聞仲、紂を諌む

計略

 凄まじいまでの用兵。そして完全なる勝利。損害を数えると、商軍の死者はなんと十五人でしかなかった。ほかに、味方の矢にあたったり敵の矢を受けたりして怪我をした者が百あまりいるが、どれも癒えればまた戦える程度のものだった。

 あとは、戦車隊の馬が二頭、傷付いて動けぬようになっていたから、可哀想だが殺して軍糧にした。その肉を焼いたものに齧り付きながら、聞韋が興奮した声を上げる。


祖父じじ様。未だに、信じられません。あのような戦いが、この天地にあるなど」

「思い違うな、韋」

 聞仲は、自らの身が朽ちるまでの間に、どれだけのことを人に伝えられるだろうかと思いながら、その貴重な機会を損ぜぬよう注意して言葉を選び取った。

「俺は、いつでも勝つべくして勝つ。しかし、勝つということは、当たり前ではない」

「難しいことを、仰います」

「お前はまだ戦いに出て、それほどの年月を過ごしていない。しかし、非凡なものはある。だから、俺はお前を人の上に立つ将にしている」

「私には、まだ荷が重いところがあります」

 肉を炙っていた火が、聞韋の頬を照らしている。そうすると、その若いみずみずしさがより際立つ。言葉では大層なことを言っていても、その視線は火に滴り落ちる脂が旨そうな音と匂いを立てているのに注意深く注がれていて、それもまた彼のいのちが若い様を思わせた。

「勝ち続けなければならん。負ければ、それは死なのだから。だが、勝ちに慣れてしまってはいかん。いずれ、そのことが分かればよい」

「心に、留めておきます」

 聞韋には、自分よりも遥かに多くの時間がある。だから、焦ることはないのだ。自分にできるのは、自分というものがこの世から消えて無くなっても、何変わることなくやって来る明日を作ることである。そう、聞仲は思っている。少なくとも、今、聞韋にとってほんとうに必要なのは、老いた祖父の講釈をいつまでも聞くことではなく、はやくその若い身体に肉をたらふく入れることであろう。


 聞仲の思考は、一人の天地に帰った。思えば思うほど、周のことが気にかかる。何を置いてでも、潰してしまわねばならない。

 天下の諸国が息を一つにして攻めてくれば、いかに商が強いといっても、どうなるか分からぬのだ。

 しかし、とも思う。今回の周の叛乱で、商に従うもの、歯向かうものがはっきりとする。叛乱をすべて叩き潰すことができれば、この天地から戦いというものは無くなるのではないか。

 自分のいのちがあるうちに。そのうちに、それをする。そうすれば、聞韋は生きた、死んだなどという血生臭い生を過ごすことなくいられる。


「さあ、眠れ。夜が明けたら、すぐ商にとって返す。今回の勝利は、よからぬことを企む諸国への何よりの威圧になったであろうからな。そのうえで、俺は、紂王さまに進言したいことがある」

「それは、一体——?」

「まあ、そのうちに分かる」


 兵も興奮しているのか、まだそこここで声を交わし合っている。斉軍の輜重も奪ったから、食い物はふんだんにあるのだ。

 勝った今だけは、咎めるまい。聞仲はうっすら目を細めて兵たちの声を聴き、まだ乾かぬ土に獣の皮だけを敷いた寝床にごろりと横になった。


 火の爆ぜる音が、眠りを誘う。眠りが近くなるほど、火が勢いを弱めるほど、その爆ぜる音は強くなるようだった。

 自分も、そのようなものかもしれん、と何となく思った。



 商に戻った聞仲は、戦車隊の馬の様子を自ら見て回った。郭戴ももちろん従っているが、馬の体の具合を知るために糞に手を入れてその様子を確かめたりするのにだけはいつまでも慣れないらしく、遠巻きにしている。

「北の蛮族どもなどは、常にこうして馬のことを知っていたものだ。馬がなくては、何もできぬからな」

「しかし、聞仲さま。糞に手を入れるなど」

「お前も、馬のことが分かるようになっておけ」


 馬の飲み水を汲むために引いてある流れで手をよく洗って、鹿台を目指す。

 例のごとく、取り次ぎが面倒である。しかし、今回は、戦勝の報告である。比較的すぐに紂王が遊んでいる奥に通された。

「おお、これは、めずらしい」

「聞仲どの。お久しうござるな」

 紂王に戦勝の報告に上がるとあらかじめ伝えてあったからか、その脇には見知った姿があった。

「黄飛。周から、戻っていたか」

「そうだ」

 紂王が、口を挟む。やはり、少し酒が入っているらしい。

「咎めはせぬからよいと言うたのに、こやつは、自らこの度のことの責めを負うため、自分の首を刎ねようとした。どうしてもおさまりがつかぬと言い張るものだから、戻って以来、謹慎させておったのだ」

