その城を傾ける

 呂尚は、楊戩が感じていたのとおなじ風に、吹かれていた。

 居館の中に火が見えないから敷地の中を見回ってみたところ、井戸の脇に立っている姿を哪吒が見つけたのだ。どうやら、日のあるうちからずっとここにいたらしい。

「兄哥。この寒さだ。風邪を引きます」

「ああ、哪吒か。どうだ、馬の具合は」

 呂尚はいつものとおり色のない声で答え、居館の方に哪吒と楊戩を促した。ふと吹いた風が呂尚の袖を弄ぶ。寒いから腕を服の中に入れているだけであるが、それが、腕を失った者の姿のようにも見えた。

「何を、しておられたのです」

「何を——そうだな、井戸の水はどこから来るのか、と考えていた」


 井戸の水は、人の営みにおいて非常に有用なものである。しかし、それは土の下にある。土は飲めなければ体を洗うこともできない。土と水が混ざれば水は濁るばかりである。それなのに、土を深く掘れば、たいていは清い水があらわれる。その水は土の下にあるくせに澄んでいて、土よりも冷たい。

「降った雨が水に染みて、それが溜まっているのでしょう。掘ったばかりの井戸の水は濁っていますから」

 楊戩には、この賢人の頭の中がもう一つ読めない。申にいた頃、何か強く惹かれるものがあった。誘われるまま、ここに来た。しかし、未だに、分からないところが多い。


「土に染みた水は、おそらく地下へどこまでも染みてしまう。お前の言うとおりなら、どこで井戸を掘っても水が出ることになるではないか」

 居館の戸口を開きながら、ぽつりと言う。この素朴な反駁はんばくを考えていたから井戸から館までの間ずっと黙っていたのか、と思うと、楊戩は呆れるようなうんざりするような、複雑な気持ちであった。

「おれは、思う。地上でも、どこにでも水があるわけではない。だが、水は、流れるまま流れ、河となり、ときに湖や池になる。たぶん、地下にも水が流れるところ、そうでないところ、水が溜まるところがあるのだ」

 そんなわけがあるか、と楊戩は思った。土の下はどこまでも土であり、河や池のようなものが地中にあるわけがない、と。

「目に見えぬだけで、な」

 呂尚には楊戩の頭の中のことが分かるのか、そう言って薄い唇の線を入れたばかりの火の光に浮かべた。一人だけ使っている下女は、すでに小屋に帰っているのだろう。夜の間、呂尚はその者を自分のそばに近付けることはないらしい。


「兄哥。これを」

 哪吒は、腰から紐でぶら下げていた兎の肉を差し出した。首を落として皮を剥ぎ、内臓を抜いて焼いただけのものだが、貴重ではある。呂尚は目を細めて首を振り、

「哪吒。それは、お前のものではないのか。ならば、お前が口にするべきだ」

 と断った。

「では、楊戩どのと三人で食うというのはどうです。酒も少しならあるでしょう。俺は、兄哥とともに飯を食いたい。それと引き換えに、この兎の肉を使う」

「なるほど。お前がそうしたいならば、そうしても構わない」

 楊戩は火を手にして立ち上がり、暗い台所の甕から酒を酌んだ。土器かわらけに酌むための容器

 を差し入れると水の音がして、先ほど呂尚が口にしていた地下の水の話題が思い返された。


 目に見えぬ流れ。しかし、それは、確かにある。あるということを知ったなら、それは、見えているのと同じではないのか。何がということはないが、そう思った。間違いないのは、呂尚には、ふつうの人間には見えぬものがありありと見えているのだ、と自分が思っているという事実だった。


「さて。話をしようか。もう夜だというのに訪ねてきたのだ。何か、話したいことがあるのだろう」

 兎が三人の腹に入ったあと、呂尚はまた唇を薄く笑ませた。

「騎馬隊のことです。哪吒も、私も、かなり慣れています。しかし、実際の戦いにならないと分からない呼吸というものが、まだ掴めていません」

 楊戩が切り出した。べつにその話がしたかったわけではないが、報告は怠るつもりはない。

「そうか。若い兵たちも、同じか」

「ええ。連中、気だけは強く仕上がっているんですがね。実際、自分のいのちを狙ってくるような敵の前に出たとき、何人が怖気付くものか、まだ分かりません」

 哪吒が両足を投げ出し、酒に手を伸ばして笑う。

「そうか。岷方のときは、良い具合であったが」

「いえ、呂尚どの。もし、あれが、私たちが十度の実戦を経たあとであったなら、あの大将の首を飛ばすことができていたのです」

「未だ来らぬことを、見てきたように言う」

 呂尚が、また薄く笑った。いつから、こうなのか。楊戩は、そう考えた。はじめから、こういう男ではある。しかし、あるときから、何かが変わったようにも思える。


「ならば、どうする。商に攻め入るか。それはまだ無理だろう。李靖やほかの者が働いていて、あちこちの豪族や国との渡りがかなり付いてきてはいる。しかし、まだ商を攻めるほどには至っていないのだ」

