雷鳴

 風。高く飛ぶはずの鳥が、低く飛んでいる。今は優しげな顔をした太陽がこの潘野はんやの開けた風景を眺めているが、もしかすると雨が近いのかもしれない。


 潘野は、蛇行しながら海を目指す黄河水系がもたらしてきた土壌からなり、土地がやや低いため、しばしば水に浸されてきた。しかし粘土質であるため、作物のために拓いても人々が望むような栽培を行うには工夫を要するだろう。


 聞仲は、なだらかな起伏のほかは一面の原野が広がるその風景を、彼を見下ろす太陽と同じような顔で目を細めて見遥かしている。周囲よりもほんの少し高い丘に軍を停めたから、遠く、桓邑かんゆうの城壁を確認することができた。

 そこから上る煙が、流れている。やはり、雨が来るのか、と思った。いや、それよりも、反乱軍は攻めて陥とした桓邑かんゆうを、破壊して棄てたのだということの方が重要であろう。


 もう、こちらの動きは反乱軍に伝わっているであろう。今ごろ、どう攻めるか、と話しあったり、占いをして軍議が持たれていることであろう。

 ——城を攻め、陥としたということは、攻城兵器まで持ち込んでいる。

 瀬踏みにしては、大掛かりではある。攻城兵器についてはこのあとの春秋、戦国時代において移動式の車輪の付いた巨大な櫓である井闌車せいらんしゃや大きな石を射出する投石器、城壁そのものをぶち破る破城槌はじょうついなど、数多くのものが開発されるが、おそらくこの時代に用いられていたのはせいぜい、城壁に掛けるための長梯子である雲梯うんていや、戦車の延長線上で着想されたであろう、馬で引いた車に固定した丸太でもって城門を破る衝車しょうしゃであろう。


 ——ならば、戦車隊も持ち出している。

 と、聞仲は見て取る。そうなれば、いつそれを繰り出すのかという駆け引きが重要になる。互いの軍が戦車隊を持つ場合、明らかに後出しの方が有利である。先に戦車を駆け巡らせた方の馬の息が上がったり戦車に乗り込んだ兵の矢が尽きたのち、後から繰り出す方が戦車隊を繰り出したなら、歩兵もろともそれを蹂躙し尽くすことができるからだ。


「戦車まで引き出しているようですな」

 孫の聞韋ぶんいが、声をかけてきた。まだ二十に見たぬ歳だが、よく気が付く。将来、優秀な将軍になるやもしれぬ。

 しかし、どこか甘い。気が優しいのかもしれない。聞仲の若い頃のように数多の戦場に出て敵と対峙した経験が少ないため、致し方ないと言えばそうではある。

 しかし、この先、自分と同じほどの数の戦場をくぐったとして、自分と同じだけの能力を身に付けられるか。それは、疑問だった。なんとなく、この剣を振るよりも空を見上げて星を読む方が似合いそうな孫が自分と同じ数の戦場に出たとして、そのいずれかの途上で命を落としてしまうだろうと思っている。


 不満ではない。単に、孫が可愛いのだ。頭が良いことは買っている。だが、やはり、どこまでいっても、よい将軍にしかならぬだろう。

 聞仲が目指すのは、孫に厳しい教育を施すことではない。この孫が、戦場で命を落とすことがないような世の中である。誰もが、誰かの親であり子であり孫であり夫である。その全てのいのちを無駄に損なうことのない世のためには、やはり強固な国というものが不可欠なのだ。


「南に、斉軍二千」

 八方に放っていた物見が戻ってきて急報した。やはり、こちらの進軍を察知し、兵をふたたび集めて進めてきたものらしい。一報を受け取ってから進発するまで一日。ここまで到着するのに、急行軍を発しても十四日かかっている。斉軍が散開せず、まとまったまま近隣地域にいたということは、救援があることを見越し、それを打ち破るつもりでいたということだ。


