売り歩く男
たしかに、多い。市に出てみれば、それがはっきりと分かる。どこか、よそよそしいのだ。
「あの、麻を扱う者。それに、土器を売る女。市の端で寝転がっている物乞い。それを、捕らえろ」
聞仲は、郭戴にそれだけ命じた。郭戴は、はっ、と声を上げ、理由も聞かず供回りにそのとおり命じた。
「周の者なのでしょうか」
「わからん。すくなくとも、周に通じている者であろうな」
この市は、朝歌でそれを取り仕切る役所に届け出をしなければ——その際に登録料のようにしていささかの財物の交付が要求されるのは言うまでもない——、物を商うことができない。その届出を、木の板を刃物で掘ることで書き記しており、それと実際に市に立っているものとを照合して歩いていた。
戦から戻り、鹿台で紂王に会い、そののち帰って妻と夜を過ごし、目覚めてすぐ仕事に戻った。
人の多いところに、紛れやすい。市なら、品物や貨と一緒に情報も入ってくる。間者が拠点にするにはうってつけというわけである。
「引き出した者は、どうします。殺しますか」
「いや」
軍営に連れてゆき、徹底的に洗う。間者とは一人で働けるものではない。それこそ軍のような組織であるべきである。まだあまり広く用いられていないはずの間者というものについてさえ、聞仲の知見は及んでいた。
七人の供回りに連れられ、三人の間者らしき者が歩く。聞仲と郭戴は、最後尾である。聞韋は自分の軍に戻り、また調練であろう。今回の戦いを目にして、より精を出すはずだ。そのようなことを考えていたところ、郭戴がひそひそと話しかけてきた。
「あの市の者どもはともかく、なぜ、物乞いまで。脚まで悪そうではありませんか」
ぱっと見、老人のようであった。汚い藁の細長い包みを後生大事に抱え、脚が悪いのか、片脚を投げ捨てるような格好で寝転び、通る人通る人に食い物をせびっていた。
だが、何かを感じた。それも、尋常ではないものを。そばを通ったとき、ちらりとこちらを見ていたのだ。その目が蒼っぽく、不思議な輝きを持っていた。色はたとえば西域や北狄(北方の異民族全般を指す)の者などには碧眼紅髪の者もいるが、それとは別に、物乞いの蒼には、何かを諦めたり絶望したり、決してしていない確固たる光があるのを感じたのだ。
市で怪しいと感じた者は二人だけであったが、仮に、彼らがもし無実で、ただ届出なく勝手に商いをしているだけであったとしても、この物乞いは。そういう確信に似たものがあった。
果たして、それは当たった。
軍営に足を向ける一行の先頭で、わっと声があがった。郭戴が無意識に聞仲の前に身体を出して守る姿勢を取り、聞仲は剣の柄に手をかけていた。
その視界には、信じられないものがあった。奇声とともに飛び上がる、物乞いの男。藁束がばらばらに解けて散り、その中に隠していた妙な剣を抜き放っている。
見覚えがあった。あれは、西域の剣だった。むかし、西域の者からなる敵と対峙したことがある。だが、それがなぜここに。
飛び散る藁束に、血が重なる。人間とは思えぬ跳躍力と剣の冴えである。奇声ひとつで、二人が同時に死んだ。周囲の者は、何が起きたのか分からぬらしく、ぽかんと口を開けている。
「まだ、捕まるわけにはいかないんでねえ」
とん、と地に降り立ち、拍子抜けするような明るい声で言った。幾つなのだろう、と聞仲は思った。肌が浅黒いのは日に焼けているのか、血を滴らせる湾曲した剣の由来どおり西域の者であるからなのか。
片足を上げ、もう片方の足に組むような格好で立ち、剣を目の前に翳す。妙な構えであるが、周囲の者は全く手出しができない。
「何をしている。取り押さえろ」
郭戴の号令で、供回りの者がわっと剣の男に襲い掛かる。
舞い。聞仲は、そう思った。儀式のときに踊るような、舞い。ひとつ地を蹴って飛び、血が降った。ひとつ身を廻すと、肉が削げた。見たこともないような動きであったが、聞仲は、そのあまりにも無駄のない凄惨な殺人の技に、背筋に粟が立つのを感じている。
「だから、嫌だったんだ。商なんて」
「何者だ」
郭戴が呼吸を測りながら、問う。供回りの者は軒並み倒れ、もう彼と聞仲の二人しか残っていない。
よくて、相討ち。郭戴は、剣を握り直しながら、そう思い定めた。しかし、剣の男はくるくると血振りをして殺気と共に剣を革の鞘に納めてしまった。
「とんだ大暴れだ。また、剣が傷んでしまった。やれやれだな」
「何者だ、と聞いている」
「正直に答えるほど、お人好しじゃあないもんで。べつに、あんたらを殺したところで、面白くもないし」
やはり、西域の者か。その肌の色、剣の形、みのこなし。どれを取っても中華の者ではない。
だとしたら、周が送り込んでいた間者か。そうだとするならば、その元締めのようなものかもしれない。
「あんたらが期待するようなもんじゃあないよ、断っておくが」
心を読んだようなことを言う。
「ちょっと、ご機嫌伺いに来たまでさ。盗みに入るとき、家の者がいるときにやってくる馬鹿はいないからね。しかし、今は無理だな。いずれ、また」
男は、ぱっと後ろに飛び、駆け出した。さながら砂漠の蜥蜴といわんばかりの素早さで、あっという間にその姿を見失ってしまった。
「——お怪我は」
「大事ない」
聞仲は、肩で息をしている。あれほど凄まじい、不気味な武を見たことがない。
しかし、聞いたことがある。
「西域の者で、あちこちに出入りしては品や噂話をもたらす者がいると言う」
それは、特に珍しいものではない。
「それは表向きの話で、そのうち、その者は大っぴらにはできぬような話も売り歩くようになった。そうすると、それを揉み消したいと考える者もあらわれる。そういう求めにさらに応じ、剣でもって人知れず相手を葬ることも請け負うようになった」
「それが、あの者だと?」
「分からん。そういう輩がいる、というのを聞いたことがあるだけだ。まさか、この商にまで入っているとは」
目的は、分からない。だが、間違いなく周の差し金であろう。ああいう者をも使っているのであれば、呂尚とはさらに油断のならない相手であるということになる。
「人死にが、出てしまった」
無惨に散らばる亡骸を見ながら、聞仲はぽつりと言った。
「しかし、聞仲さまの身に変わりがなかったことが救いです」
ようやく、郭戴が剣を納めた。握り締めてしまっていたのだ。
「——敗けていた。俺とお前の二人でかかっても。そう、確かに思う」
「聞仲さまの前に立ち、生きていられる敵など、いるはずもありません」
答えなかった。
武の道にあってこその己と思っている。その自分が、確信しているのだ。あの武と向き合えば、敗れていたと。
かつて話に聞いたことのある、暗い仕事を売り歩く西域の者の名。思い出そうとした。幾つもの名を用いており、どれが本当の名なのか、誰にも分からないと言う話であったことを思い出した。
とにかく、それはどうでもいい。朝歌や商の力の及ぶほかの邑に流入してくる者の取り締まりを、強化しなければならない。それを、どうするか。
人が見れば老人と思うほどの歳まで生きてきた。それでも、見たことのない類の者であった。
一気に、色々なことが起きている。それだけ、周のことは切迫してきているということだ。
いや、周のこと自体、聞仲がこれまで体験したことのない類のことなのかもしれない。呂尚という男も、知りうる知識や経験で測ると、とんでもない誤りになるのかもしれない。
そう思うと、また背が寒くなった。
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