理由

 ともかく、周から和解の返答としてやってきた妲己を、粗略にするわけにはいかない。紂王はその美しさに見惚れながら、すぐに居室と身の回りの世話をする者を与えた。

 それについて深々と礼を述べたのち、問うた。


「紂王さまは、いつか、わたしを殺めてしまわれますか」

 紂王は驚き、慌ててかぶりを振った。

「まさか。そのようなこと、あるはずがない。お前のような美しい女を、どうして殺せようか。また、お前には、何の罪もない。そのような者を、殺せるはずがない」

 妲己は、実りの時期に落ちる団栗のような瞳をぱちくりさせ、困ったような顔をした。

「どうした。言いたいことがあるなら、言ってよいぞ」

「だって——紂王さまは、これまで、なんの罪もない人を、さんざん殺してこられたではありませんか」

 その物言いに一切の棘がなく、むしろ花びらのような柔らかさがある。憚らず、思ったことを口にすることができる意志の強さも、紂王にとっては我が心と比べ見て眩く映る。

「そう言われると、返す言葉がない。たしかに、俺の不明のために、多くの民のいのちを損なってきた」

「周では、みな、紂王さまを恐れています。神を見るようにではなく、災いを恐れるのと同じ気持ちで」

「そうか——」


 紂王は、妲己の役割をそれで推し量った。美女好きで天下に知られた自分のところに妲己をやり、周の公的な意見を代弁させ、その非を鳴らす。それで怒り、妲己を殺したとて、役人や将軍を失うわけでもなく、周にはなんの痛手もない。また、使いに寄越した女すらも殺した悪王だとして、またさらに諸侯に触れ回ることもできる。

 そうはいくか、と思った。これは、騙し合いに似ていると。だから、できるだけ歓待し、その目論見を崩してやろうと。


「お前の父は、誰なのだ」

 そこへ、妲己の素性のことを知っているやもしれぬということで呼んでいた、周の事情に精通している黄父子が入室してきた。

 李伯の首を刎ね、それに並ぶ文官どもが惨殺されて以来、奥の間はあまり使っていない。逆にそうなる前はあまり使われていなかった、民政を執り行うための部屋である。酒も断ち、女も正妻とごく親しい側室以外はやめ、夜が明けてから暮れるまでのほとんどの時間をここで過ごし、あちこちからもたらされる報告に耳を貸し、助言を与えるようになっている。


 そのためか、黄父子は、奥の間よりも気さくに入室してきた。妲己の姿を見て、硬直している。

「——お久しうございます」

「まさか。周の使いである佳人とは、そなたであったか、妲己どの」

「知っているのか、黄飛」

「知っているもなにも。この女性にょしょうは、呂尚どのの妹君ですぞ」

 紂王は、仰天した。呂尚といえば、諸国が連合を見せるかどうかという今の状況を作り出した張本人ではないか。それが我が妹を寄越すというのであれば、和解に応じたということである。

 いや、そうであるならば、然るべき地位の使者をよこし、口上を述べたうえで差し出すべきである。このように、きょとんと板敷に座っているだけの女だけを寄越すというような話など、聞いたことがない。


「そうであったか。呂尚どのの」

 わざと鷹揚に頷き、様子を見る。

「紂王さまは、兄をご存知でいらっしゃるのですね」

「いや、そうではない」

 どうも、調子がおかしい。呂尚が我が妹を寄越したからには必ず何かしらの魂胆があるはずである——と紂王は呂尚の人物像について聞仲からさんざんに言い聞かされている——が、そうであるなら兄の名が挙がったとき、もっと警戒を示してもよいはずである。


「兄さま、変わりはないかしら。まだ豊邑を出てそれほどの時が経ったわけではないけれど、季節が移って黄土の色が濃くなったのを見て、とても恋しく思います」

 木枠の窓の外を望み、目を細めている。朝日を喜ぶ小鳥のようだ、と紂王は思ったが、あわててその思念を振り払う。

「妲己よ。お前、いったい何をしに来たのだ。そろそろ、教えてはくれぬか」

 天化が、少し身構える。返答の内容によっては、その手が剣にかかるのだろう。その様子を恐れもせず流し見て、妲己は笑った。


「さあ。自分でも、なにがなんだか」

 ほんとうに、困っている。そう思わせるのに十分な表情である。

「兄は、はじめ、わたしを側から離すつもりはありませんでした。だって、周公さまに誘われて豊邑に行くときも、わたしと一緒になら、と条件を出したくらいですもの。その兄が、考えて、考え抜いた結果、周のため、天下のため、商に行ってくれぬかと言ったのです」

