その国

 少しだけ、時間を飛ばす。


 寒い、寒いと哪吒が手を擦り合わせる癖を見なくなったと思えば、空がほんとうに黄色く霞む季節になった。

 楊戩は、胸が躍るのを感じていた。

 実戦である。ふたたび岷方と協力し、申を攻める。

「べつに、城を陥とす必要はない。城外の原野で暴れるだけ暴れ、盂の首長を引っ張り出せ」

 それが、呂尚からの指示である。もちろん呂尚は実戦には出ぬが、十六になった姫発が従軍している。姫昌は、この冬に風邪を引いて以来、体があまり良くないため豊邑に留まっている。

 呂尚は、楊戩に、もうひとつ指示をした。

「申にゆく、と、市にいる天化に声をかけてやれ」

「天化も、伴うのですか」

「いや、声をかけるだけでいい」

 首を傾げながら、足を市に向けた。朝歌で何があったかは知らぬが、天化は、かつてのような鋭利さのない、ただの腑抜けになっている。そのような男に時間を使うのはそこそこにして、さっさと兵のところに行きたいというのが本心だった。


「天化どの」

「ああ、楊戩大将か。どうした」

 いつも、冷めた目をしている。今もそれはまったく動かず、ある一点でただ静止している。楊戩は、はっきり言ってこの若者が商の目付だった頃よりも苦手になっていた。

「呂尚どのから、言伝だ。我らは、これより申に向かう」

 申、と聞いて、天化が胸に拳をやった。その意味は、楊戩には分からない。

「城内で、戦うのか」

「いや、そうはならんだろう。盂の首長を引き出し、できるなら討つつもりだ」

「そうか」

 天化は、それだけ言った。

 盂の首長である炎は、商との関わりが特に深く、王に最も近い地位にいる豪族である。それについての情報を天化から得てゆけという意味であったのかもしれぬと思い、楊戩はいくつか質問を投げかけた。

「ます、武勇で並ぶ者は我が父くらいだろう。聞仲大師は、並べることができぬほど高い武を持っているから話の外だ」

 端的に、聞かれたことに答えてゆく。

「剣、それに槍。弓もたしか相当な腕であったはずだ。しかし、何より、盂の連中は結束が堅い。それが、盂炎のいちばんの強みだろう」

「なるほど。では、天化どの。あなたと盂炎なら、どちらが強いだろうか」

 天化は、少し黙った。そののち露骨な冷笑を浮かべ、

「やり合ってみなければ、分かるものか」

 と答えた。嫌な奴だ、と楊戩は腹が立った。

「こちらに来てから、その腰の剣を一度も抜いていないという。盂炎がそれほどに強いなら、今やり合えば、危ないのではないか」

「そうかもしれん。どうでもいいことだ」

「いや、失礼した。いらぬことを言ったようだ」

「別に、構わないさ」

 楊戩は、立ち去ろうとした。それを、天化が呼び止めた。

「呂尚どのが、俺に、あなたたちが申にゆくことを伝えるよう言ったのだな」

「ああ、そうだ」

「——全て、お見通しということか」

「なに?」

「いや、なんでもない。もし盂炎を討って申に入ることがあれば、中がどのような様子であるか、知らせてほしい」

「様子とは?」

「たとえば、どこにどのような木が生えているとか。畑の土の色。渭水から引いた水路に棲む蟹。花も、蕾をつけているかもしれん。何でもいい。申というのがどのようなところなのか、教えてほしい。結局、こちらに来る途上でも、一度も足を踏み入れられなかった」

 楊戩は訝しんだが、とりあえず、わかった、と答え、立ち去った。


 天化は、何を求めているのか。こちらに来てから何をするでもなくただ日を潰すだけの男が、もしかするとはじめて興味を示したかもしれぬものが、申のことなのだ。それも、木や土や花がどうしたとか、どうでもいいことばかりである。

 不気味だ、と思った。しかし、そう頼みながら胸にあてた拳に力をこめる姿は、なぜか悲しくもあった。

 申に入ることがあれば、頼みを聞いてやろう、と思った。


 それには、勝たねばならない。城外に盂炎を引きずり出し、討つ。軍の結束が強いなら、逆に騎馬で一突きに攻めて盂炎の首を取れば、総崩れになるはずだ。

 姫発もいる。はじめての実戦だ。この日のために、そのへんの兵よりもよく馬や武器を扱えるように血が滲むほど修練を重ねていた。調練中、どれだけ楊戩が厳しく打ち付けたり馬から突き落としても、決して音を上げることはなかった。夜になると、痛む身体を引きずりながら、さらに剣を振るう稽古を一人でしていることも知っている。


 姫発を自分の下に付けたのも、呂尚の指示だ。姫昌も喜んでくれたが、もはや姫昌は呂尚の言うことなら何でも聞くようになっているから、当てにならないと思っている。

 呂尚のことが、よく分からない。あの、自分を訪ねてきたときに感じたものは、思い違いだったのかと考えることもある。しかし、呂尚は、

「姫発どのが、反商の旗頭になる。どうか、あなたのところで、武人として育ててくれないか」

 と頼んだ。そのときは、楊戩が呂尚に感じていた、とんでもない才人でありながら熱く、真っ直ぐで、人を信じることを惜しまない男であった。

 呂尚ほど打算的な男なら、中途半端な者に反商の旗頭の教育を任せたりはしないだろう。その線から、自分は呂尚から信頼されていて、買われているのだと確認することができる。


 否、と首を振る。

 たとえ今日、呂尚が病かなにかで倒れたとしても、やるのだ。

 許されざるものを許さないこと。それが、正しさなのだ。そう信じている。それがほんとうになる国でなければ、意味がない。

 兵が、並んでいる。一人が曳いてきた馬に、跨った。哪吒は、楊戩が騎乗するのを見てから自分も馬上の人になった。待っていたらしい。如才がないのか、歳上の者に純粋に敬意をあらわしているのか。


 二人が騎乗したのち、兵も一斉に同じようにした。

 腰をひねり、長剣を抜いた。李靖が造った逸品である。かんたんな鎧なら、断ち割っても刃が欠けることすらない。

 陽光にかざす。この剣がもともと持つ黄色っぽい輝きが、さらに強くなった。

「進発」

 馬が、ゆるやかに足を進める。次第に速くなり、駆け足に。その振動は、自分の鼓動と同じ速さだった。


 東へ。目指すは、申。城外で騎馬を駆け回らせる。隠すこともない。盂炎を引きずり出し、出てきたのを確認したら、まっしぐらにそれを目指して突撃する。そして、すれ違いざまにこの長剣で首を飛ばす。

 あと何度、このような戦いをするのか。十度か、二十度か、百度か。しかし、その先には、かならず、正しい国がある。そう信じていられる。

 天下は、一人の天下にあらず。呂尚が、そう説いている。楊戩も、心からそう思う。

 朝歌の城は、ひとりでに傾くらしい。きっと、誰かのほしいままにしたために、そうなるのだろう。そのために傾けば、一揉みに潰してしまえる。思ったより、その国は近くにまでやって来ているのかもしれない。

 少なくとも、街道をゆく役人を襲い、殺して奪っているような日々よりはましである。哪吒は数年前までけちな舟渡しだったし、呂尚などただの肉屋だったではないか。

 申は、豊邑からそう遠くない。馬なら、明日のうちには着くだろう。行程を頭の中で思い返すうち、自分たちが、あのとき思っていたよりも遥か遠くにまで来ていて、この先、これまで来たよりもさらに遠いところにしかその国はないのだと思考していた。

 だが、それは、必ず来る。そう思えるほどには近い。

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