返答


「為すべきことを仕損じ、おめおめと生きて戻った身。それを、お許しになると仰るのですか」

 黄飛が床に頭をつけ、叫ぶように言った。感涙をこらえるつもりもないらしい。

「なにを言う。このたびのこと、俺も心から驚いたのだ。重ねて言う。俺は、このようなことを望んだことなど、一度たりともない」

 だが、事が重大になると察した途端、そのことを忘れたように、もとのとおりの酒に音楽、女に逃げた。今そのことを言っても仕方がないから、聞仲はただ深く頷き、紂王と目を合わせた。

「軍を強くするのだな。お前に任せる。かならず、この国を守ってくれ」

「お待ちあれ、王よ」

 焦って飛び出してきたのは、文官どもである。彼らはなぜか、聞仲らを敵視し、武官の勢力が強くなるのを恐れている。


 余談にはなるが、この時代、おそらく文官、武官という呼称の別は無い。官職およびそれらの別は周代以降の封建制や集権国家、その中枢たる朝廷のようなものができ、それに伴って設置されたはずである。また、この時代において文字というのは国政のことを筆記するためではなく、祭祀や占いのことを記録するためのものであったから、王の側にあって政をする者を文武の官で区別するのはおかしい。

 筆者がここで文官、武官と区別しているのは、軍のことをする者と民政のことをする者という区別のほか、占いを中心に政を執り行う者を聞仲らと隔離して表現するためそう呼称した。

 文、という字は、土器に縄でもって紋様(このととり糸へんに文、である)を描いた様をあらわした文字であるから、自然が形取るものでなく人為的に書き付けたものは全て文であろう。すなわち、占いを記録するものも文であり、それらを扱い、政策決定の依代とする者は、すなわち文官と呼称しても差し支えないと考えたわけであるが、それはここで置く。


 その文官どもを無視し、聞仲はくぐもった声を立てた。

「それと、民のことを。戦いで苦しむのは、まず民。彼らに、できるだけ負担がかからぬように」

「わかった。戦いの費えが要るのだな。では、今日を限りに、贅沢はやめる。あらゆる官に、そう命じよう」

「王よ。この李伯りはくの言葉を、お取上げ下されませ」

 進み出てきて膝立ちになったのは、文官の中で最高位である李伯という五十すぎの肥った男で、彼の下に占いを執り行う集団が複数あり、それらのもたらす神託や霊言を王に取り上げる役を担っている。


「聞仲どのの仰ることを、間に受けられてはなりませぬ。軍があるなら、今の軍で、敵を打ち払えばよいのです。それなのに、なぜ、さらに軍を強くして民に負担を強い、かつ、そうならぬようにするというような道理があるのです」

 焦っている。聞仲は、例の姫考の一件も、この男の発案で、周囲の者をも巻き込んで何も考えず残忍な愉しみのためにしたことだと思っているし、そうであるという言質も独自に得ていた。

 もしこの男が、ほんとうに敬虔な気持ちで骨が割れるのを見つめ、それでもって神託であるとして吉か凶かというのを見定めるようの男なのであれば、聞仲もそれなりに敬意をもって接したであろうが、結局のところ、この男は占いが自分の都合のいいときに吉兆を示すように細工を施すような男だから、この男に国を思い、王の側にある資格があるはずがないと思っている。

 だから、豚の糞でも見るように李伯を見下ろしている。

 李伯は、まだ何かを早口にまくし立てている。紂王が、わかった、わかった、と言いかけそうになったとき、また聞仲の声がそれ制する。


「それと、まず、はじめにせねばならぬことがありますなあ」

 失敬、とおもむろに聞仲の腕が紂王の腰に伸びる。たとえばこれが始皇帝以降の王に対してであったなら、聞仲はどのような事情を斟酌しても死罪であったろうが、今はそのような時代ではない。


 伸びた腕が、紂王の腰を飾る剣に伸びた。そう思った瞬間に、この昼間でも光の入らぬ奥の間を照らす灯火が閃き、しばらくして李伯の首が落ちた。

 何かを話している途中のままの李伯の首を見て、はじめて紂王はあっと声を上げた。


「まず、この商という大樹に巣食う蟲を、誅滅なさるべし」

 黄父子に向かって、目配せをする。応、とみじかく声を発した二人が躍り上がり、瞬く間に紂王のそばに取り入って自らの欲を満たすことしかせぬ豚どもを血祭りにした。


「ここに、紂王みずからの剣により、その威を借りて己がほしいままに国を、民を損じてきた悪虐の臣李伯ほか同じ罪の者が誅された。これより、王は不惑の心でもって、我らを苛み、この天下を我がものにしようとする者どもを退ける」

