維持するだけで豊かな土地が得られるわけであるから、誰もが、喜んでそれをした。
こうして、周は人口を増やした。軍を増強しても生産力を減らすことにならない施策は、成功した。それは、西からもたらされる馬を買い、牧を拓き、殖やすことを彼らに許した。
「楊戩どの。そっちの具合は、どうだ」
夕暮れ。火で炙っている兎の肉を兵とともに眺めていると、哪吒がやってきて声をかけた。哪吒は豊邑に来たばかりの頃よりも二回りも逞しくなっており、見違えるほどだった。
「馬の具合はいい。兵も、厳しくともよく学び、付いてきている」
だが、もう一つ足りないものがある。
「あんな、
哪吒も同じことを感じていたものらしく、苦笑しながら言い、楊戩の隣に腰を下ろした。兵が、哪吒に気を使って水の入った椀を差し出してきたが、お前の水だろう、と笑い、受け取らなかった。
「あの大将の男。地に足を付けて向かい合っていたなら、首を飛ばせていた。それが、外れた」
「どうだか。そう言って楊戩どのの首が飛ばされていたとなれば、笑ってもいられないぜ」
実戦。その咄嗟の刹那。慣れぬ馬上だと、わずかに体重が逸れてしまう。それが、あの大将首を胴から切り離し損ねた原因だと思っている。
この豊邑の城壁の外に拓かれた牧の、その向こうに広がる原野なら、いくらでも実戦を想定した調練ができる。しかし、それはどこまでいっても想定でしかなく、やはり、戦場のことは戦場でないと感じられないと思っている。
呂尚は、どこまでやるのか。本気で、商を倒すつもりなのか。鍛治を営みながら諜報の元締めとなっている李靖の配下も増えており、見たこともないような輩がしきりと呂尚の居館に出入りしている。
呂尚は、下女を一人だけ付け、妲己の下に付けていた者どもには暇を出したらしい。下女は敷地の中に建てられた小屋を与えられており、夜はそこで眠るし、昼間は呂尚がずっと宮に詰めているから、あの館にはいつも人気がない。
「一度、呂尚どのと、ゆっくり話をしたいものだ。このところ、互いに忙しく、顔すら見ていないからな」
「ああ、そうだ。兄哥——いや、呂尚どのは、寂しがっていることだろうさ」
哪吒は、無邪気に呂尚を慕っている。妲己が商に行ったため、呂尚が孤独を感じていると思っているらしい。
楊戩は曖昧に笑って返し、兎の肉を手に取った。いい具合に皮が焦げはじめていて、美味そうな脂が草に滴った。
肉の味を舌の上で転がしながら、思考をも回転させる。
孤独なはずがあるか、と哪吒に言ってやりたいような気分である。妲己を、商にやると言い出したのは、呂尚なのだ。楊戩も、哪吒も、李靖も、姫昌や姫発ですらそれには反対した。
「思うところがある。妲己も、納得している」
普段、聞きもしないことを勝手に喋り続けたりするくせに、そのときは、それだけしか言わなかった。
正直、敵国に自分の妹をくれてやるというのは、どう考えても道理に合わないと思っている。それではまるで人質だし、商に
美女には目がないと評判の紂王である。たしかに、妲己を寄越すことで、いっとき、足が鈍るのかもしれない。その間に、なにか大きなことを仕掛けることもできよう。実際、この牧を秘匿したまま馬が仔を産むまでにし、岷方の叛乱の際に投入することができたのは、妲己という目眩しがあったからかもしれない。
それでも、楊戩には理解ができない。目的があったとしても、そのために自分の最愛の妹を敵国にくれてやるなど。ましてや、妲己である。豊邑においても、誰に対しても優しく接し、困っている者あれば声をかけ、悲しむ者あれば共に涙する彼女を、誰もが愛していた。そんな妲己を、どうして商に送り付けるようなことができたのか。
肉を、飲み下した。
食事を済ませたあとは牧に馬を戻し、城内に戻ることになっている。明日の朝、また全員で牧に出て馬の世話をするのだ。
哪吒も賛同していることであるし、今夜は呂尚の居館を訪ねてやろうと思った。一度、腹を割って話す必要がある。
「よし、哪吒。城内に戻ったら、呂尚どののところに行こう」
「そりゃあいい。きっと、喜ぶだろうなあ」
兵から差し出された水を断る哪吒であるが、自分の分の兎の肉に手を付けようとしていない。きっと、呂尚のところに持って行き、差し出すつもりなのだろう。
風。ひとつ吹いて、火を揺らした。馬に乗っているときのそれとは、やはり違った。
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