鹿台、奥の間にて
鹿台の奥の間。紂王が出てくるのを待つ間、聞仲は取り巻きどもをどのようにして黙らせるかということを考えていた。
まとまらぬうち、気配が動き、やがていつもの顔ぶれ。そののち、酒のために隈を深くし、頬を赤らめた紂王。
「間者が、相当な数、入っています」
短刀でも突き刺すように言った。この話題も一再ではないが、しつこいと言って首を刎ねられたとしても彼は紂王にこのことを理解させなければならなかった。
「また、間者の話でありますか」
口を挟んできた取り巻きの一人を思い切り睨み付けた。その者はすぐに目を逸らし、なんでもないように振る舞った。
「聞仲。お前が、それほどに間者、間者と騒ぐのだ。間者とは、どれほど厄介なものなのだ?」
紂王の、素朴な疑問である。幼い頃から知っている。だから、ほんとうのところで心は通じ合っている。しかし、あまりに、ものを知らない。
たとえば、戦いのこと。たとえば、政のこと。あるいは、天下のこと。自ら眼を背けている、としか思えないが、子供の頃ならいざ知らず、今の紂王の心中については量れる部分とそうでない部分がある。
「まず、こちらの思惑が全て敵に知られます。兵糧が危ういと知れれば断たれ、兵に偏りがあれば弱いところを叩かれ、将に乱れがあれば寝返りを勧められます。こちらが何を考え、どう出るのか。それは、狩人が獲物のありかを、農夫が種の蒔き時を、釣り人が潮の満ち引きを知りたがるように、敵にとっては無くてはならぬものなのです」
まず、情報というものの重要性を説く。理解しやすいよう、喩えを引いてやる。子供のころは、詩的なところがあった。空の星を見上げ、あの星は泣いているのか、笑っているのか、などと訊ねられたこともある。
王となってから各地の民の労働生産力や、いのちそのものと引き換えにして求めている珍しい形の岩だとか、鮮やかな色の鳥の羽だとか、翠玉や瑪瑙や瑠璃や玻璃の類を愛でるのは、根には紂王特有の感受性があるのだと聞仲は思っている。
「なるほど。そのようなことは、前にも聞いたなあ」
言ったかもしれない。取り巻きどもや文官について、紂王の方からそれを抑えるようなことも言った。紂王の目の色が、酒を浴びただけのものではないのは、たぶん、その約束を果たすつもりがあるからなのであろう。
「知れば、すなわち勝つ。知らざれば、すなわち敗ける。そういうものなのです」
「しかし」
と、取り巻きの一人が、占卜のことを挙げた。それは鬼神(この場合、先王の霊のこと)がものの趨勢を告げるものであり、それで十分ではないかというわけである。現代の我々にとっては信じられないことであるが、彼らにとっては星を見上げて
科学で解明できないことはない、とする科学者と、この世には科学では説明のできぬことはあるのだ、とする霊能力者や未確認飛行物体の信奉者が対峙するようなテレビ番組はもう流行らぬのだろうが、彼らの価値観と前例のことのみで言えば、天文や亀甲による占卜を支持する者どもこそが科学者であり、聞仲がオカルト信者であると言ってもよいだろう。
ただ、彼らが科学的でないのは、その理屈の柱に、
「人の身でありながら、おこがましい」
というようなものがあることである。
それが、この場においても発言として現出した。聞仲は、それを聞き流さなかった。
「では、問おう」
と、はじめて紂王から視線を外し、取り巻きどもを射るように見た。
「このたび、戦ったのは誰か。鬼神か。それは違う。この私だ。そして、三千の将兵。それが、反乱を企てる方どもや斉軍を討ち払ったのだ。よいか。戦いは、いつも人がする。鬼神がするものではない」
天数というものはあらかじめ定まっており、鬼神はそれを告げるのみだ、と誰かが屁理屈をこねた。それを、聞仲は大喝した。
「まだ分からぬか。勝った、勝ったと自分で剣も握らぬくせに喜び回り、安堵で息を荒らげる者どもめ。いや、それはよい。そなたらは文官だ。ならば、頭を使うべきではないのか。星を占い、骨を火にくべて国のゆくすえを知るならば、なぜ、今たしかにあり、これからさらに増長するであろう脅威のことを知らぬのだ」
「いくら聞仲どのとはいえ、あまりのお言葉」
一人が声を裏返し、抗議を紂王に向かって示した。紂王は、ほかの臣であればこれで焼き殺したりしたこともあったろうが、聞仲に対してはそうではない。続けよ、とのみ言った。
「昨日の間者。あれは、私が斉と戦いに出ていたからこそ、この商の中心である朝歌にまで入ってくることができたのだ。いや、あの者を入れるために、私は、戦いに出されたのかもしれん」
「どういうことだ」
紂王が、身を乗り出した。話に、ほんとうのところで興味を持ったということだ。
「感じているままと、確かなことを、
老いてなお、聞仲の武勇は天下に並ぶ者がないと誰もが言う。その兵の練度も、おそらく中華のどの軍よりも高い。それが、ずっと朝歌かその近辺にいるのだ。当時、警察組織はない。治安維持の目的もある。だから、間者として潜り込む側にしてみれば、朝歌とは天下で最も入りにくい街であると言える。