「行ってどうするとか、そのようなことは」

「なにも。ただ、とても悲しそうでした」


 妲己は、たいせつなものを仕舞う箱を開くように、呂尚の言葉をそのまま引いた。


 妲己。おれは、お前を愛している。お前がいたからこそ、おれは笑うことを忘れずに生きて来ることができた。いや、おれだけではない。かつてお前を虐げていた子供たちも、お前の魂の美しさにうたれて、心を改めたのだ。それは、誰にもできぬお前だけの才なのだ。だから、商に行ってくれ。天下は乱れ、今、戦いに支配されようとしている。お前の才で、商の人々の凍りついた顔を、融かしてやってくれ。その先に、お前にしか為せぬことがある。

 天下の全てのためにお前にしかできぬことがあると確信している以上、おれは、ひとりの人間としてお前をそばに置いておくことよりも、そのことの方が大きく、重いと思ってしまうのだ。

 だが、忘れないでいてくれ。おれは、お前を、ひとりの人間として、とても大切に思っている。だから、遠からず、お前にまた会える。そうなるように、おれは必ずするだろう。


 天化が訝しい顔をし、紂王の方を見た。紂王は苦笑して目を合わせ、殺気を納めるよう伝えた。

「お前は呂尚どのの言葉を、こちらに来る船の中や、こちらに来てから過ごす夜の中、心細くなるたびにそうして唱えているのだな」

「どうして、そのことが」

 妲己は顔を真っ赤にして伏せた。どうやら、当たっているらしい。

「紂王さま。妲己の言うことに、偽りはないようですぞ。私も聞仲どのほどではないにせよ、長く生き、多くの人を見てきました。それでも、妲己ほどに心の澄んだ者に出会ったことはありませなんだ」

 交わした言葉はそれほど多くはない。しかし、黄飛は、はじめから呂尚や妲己に対して天化ほどの敵意を持たずに接していた。妲己の言葉を信じるに足ると判断したらしい。


「紂王さまも、ほかの方々も、わたしをどう扱ってよいのか分からず、お困りなのですね。わたしも、もう少し、何をどうすればよいか、と兄に聞いてからあちらを発つべきでした。ごめんなさい」

「いや、よい。わけも分からぬまま商に行けと言われその通りにするとは、お前、よほど兄君を慕っていたのだな」

「はい——」

 妲己は、ぱっと笑った。真夏の雲のようだった。

「——だって、兄さまは、この天下でいちばんの人ですもの」

「わかった」

 紂王が、諦めたように床几の肘置きに体重を預けた。

「妲己。お前は、いたいだけここにいればいい。外出には、供をつける。お前が危ない目に遭わぬようにと、お前がもし、良からぬことを考えているのを隠していたときのためだ」

「わかりました」

「今のお前の言葉に偽りがないなら、お前は、自分がここで何を為すべきなのか、そこから見出さねばならぬようになる。それが分かったときは、正直に俺に打ち明けてくれ」

「かならず、そうします」

「天化」

「はっ」

 控えていた天化が、片膝立ちになる。

「そなたの軍役を解く。妲己の供回りをせよ」

「——はっ」

 不服なのであろうが、反発はしない。


「妲己」

 去り際、付け加えるように言った。

「三日に一度、顔を出せ。何を見、何を聞いたのか、俺に話せ」

「わかりました」

「周に帰りたくなれば、それも遠慮せずに言え」

「兄の言葉に従うつもりでいます」

「——好きにするがいい」

 三人を残し、退室した。

 妲己の言うことを容れたわけではない。なお、警戒しなければならない。そう思った。それでも滞在中の自由を許し、帰国の自由まで与えたのは、たぶん、妲己にここに長く留まってほしいと思っているからだ、と自嘲する思いであった。


「聞仲が聞いたら、なんと言うか」

 中庭に面した廊下を鳴らし、ひとり呟いた。

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