「おもしろい」

 聞仲は、眉を厳しくした。隣で、聞韋が驚いたような顔をしている。斉軍のことではない。自分が、このような顔を孫に見せることが、あまりないのだ。

「北に、二千」

 別の物見も、戻ってきた。挟撃ということである。挟撃するにはこの潘野は遮蔽物がなく、広すぎる。

「東から、三千。こちらに向かってきています」

 聞仲は、口元が笑むのを止められない。剣を抜き、それを高々と掲げた。

「戦車隊、用意」

「今、なんと」

 副官の郭戴かくたいが驚いた声を上げる。戦車隊を真っ先に繰り出すなど、聞いたことがない。

「南北に向け、半分ずつだ。弓隊と歩兵は、全て正面に備えよ」

祖父じじ様」

 思わず、聞韋が袖を捉える。あまりに軽率ではないか、と言いたいのだろう。まだ、相手の武装の具合も分からぬのだ。

「戦車隊がある」

「なぜ、そう断じることができるのです」

「見ろ。正面を」

 東。豆粒ほどのものが幾つも集まっているのが、軍であろう。

「敵軍の後ろに、土煙が上がっているな」

「土煙が何だと仰るのです、祖父様」

「二千の歩兵で、あれほど多くの土煙が立つわけがない」

 言われてみれば、土煙が多い。到着したときには見えていた遥か向こうの桓邑の煙を覆い隠し、城壁すら見えなくなっていた。

「馬。それが曳く、車。それがなければ、あれほどの土煙は立たぬものだ」

「なるほど——学びになります」

「しかし、聞仲様。南北に向けて戦車隊を発してしまえば、正面からの戦車隊の直撃を受けます」

「まあ、見ていろ」

 郭戴はそれ以上言い募らずに頷き、周囲の者に伝達した。すぐにそれは三千の軍全部に伝わり、滝を割るようにして兵が動いた。

 南北に、それぞれ二十五台の戦車。弓が二、を持った兵が三の、五人ずつを載せた重戦車である。それ以外は、全て正面に向かって陣を構えた。


「すぐには、出すな。待て。この丘の、私の姿を見ていろ。私が剣を掲げたら、戦車隊を出せ。振り下ろしたら、正面の弓だ」

「はっ」

 待った。見晴らしが良くて敵が寄せてくるのがよく見える分、圧迫感になる。聞韋が唾を飲み下す音が、原野を抜ける風の音に混ざった。


 風。吹き抜けている。

 聞仲は、また空を見上げた。雲に合わせて、鳥が翼を広くし、低く、さらに低く。目でさらに追う。獲物でも見つけたか、おなじところで旋回をはじめた。

 あれが急降下したとき、野鼠や兎などをその爪にかけている。自分の戦も、そのようなものだ。そう思った。


 敵。かなり近い。まだか、という眼を郭戴も聞仲も向けてくるが、聞仲はまだ鳥を眺めて目を細くしている。

 さらに近い。もう、敵の矢が届きそうな距離である。正面の二千は、案の定、戦車隊を後方に下げているらしい。

 両側にも敵。最前面に戦車隊が出ているのを見て取り、警戒しているらしい。

 剣。ここで、高く掲げた。同時に馬が高く嘶き、車輪の回転が地を揺らす。

「見せてやるわ」

 この聞仲の戦を。

 二十五台の重戦車が、南北の敵を蹴散らしてゆく。その破壊力は天下に比類するものがない。矢に、戈に、車輪に、馬の脚にかけられた敵は、あっけないほど簡単に薙ぎ倒された。嵐の日の麦の穂に似ている、と聞仲はいつも思う。


 掲げた剣を、振り下ろす。喊声と共に、激しい弦鳴り。矢が天を目指し、弧を描いて正面の敵に注いでいる。

 ここまではいい。しかし、正面には、まだ敵の戦車隊があるのだ。それが出て来れば、先に戦車隊を繰り出してしまったこの丘の本陣など一息に飲み込まれてしまう。

「歩兵、ゆくぞ」

 剣を納め、右手を差し出す。従者が捧げ出す大刃の槍を手にし、頭上で軽く一回しする。

「この聞仲あるところ、敗北無し」

 戦車隊が生む騒乱をも吹き飛ばすほどの大音声。兵も応じ、声を高くする。

「ぬしは、ここにおれ。郭戴、聞韋を頼む」

「お待ちください」

 待つわけがない。聞仲は、歳を感じさせぬ鋭さで地を蹴り、丘を駆け降りた。


 正面の敵。動いている。陣を二つに割り、戦車隊を出そうとしているのだろう。

 滴。雨だ。やはり降り出した。なお駆ける。敵の矢の唸りが、雨を塗り潰す。敵味方ともに降らせる矢が増えるのに応じるようにして、雨もまたさらに強くなる。

 さらに土を蹴り、泥を飛ばし、駆ける。飛んできた矢を、槍で払い落とす。後方では、兵が狂ったように叫び声を上げ、遅れまいと続いている。

 あまりの勢いに、敵もやや気勢が削がれたか。明らかに、これからぶつかろうとしている先陣に動揺が走った。


 味方の矢が、止んだ。突撃した歩兵が、敵と重なりそうだからだ。しかし、撃った矢が少なすぎはしないか、と丘の上の郭戴は思った。敵の歩兵を減らすにはもっと撃ってもよいはずで、むしろ、そうしなければならないはずである。