 その謹慎が、解けたらしい。息子の天化が無愛想なのは相変わらずのようで、年長者と上官に対する礼の仕草をしたきり黙っている。

「いや、聞仲どの。北方の蛮族ども、たしか打吉だきつ族を打ち破ったあの㗅車山こしゃざんでの戦い。あれを思い出すような勝ちぶりであったとか」

「あれか。懐かしいな。あのとき、まだお前はほんの子供で、小便を漏らしておったな」

「はじめての戦いであったのです。それに、子供ではありませんでした。すでに十九になっていたはずです」

「同じようなものさ。子供でなければ、小便など漏らすものか」

 二人、笑った。黄飛はずっと武人の家の出で、たしかに聞仲がまだ若い将軍であった頃に、その軍に従っていたことがあった。


「周の呂尚なる者が画策し、天下の国々の声を集めたと聞く。まことなのだな、黄飛」

「ええ。あの呂尚という男——」

 黄飛が、言葉に詰まった。選んでいるというより、どうあらわしてよいのか分からぬ、という様子だった。

「——商を倒そうなどと愚かなことを言い出す、不届き者です。しかし、なかなかに、人物ではありました」

 引き取ったのは、天化である。聞仲の眼が、そちらに向く。

「ほう。珍しいではないか。幼い頃から気難しく、母の手にすら余っていたお前が、その人物を買うとは」

「思ったことを、述べたまで」

「教えてくれぬか、天化。呂尚というのは、どのような男なのだ」

 天化は、このだだっ広い鹿台の奥の間にその姿をあらわすような目をし、述べた。


「一見、愚鈍であります。何を考えているのか分からぬし、何も考えていないようにしか見えない。歳も、若いようでいて老いているようでいて。しかし、それでいて、その思考は鋭く、かつ深く、決して人の至らぬところでばかり回っています」

「ほう——そのような男が。お前は、呂尚のことを好もしく思っていたのか?」

 今度は、天化が言葉を切る。黄飛とは違い、どう思っているのか、無理矢理にでも言葉にするつもりらしい。

「いえ。大嫌いでありましたよ」

「そうか。その割に」

 言葉が重なったので、聞仲は若い者を優先した。

「——恐ろしい、と思っていたのかもしれません。私は、あの男を。畏れていたのでしょうか」

「それが分かるなら、お前はたいした男になったものだ」

 天化は、あいまいに返事をし、それきり何も言わなくなった。


「さあ、聞仲。お前がどのように鮮やかに斉の者どもを蹴散らしてきたのか、お前の口から聞かせてくれ」

 紂王は、期待に目を輝かせている。戦勝のときすぐに朝歌に伝令を発しているから、知っているはずであるが、興奮がおさまらぬのだろう。酒毒に侵されかけている顔はそのままであるが、その色には、安堵が浮かんでいた。それが、単に勝ちに喜び、驕っているだけのものではないように見えて、聞仲は少し目を細めた。


「ところで、今日は、左右の方々が見えませんな」

 あえて呑気な口調で言った。紂王は苛立つように手を振り、

「戦いの話だ。それが分からぬ連中は、今日は、ここに入ることを禁じてある」

 と口を速めた。なるほど、と聞仲は満足げに寂しいほどに人の少ないこの奥の間を見渡し、そののちに求められるとおり、戦いのことを語ってやった。


「興をお示しでおられましたな」

 退出してから、はじめて郭戴が口を開いた。

「斉に勝つ。それをもってして、諸国に商の威を示し、叛乱を鎮める。そういう計略とばかり思っておりましたが」

「そのとおりだ、郭戴」

「なるほど、勝ちの味をお教えになり、王の腰を戦いの方に向けるところまでが、聞仲さまの計でありましたか」

「余計なことを言うものではない。それに、王は、ただ勝ちに酔っているだけではない」

 失礼しました、と郭戴は黙ったが、目元は笑っている。同じ表情を、返してやった。


 実際、今日は、文官とも呼べぬような取り巻きどもは、取り次ぎを除いては姿をあらわさず、したがって口を挟まれることもなかった。

 よい傾向である。このまま、国政のことに目を向けてくれればよいが、ことはそれほど単純ではないだろう。


 館に足を向ける。戦いに出ると告げたとき、妻は、もう聞仲の歳で再び戦場に出ることはないものと思っていたらしく、たいそう心配した。できるだけ早く、安心させてやりたいのだ。


 周のこと。国内に入っているであろう、その間者のこと。これからの新しい、周を打ち破るための戦いのこと。黄親子が戻ったのであれば、また思考の幅は広がる。馬のこと。兵糧や武具のこと。考えなければならぬことが、まだ山ほどある。

 しかし、今夜は、帰るのだ。それをすることを、誰も咎めはしないだろう。

 やはり歳か、と聞仲は一人、苦笑いをした。ひどく疲れていることに今さら気付いたのだ。しかし、それは快いものであった。

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