紂王、西天を睨む

閑話休題、殷代のこと

 この物語は、完全なる創作である封神演義に、研究者の先生方が進めた当時の歴史の有様のことを加味し、創っている。それゆえ、歴史的整合性の方に寄れば封神演義から離れ、封神演義に寄れば歴史から遠ざかるという妙なシーソーが設置されている。


 ここで、おもに甲骨文字の研究や考古学から理解が進んでいる、当時のことを少し紹介しておきたい。

 まず、物語の中でも注釈を入れた国号のことであるが、甲骨文字の研究者においても殷と呼称されることが多い。

 話が違う、殷とは呼ばぬのではなかったかという声が聞こえてきそうであるが、当時の国家の形態が都市国家である以上、この微妙な行き違いから逃れることはできないのだ。

 まず、都市国家である以上、殷の首府は商(甲骨文字では大商邑などと表記されることもある)なのである。それがひとつの国であり、同時に、ほかの邑や鄙が商に連合するような形で、その支配が成っているわけである。その連合名については伝わっておらず、後代になって便宜上それに名付ける際、その機構を受け継いだ周をさらに継ぐもの、といういわゆる王朝の正規ルートの設定という必要にかられ、にぎやかという字を当てるようになったはずである。


 少し話は逸れたが、このような支配の形態であったから、たとえば春秋戦国時代や秦漢時代などにおいてはすでに中華であったような地域にも、商に参加せぬがいた(甲骨文字では、そういう連中をあらわすとき、たいてい「方」という字が用いられている)。殷代といっても長く、甲骨文字の字系や出土の状況から、それを五期に分けたりするが、その歴史の中には泰平の世と言ってよいような時期もあれば、あちこちで叛乱や侵略がありその対応に追われていた時代もあり、ある期では戦いの記述が二千件にのぼるのに対し、べつの期では二十件ほどに止まるなど、様々である。


 また、暴虐で知れる紂王は、実際はそうでもなかったふしがある。

 紂王が暴虐であったことが確定的に語られているのは、この時代より千年以上後に編まれた「史記」の記述によるもので、その前にも「尚書」や筆者の愛読書でもある「韓非子」などにも似た記述がある。

 おそらく、理想の治世であったとされる周が天下にあまねく——文字通り、である——勢力を誇るようになったその動機付けのためであろうが、不思議なことに、今なお中国においては考古学や甲骨文字研究よりも、史記などの文献史料の権威の方が強いらしく、あたらしい発見があっても史記の記述に合わせてその発見が歪められたり、軽視されたりすることがあると研究者の先生がその著作の中で嘆いているのを目にしたことがある。


 甲骨文字は、祭祀や占いの様子の記録であり、歴史を記す目的で用いられたものではない。だが、その祭祀の内容を理解すると、それは散発的な歴史になる。それによると、紂王は、たとえば度々、狩り(田、という字を用いて狩のことを指していた)に出ていた。当時、狩りとは王かそれに近い者に許された特権で、軍を引き連れてゆく演習の性質があった。

 ある年などは二日か三日に一度は軍事演習の監督をしており、おそらく指揮者として熱心であったことが知れる。

 また、有名な酒池肉林のエピソードや女色に溺れているような様子は、当時の記録からはいまだ確認されていない。

 筆者がここにきて、紂王から暴虐のヴェールを少しずつ剥がしていっているのは、史記をはじめとする文献が描く彼の姿から、当時の、鮮度の高いまま残された史料から想像できる姿に近づけてゆくようなイメージでいる。


 また、封神演義は遥か後の時代に編まれた創作物であるから、登場人物の姓なども、後の世の一般的なものはひととおり網羅されている。

 しかし、少なくともこの殷代末期の頃においては、姓というもの自体がなかった可能性がある。

 姓とは、婚姻による氏族の形成と密接なかかわりがあるが、その仕組みをはじめに用いたのはこの直後の王朝である周である。

 婚姻による氏族を設け、それに王が許して領土を与える封建制がない限り、自らが所属する氏族を表示する意味がないのだ。

 もちろん、通称としては、何族の誰、とか、どこに住む誰、ということを表すために姓に似たものを用いた可能性もあるが、それにしても、姓として正確に確認されているのは周代最初期の金文において四種類、それから少し後のもので八種類、さらに後になって十三種類と、きわめて少ない。


 呂尚の姓とされる姜というのは最初期の姓にも確認できたはずであるが、聞、黄、楊などという姓はその成立にまで少なくとも数百年を要する可能性がある(黄、というのは甲骨文字を刻む役務を行う集団の呼称として用いられてはいたが、やはり後代の姓とはそれは違う)。


 このような些少な情報だけでも、我々が想像する国家、王朝の姿と何もかもが違うと感じることであろう。

 では、歴史の中の彼らは、原始的であったのか。それについては否と言わざるを得ない。

 たとえば、人がまだ歴史を持つ前から続けてきたであろう自然に対する信仰はこの時代においても強い。河、というのはもともとは黄河をあらわす固有名詞で、それ自体が神の名であったりするし、アニミズムを踏襲した信仰が王の権威を支えていたことも疑うべきでない事実として確認されている。

 しかし、その中で、ある王は自然神の信仰をそこそこにし、自身のカリスマを打ち出し、祖先信仰に切り替えることを打ち出した。それは血統や出自に対する目覚めであり、また、戦いにおいての先導者としての地位の発揮である。

 その後、戦いが一時止むと、無能な王が出る可能性を考慮してか、別の王は画一的な制度の制定に尽力したりもしている。


 また、彼らがたびたび戦いを仕掛けてくる厄介者として認識していた「方」どもですら、互いに連合し、ときに殷軍を挟撃したりしている。


 筆者は考える。体系化がされていないだけで、当時にも、戦いの工夫をし、政についてより円滑にそれが行き届く試行錯誤があったと。それは、のちの世に言う思想に直結するものである。だから、全くの想像でしかないが、その確信がゆえに、この作中における人物たちの立ち居振る舞いや言動に、それほど大きな無理は感じていないのである。


 ともかく、これは歴史学や考古学の本ではない。このくだりを読んで当時のことに興味を持たれた方は、甲骨文字研究者である落合淳思先生の著した「殷」という本が中公新書から出ており、たいへん分かりやすく当時のことが記述されている名著であるので一読されたい。また、講談社学術文庫の「中国史 1、2」あたりなども同じく名著と呼ぶべきもので、それらは筆者も枕元に置いてしばしば読み返し、楽しんでいる。


 まあ、物語である以上、面白おかしくなくてはならぬから、これからは更に、語っても語り尽くせぬ、そして謎めいた当時の有様のことを想像しつつ、それらをスパイスにして時代背景の考慮に無理が生じるような奇想天外な描写もどんどん取り入れてゆきたい。

 この物語の題材に選んだ封神演義の魅力とは、その奇想天外さにあるわけであるから、怒られはしても許してはもらえるであろう。

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