 しかし、聞仲率いる千五百ほどの歩兵は、なお強まる雨にさらに声を高くし、もろともせずひた駆けている。

 傍らの聞韋が、また固い唾を飲む音がした。


 ぶつかる。

 先頭の二人を、槍で薙ぎ倒した。古くから戦場で愛用してきた、大刃の槍である。穂先が折れても、かならずこの形に作り直させてきた。斬ると言うより叩くと言う方が近いかもしれない。自分の身体を使い、その骨のきしみ、筋肉の唸りを感じる。腕に、手に、脚に、それが土に。ほとんど同時に、柄に。見えない何かに導かれるように、力が伝わってゆく。刃に当たる雨の一粒すら、感じることすらできる。そうすると、また目の前の敵が吹き飛ぶのだ。

 聞仲の槍のあまりの凄まじさに、敵は何が起きたのか全く分からぬといった具合に、口をぽかんと空けている。

「商が大師、聞仲。これに参る」

 斉軍は、この豪雨の中、目の前に雷が落ちたように身を固くした。大師聞仲といえば文字通り商軍の最高位にある歴戦の英雄で、それが今目の前で一兵卒の前に立って槍を振り回しているなど、信じがたいことである。


 だが、この刃。その重み。結んだ白髪を兜から垂らし、振り乱すこの老人が聞仲その人であると信じるには、十分である。

 敵に、明らかな混乱が走った。畏れと言ってもよい。味方は、さらに勢いづいて次々と敵に突き入り、薙ぎ倒してゆく。

 しばし、乱戦になった。雨が人を濡らし、滴と血の飛沫が混ざって飛び、泥に落ちる。喊声。断末魔。それが、この天地に入り乱れた。


 丘の上から、それがよく見える。聞仲が万が一、討たれでもすれば、この戦どころか商は終わりである。これから、さらに激しい戦いが待っているかもしれぬのだ。いつ終わるとも知れぬそれがやって来ぬよう、聞仲は今、この戦場に出て自ら刃を振るっている。

 聞仲ここにあり。天下最強の軍を相手に戦い、とても勝てるはずがない。聞仲がかねてから危惧しているように、敵がこちらの情報を得、それをもとに行動を決しようとしているなら、かならずこの戦いのことも仔細に知る。

 聞仲は、今、斉軍の指揮官に向かいながら、それを見てはいない。天下に声を合わせて商に向かって来ようとしている、周の呂尚に向かっているのだ。

 ——見ているか、呂尚とやら。

 そういう声が、郭戴には聴こえてくる気がしている。

 あっ、と聞韋が声を上げた。敵陣の奥深くで、銅でできた鐘が打ち鳴らされる音がしている。退却の合図か。いや、そんなはずはない。ここで退却すれば、総崩れになってしまう。


 南北の戦車隊は。瞬く間に、挟み撃ちにしようとしていた敵を殲滅していて、その運動を停止している。

 やられた、と郭戴は唇を噛んだ。こちらの戦車隊は、やはりもう停止してしまったのだ。だとすれば、あの鐘は。


 敵の陣が、眠りから覚めた龍のように脈を打ち、動いた。歩兵が、真っ二つに割れてゆく。

 その奥には、敵の戦車隊。七十か八十はあるか。かなり多い。

 敵が号令ひとつ出せば、聞仲は為す術もなく踏み潰されてしまう。救援、と思っても、その東の方向を向いて停止している戦車隊と、あとは丘の下からやや出たところで停止している弓隊しかない。

 ——打つ手を、誤った。あの聞仲さまに限って、そのようなことが、ほんとうにあるのか。

 目の前で起きている現実と、そこから導かれる近い未来ゆくすえのことを思い、郭戴は背骨を引き抜かれたような感覚になった。しかし、隣で聞韋がもっと悲壮な顔をしているのを見て取って、

「これまで、戦場で遅れを取ったことなど、ただの一度もないお方です。若も、祖父様の神がかりと言われた戦をご覧になる、よい機会ですなあ」

 と何でもないことのように声をかけてやった。


 聞仲。潮が引くように敵が消えたのを見てとって、口の端で笑った。

「よいか。これから、戦車隊が来る。だが、一歩もここから動くな。動けば、戦車の車輪にかかる前に、この聞仲みずから首を飛ばす。よいな」

 雷鳴のような声で、そう命じた。周囲の兵が、明らかに恐れを抱いているのが分かった。

 前方。戦車隊である。馬の脚が、どんどん速くなるのが分かる。ぶつかれば、木っ端微塵である。聞仲自身、槍の柄を地に立て、決して動かぬ気構えを示した。そうしていないと、やはり腰が引けてしまうような圧迫感がある。