 紂王の脇に立った聞仲が声を高くする。文官のうち隅に置物のように控えていただけの小粒の者どもは、震えて床に額を擦り付けるのみで、声もない。

 これ以降、ものごとを決するのに神にその良し悪しを問い、そののち骨や甲羅を火にくべ、割れ目がどう走るかで答えを得るというようなことは王のそばでは行われぬようになるし、こののち商を実質的にそのまま継承する周王朝にも、この文化は伝わらなかった。


 クーデターのように見えるかもしれない。しかし、紂王は、その夜、自らの居室に聞仲を招き入れている。

「——もう、あとには退けぬということか」

 杯に注がれた酒の白いゆらめきを眺めながら、紂王が呟いた。

「いいえ。あるべき道に、戻られたまでです」

「ふふ——そうかもしれんな。いや、そうなのだろうな。ああでもしなければ、俺をその道に戻すことはできない、と思ったわけだな。李伯ほか多くの者を殺してでも」

「死を覚悟しておりました。そうしてでも、御身を導き、お救いしなければならないと思ったまでです。それは、この国を、すべての民を救うことになるのです。力で国を滅ぼすことなどできはしないということを知らしめることで、もう二度と、天乙が桀を滅ぼした前例を踏もうとする者を出さぬことになるのです」

 そうすることで、今生きている民だけでなく、これから産まれてくるあたらしい民をも導き、守ることができる。そう言ったとき、紂王が顔を上げた。


「まだ産まれぬ民をも——」

「そうです。それこそが、国」

 紂王の手にした杯が震えている。言葉を使う、唇と同じように。

「俺は、桀にならずに済むのだろうか」

 孤独と不安。それが、紂王を支配していた。王になったのが、若すぎたのだ。そのまま長く座にありすぎたのだ。

 しかし、聞仲は思う。

「道とは、かならずそこにあるもの。ただそこに立ち、示し、あとに続く人を導くのみ。それだけで、御身は桀どころか、国をあらため善なる世をいたと讃えられる天乙とおなじように人は仰ぎ見るのです」


「そうか——天乙か。俺に、そのようになれるのかな」

「案ぜられますな」

 聞仲は、勧められたまま手にしていただけの杯にはじめて口を付け、一息に飲み干した。おそらく、これが紂王の最後の酒になる。そう思ったから、最後の杯に付き合うつもりであった。

「——この聞仲が、おります」

「聞仲」

 紂王は、落涙した。どういう言葉がその頭の中にあるのかは、分からない。

 最後の杯。紂王はそれに口を付けかけ、逆さにして酒を捨てた。


「周と、和解したい。それで納得するとは思えぬが、李伯の首を塩漬けにし、届けよ。李伯には悪いが、姫考のことはすべてこの李伯がしたことで、俺はそのことをひどく嘆いていたのだと。そう伝えてくれ。そのうえで、戦いを止めるよう、頼んでくれ」

 こういう、純粋なところがある。それがため、ひどく歪んでしまったのであろうが、やはり、元の根はそのままであったのだ。聞仲も、かつて養育係のようにして側にあった頃をまた思い出し、涙を禁じ得ない。


 そのようなことで、周が矛をおさめるはずがない。しかし、そうしたい、という紂王の意は、汲んでやらねばならない。夜が明けると、早速そのようにした。


 しばらくの日数を経て、渭水を総艪そうろで下ってくる舟が、朝歌を訪れた。

 周からの返答であった。

 和睦はせぬ。使者の首とともに、そういう返事がもたらされるものと、聞仲も紂王も思っている部分が大きかった。しかし、鹿台を訪れたのは、まるで春の黄砂に霞む太陽がそのままに降りて来たかのような美女であった。

「名を妲、姓を己と申します」

 鈴が鳴き、花が笑うような声。返事をもたらした者いわく、周側は、和解の申し出に対して何も言わず、ただこの美女一人を差し出して答えたのだと言う。

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