「兄哥は、慎重だなあ。なんなら、俺一人で紂王の首をぶっ飛ばして来てやってもいいのに」

「それができれば、それがいい。しかし、哪吒。そうすれば、お前は死ぬ。おれは、お前が死ぬようなことを考えたくはない」

「へへっ。兄哥は、俺をほんとうの弟だと思っているからな」

 哪吒は、やはり屈託なく呂尚に惚れ込んでいる。それを、羨ましい、と少し思った。


「李靖の一味といえば、商から戻ってきた黄天化。あれは、使い物になりますか」

 火が消えかかったので脂を足しながら、楊戩が問う。申公豹のことは、楊戩は知らない。

「さあな。もしかすると、もう、剣を抜くのが嫌になったのかもしれん」

 天化は、豊邑にやって来ていた。呂尚が、李靖の手の者を使って引き抜いた。それを知ったとき、楊戩は呂尚に詰め寄った。商の者をみすみす、味方のようにして豊邑に入れるなど、どうかしていると思ったのだ。それに対して呂尚は、

「力になってくれるさ。そのうちに」

 と答えるのみであった。



 天化は豊邑の中心の宮に連れられてきたとき、出迎えた周公姫昌への挨拶もそこそこにその傍らの呂尚を強く睨み付け、

「このようなはずではなかった。しかし、死ぬわけにはいかない。ここで、何かすることを与えてくれぬか」

 と請うた。呂尚は、何でも、お前がしたいと思えることをするといい、と答えた。

「そうか、呂尚どの。何でもよいのだ。畑の土を耕すのでも、魚を捕らえるのでも、豚の世話でもいい。なにか、することはないか」

 楊戩の記憶にある天化とは、無口であるがもっと視線の鋭い、抜いたままの刃のような若者であった。しかし、数年ぶりに見ると、かなり印象が変わっていた。武具は携えている。しかし、希望するのはそれを扱わない仕事ばかりであった。

「では、市を管理する役目はどうだ。この豊邑の市に詰めている者は、かなりいい歳になっている。そうでしたな」

 と呂尚が姫昌を顧みる。

「そのとおりだ。しかし、天化どの。そなたほどの武人が、よいのか。わしは、そなたのことを古くから知っている。軍のことは呂尚どのに任せきりになってしまっているが、そなたさえよければ、哪吒や楊戩などと共に——」

「いえ、姫昌どの。天化には、市がよいのです」

 呂尚が遮り、天化にちらりと視線をくれながら笑った。


 それ以来、天化は毎日市に詰めていた。揉め事の仲裁などはよくするし、出入りする者もかなり記憶しており、許可なく営業しようとする者はたちどころに発見して追い払う。しかし、たとえ相手が剣を抜いて襲い掛かってきても、天化が腰の剣を抜くことは決してなかった。

 あたらしい市の監督人は若くて美しい男だ、と評判になり、女どもが声をかけてきても、全く見向きもしない。いつも同じ場所に腰掛けたり歩き回ったりして、ときおり遠い目をしながら首から下げた石を握ってなにか考えごとをしている。

 そういう具合だった。



「剣のために生きてきたと思っていたのだろう。その自分が死んでしまった、とでも思っているのだ、今は」

 呂尚は、哪吒や楊戩を照らす火を見つめながら、天化についてそう評した。

「では、何のために豊邑に迎え入れたのです」

「——人は、剣のためになど生きられるはずがない。そういう者がいたとすれば、それは思い違いでしかない」

 呂尚の声の色が、変わった。それは、楊戩が知っているものにやや近いものであった。

「知ったのだ。そうして、奴は、産まれたのだ。産まれたばかりなのだから、自分がどこにいて何をすべきなのか、分かるはずもない」

「何を仰っているのか、分かりません」

「案ずることはない、と言いたいのだ」

 哪吒が席を立った。話してばかりなので気を使い、酒を酌みに行ったのだろう。


「楊戩どの」

 名を呼ばれ、反射的に呂尚の顔を見た。知らず、目を伏せていたらしい。そこにある呂尚の瞳には、獣脂の火があった。

「案ずるな。商は、待つうちに、ひとりでに弱ってゆく」

「それは、そうでしょう。あちこちの国そのもの以外にも、天化やほかの有力な者をこちらに引き入れてゆくのですね」

「それもある。しかし、あの強大な朝歌の城は、ひとりでに傾く」

「あの朝歌の城が——?」

 いちおう全軍の総帥という立場の姫発は若いだけあって戦いのことに興味津々で、総帥でありながら楊戩のもとで調練に励むという奇妙な務めのあと、楊戩のところに質問に来たりする。ついこの前、姫発に、朝歌をどうすれば陥とせるかと訊ねられ、朝歌を残してほかの全ての邑や国を味方にし、その圧力でもって締め上げ、降伏させるほかないと分析したところだ。姫発は大いに驚き、朝歌の防備がどれほど強力なのかとしきりに質問を重ねた。


 まず、その城壁の強大なこと。どの邑のそれよりも大きく、厚く、突破するだけでも長い期間を必要とする。さらに、広大な商邑の北の隅に築かれた鹿台。それだけで中規模な邑一個分ほどの大きさがあり、いわば城の中に城を飼っているようなものである。そこに立て籠られれば、数年は攻めきれずに時を費やすことになる。

 その朝歌の城が、傾くとは。


傾城けいせい

 と、呂尚が呟いた。その意味を楊戩が訊ねると、

「いや、今思いついただけの言葉だ。意味などない」

 という答えが返ってきた。

 呂尚の瞳にある火は彼の影を壁に向かって伸ばし、鈍い音を立てながら揺れていた。不気味にも見えたが、なぜか、心細く、悲しげなもののようにも見えた。

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