 餌が必要である。大物を釣り上げるには、大きな餌。これだけ高らかに名乗ったなら、斉軍では、それ聞仲を討てと逸り、拙速に戦車隊を繰り出してくるだろうと見ていた。ましてや、こちらの戦車は先手を取るようにして真っ先に全て南北に向けて放ってしまっているのだ。

 これほどの好機。敵の指揮官が一度でも戦をしたことがある人間なら、食らいつかぬはずがない。その確信があるから、聞仲は眼前に迫る戦車隊のもたらす絶対的な恐怖にも正面から向き合っていられる。


 駄目だ、おしまいだ、と誰かが呟いた。おそらく、この戦場にいる自分の兵はすべて同じ気持ちだろうと思い、咎めはしなかった。それより、目の前である。

 斉軍の兵が泥を飛ばし、雨を裂くようにして運動を続ける。

 来る。それが、分かる。馬は、さらに脚を速める。

 しかし、それがどんどん緩やかになり、あちこちで棹立ちになったり嘶いたりして、すぐに停止してしまった。

「盾。掲げるのだ。身を低くし、自分の隣の者を守れ」

 叫ぶと、兵は弾かれたようにそのとおりにした。自分の隣の者に盾を掲げる。こうすることで、全体として一つの大きな盾のような陣になり、どんな矢が振っても隙間ひとつない守りになる。


 聞仲は、一人で立ち、手にした槍を、雨の降るもとである天に向かって掲げた。

 後列でそれをじっと見ていた弓隊がそれを合図であることを見て取り、一斉に矢を放つ。このために、最初の矢合わせを控えさせていた。


 運動を停止した戦車隊目掛け、矢が地に注ぐ驟雨と一つになって降り注ぐと、馬も戦車兵も、憐れな悲鳴を上げ、次々と倒れた。味方は堅い盾の陣により、矢を受けた者は極めて少ない。聞仲の耳のすぐ横でも唸りを上げて何本もの矢が通り過ぎたが、一本も当たらなかった。

「行くぞ。続け」

 馬が巨大なやまあらしと見間違えるほどに矢の降ったその跡を、全力で駆けた。

 駆けるほどに、泥が濃くなる。丘の上から遠望していたとき、天気がにわかに変わるであろうこと、そして雨となったときにどこに水が溜まりやすいのかを、見て取っていた。先に戦車隊を出したのは、雨が強くなり、最も低い地形のところにぬかるみが出来るときに敵の戦車隊を出したかったから。敵は知らずにその場所に至り、車輪が取られて動けなくなったのだ。

 こちらが突撃の構えを見せているのに応じ、左右に分かれた敵歩兵が、閉じるようにして押し包もうと動く。数では聞仲の軍の方が圧倒的に少ないから、敵は一気に勝敗を決しようとしてくる。


「今だ。退け」

 突撃すると見せかけ、退く。そうすることで、聞仲の軍は泥濘の深いところに足を踏み入れることなく済んだ。押し包もうと動いていた斉軍はそのことに気付かず、次々と泥に足を奪われ、転んで折り重なった。

「三の矢」

 さらに叫び、槍を掲げる。また矢の雨が降り、自由を奪われた敵歩兵を見る間に削ってゆく。


 丘の上では、郭戴も聞韋も叫び声を上げてそれを見守った。これが、聞仲の戦。全てが、手のうちである。神のお告げだとか占卜だとか、そのようなもの、必要ない。天地の間に聞仲その人があれば、すなわち勝つのだ。

 泥濘の薄いところをかき分け、一人が聞仲のところを目指してゆくのが分かる。降り注ぐ矢の雨を巧みに槍で弾きつつ、数本を体に突き立てながらも聞仲のところに至った。


 あれが、斉軍の指揮官であろう。

 聞仲はまた槍を掲げる。そうすると、矢がぴたりと止んだ。なにか、言葉を交わしているらしい。当然、丘の上からでは分からない。

 しかし、聞仲は低く槍を構え、敵指揮官らしき人物も同じようにした。


 泥が飛ぶのが見えた。次の瞬間には、兜を被った指揮官の首が胴から離れ、泥にまみれて転がった。

 静寂。雨の音だけが、天地が息をしていることを伝えている。

 しばし後、大歓声。勝利である。それも、完全な。

 商大師聞仲。老いてなお鋭し。

 見たか、と聞仲が叫ぶのが、丘の上まで聞こえた。それを、郭戴も聞韋も、丘の上にある者はすべて雷鳴かと思った。

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