それが、戦となれば。その戦が、聞仲自らが思わず出て行きたくなるような、戦であれば。
今回、聞仲は斉軍の侵略を、単なる外敵の侵攻と考えなかった。これからはじまるやもしれぬ、中原を焼く戦禍の一端になり得ると捉えた。それゆえ、その火が燃え広がらぬよう、自ら出て完膚なきまでに斉軍を叩いた。
商軍強しということがあらためて分かれば、天下の者もこれ以上無用な戦いを挑んでくることはないという理屈である。
彼が今説くのは、
「そうせしめられたのであるとするならば。斉軍をけしかけ商の傘下にある城邑を襲い、私をここから離し、その間に、人を朝歌に多く入れるつもりであったのであれば」
ということである。
「誰かが、そう仕向けていると?」
紂王の眉が、暗くなった。
「お報せしたとおり、この聞仲がこれまでのどの戦いでも見たことのないような、恐るべき武を持った者がおりました。単に、こちらの様子を探るのみならず、あの者は、時と場さえ合うならば、御身や、あるいは
「武庚を——なぜ?」
武庚というのは紂王の子のことで、軍役にあり自らの部隊も持たされている上級の将軍である。将軍とするにはあまりに若く、それほど兵をまとめるのも上手くなく、この時代の兵の運動に直接的に関係していた将個人の武勇なども平凡なものではあるが、紂王の子であるからとしてその地位にあった。その暗殺の可能性さえあったのだと、聞仲は説いた。
「なぜ、と申されますか。なぜならば、我々が、周公姫昌の子である考を、ゆえなく殺めたからです。それも、きわめて惨い形で」
「あれは、俺がそうせよと言ったのではない」
紂王が、そっぽを向いた。ばつが悪いのであろう。
「たしかに、そうかもしれませぬ。御身は、ただ周囲の者どもの勧めに従い、それが囃し立てて喜ぶのに合わせ、命じないまでも禁じなかっただけであるかもしれません」
「そうだ。まさか、あの若者を国によって帰してやると騙して引き出し、途中まで船に乗せて喜ばせ、にわかに引きずり下ろして身を刻み、あろうことか
紂王が、言葉を詰まらせた。想像し、堪えないものがあるのだろう。
「そうです。御身は、まるでそのことを知らずにおられた。あとになって知り、たいそう驚き、嘆かれましたな」
ですが、と聞仲は紂王が何か言おうとするのを制し、彼の気持ちを代弁するのをやめた。
「周にしてみれば、同じこと。御身が、商なのです。商に殺されたということは、御身に殺されたということなのです。ましてや、御身は、止めなかった」
「知らなかったのだ。ほんとうだ」
「知らなかった。しかし、知り得た。知り得なければならなかった。そうではありませんか」
「それは——」
紂王が、うなだれた。考のことは、ほんとうに後悔しているようだ。
「俺は、あの若者が、好きだったのだ。できれば周になど帰らず、俺のそばに長く仕え、ここで家を成してほしかった」
別の話をはじめた。酒のせいではなく目が赤い。聞仲は息を一つ入れ、眉を下げて声の調子を変えた。
「それを、周の者が理解することは、ないでしょう。彼らにとっては、将来を約束された太子をいたずらに奪われた憎しみと悲しみが全てなのですから」
それから、かつての古の王である
「子供のころ、よくその話をしてくれたなあ。聞仲」
懐かしむようではあるが、そのとき、今聞仲が思い返しているように、つねに湯王のような良い王にならねばなりませぬぞ、と言い聞かせ、わかった、そのときもお前がそばで俺を支えよ、などと可愛いことを言っていた記憶まで思い出したかは分からない。
「今、御身が桀であり、自らが天乙(
「そ、そのような」
取り巻きどもがまた色をなしかけたが、それを聞仲は無言で圧した。
「そうか——我が身が桀、か」
遠い目で、呟いた。なにを思うのかは、聞仲にはもうあまり量れなくなっている。
「聞仲」
紂王の眼が、この忠臣に向く。
「諫言、ありがたく思う。おまえは不敬をおそれず、国と、俺を思い、あえて言ったのだな」
「そのことがお分かりいただけるならば、天下の何人であっても、御身を桀などとは言わせませぬ。この聞仲が、人の何たるかをはき違え、王の王たるを知らず、国の国たるを知らぬ周の山猿に、真の国とは、真の王とは何たるものかを知らしめてご覧に入れましょう」
「よく申してくれた」
紂王が、立ち上がる。周囲の者どもは、どうなるのかと狼狽えながら、聞仲に対しての嫌悪を露わにした。
「聞仲」
請うように、語りかけた。
「俺は、何をすればよい」
「はっ。まずは、軍の増強。先頃、周から戻りました黄父子を、将軍として。周公を斬ることができなかったことをお許しになり、むしろ、周の地勢と内情を知る者として、お取り立てなされ」
紂王が同意を示すと、聞仲はすぐに声を上げ、この奥の間の外で待機していた黄父子を呼んだ。
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