戦場でなければ
剣。人の子がこの巨大な金属の塊を振るうには、あまりにも速い。しかし、盂炎のその目で捉えることができなくとも、彼の身体が先に反応していた。
楊戩が、先に繰り出した。その斬撃を半身でかわし、隙を突いてくる哪吒の槍を、みじかく持った我が槍に絡める。
「楊戩どの!」
哪吒の甲高い声。二人には、こういう呼吸がある。たぶん、お互いがどう動くのか、自分のことのように分かるのだ。その声の切れぬうちに、剣を振り切った姿勢の楊戩の踏み足がぱっと下がる。
二の剣が来る。槍を絡め、そのまま弾く動作を続ければ、腰車を割られる。考えず、そう思った。
同時に、自らの槍を翻す。穂先とは別に、柄から直角に伸びるように取り付けられた刃には、哪吒の三叉の槍の刃が絡みついている。人はこれを火尖槍などと呼んで恐れているらしいが、当たり幅を広げ、突いても薙いでも傷を複雑にすることのできるこの三叉槍は、こうして絡めやすいという欠点がある。
そのまま、地に穂先を突き立てると、火尖槍は土に縫い付けられたように動かなくなった。
火尖槍の刃の腹を足で踏みつけながら、腰に手をやる。楊戩は、二の剣をまさに放つところである。
盂炎は手をかけた剣をぱっと抜き、それで背を守るようにして斜めに受けて流し、体を半分回して勢いを崩す。
勝機。大振りの一撃を凌がれて体勢を崩した楊戩の首筋を狙い、剣を。崩れたまま、いのちを守る動作を咄嗟に楊戩が取ったため、鎧の肩口のところに当たった。腕振りだったから、鈍い音とともにそれは弾かれた。
左半身にある、哪吒。いまだ、火尖槍を引き抜こうと、力をこめている。
ほんとうの戦いを、自分の方が多く知っている。
そう意識の外で思ったとき、盂炎の口許は緩んでいた。
刃を踏みつけている足をそのままに、ぱっと軸脚を跳ね上げる。小枝を駆け上がる栗鼠のような動きで、もう一歩。斜めになった火尖槍の柄の上に立つ格好で、剣を横薙ぎに振るう。
あっと声を上げ、哪吒が崩れた。仕留められなかった、と舌打ちをしながら、盂炎はさらに春の鳥のように身を躍らせ、楊戩に二の剣をくれる。
戦場にあって、複数人を一人で相手取ることなど、よくあることである。槍や矛など大振りな武器があればよいが、こういう相手ならばそれがかえって邪魔になる。剣で、懐に入ってしまう方がよいことも多いのだ。
戦場での経験の数が違う。哪吒は小童にしか見えないし、楊戩も哪吒よりいくらか年長けているとはいえ、盂炎から見れば十分に若い。
仕留め切れないかもしれない、ということを盂炎の無意識は、すでに知っている。あまりに、強い。深入りすれば、自分が死ぬ。
だから、そのすれすれで戦う。そうすることで、決して越えられぬその一歩を、越えることができる。その向こうにあるのは死ではなく、むしろ生。これまでの経験が、そう伝えている。
楊戩の血が飛ぶ。二の剣が兜に当たり、それを飛ばし、振り切りざまの刃が額に至った。
浅い。しかし、この二人の若き達人に、傷を負わせている。
死ななければ、傷など無いのと同じこと。頭部への衝撃により、より大きくよろめいている楊戩に、そのままとどめを刺すべきである。
そう思い、鋭く踏み込んだ。今度は、いのちに届く。
楊戩と、目が合う。なにかを言いたげな目であったが、命を惜しむとかそういう感情は読み取れない。
「待ってくれ!」
哪吒の声で、なぜか、盂炎の剣が止まった。なぜ止めたのかと誰かに問われれば、答えることは難しいだろう。
「楊戩どのは、俺の兄も同じなんだ。だから、やるなら、先に俺をやれ」
「哪吒、よせ」
尻もちをついた格好の楊戩が、かすれた声を立てる。
「さあ、どうした、腰抜け。俺はまだ、ぴんぴんしているぜ。盂族の炎ともあろう人が、戦場にあって敵の将軍を元気なままにしておくのか」
馬鹿馬鹿しい挑発であるが、健気である。盂炎は楊戩に剣を向けるのをやめ、哪吒の方に歩んだ。
「
哪吒は火尖槍を拾おうともせず、遠くに眼をやってそう呟いた。その視線の先には、確か。
「——馬に、名を与えているのか」
盂炎の声も、掠れていた。思えば、いつから息をしていなかったのだろうというほど、久しぶりに息を吐いたようである。哪吒の視線の先にある、首を飛ばされた二頭の馬の骸のことを思い出すと、途端に頭が冷たくなった。
そうすると、視界に色と音が戻り、ゆったりとした流れのようになっていた天地が、もとの姿になった。
「当たり前さ。周じゃ、そうしている。毎日、世話をするんだ。いっしょに駆けない日はない。だから、名を与え、呼ぶんだ。あいつら、自分の名をちゃんと分かってるからな」
馬など、戦車を曳くためだけのもの。戦場で駆けすぎて脚が折れれば、殺して兵糧にする。それに名を与えて愛でる前例など、盂炎は知らない。だが、どうやら、目の前のこの小柄な若者は、心から二頭の死を悼んでいるようだった。
「俺のことは、殺しても構わない。俺は、死したあと、神(霊魂、と和訳すべきか)になってあいつらとまた駆ける。だが、やっぱり、楊戩どのは、殺さないでいてくれないか」
あり得ないことである。目の前に傷付いた敵将がいて、どうしてそれを見逃すことができるというのか。
「それほど、死が怖いか」
「べつに、怖くなんかないさ」
「いいや、お前は、怖れている。だから馬の死に心動かし、楊戩の死を避けるため我が身を贄にするのだ」
「ははぁ、なるほどなあ」
どうも、調子が合わない。今から死ぬというのに、この若者は、あたらしいことを知ったときの感嘆を漏らしている。
ここで殺す。それが、商の生きる道になる。これを逃せば、もうこういう機会はないかもしれない。
「お前と、戦場以外のところで会っていれば、どうだったか」
盂炎は、苦く笑った。
「さあな。酒でも、くれるって言うのか」
「悪くない」
だが、ここは戦場。盂炎は剣を、ゆっくりと水平に構えた。
「盂炎」
不意に背後から声。首だけで振り返ると、楊戩だった。まだ地に尻を預けたまま、呼びかけている。
「我らの、勝ちだ」
その目を見て、はっとした。死ではない。この光は、勝利を確信した者だけに宿るものだ。
「武では敗けた。しかし、我らの粘り勝ちだ」
首で、ふいと南を指す。まさか、と身体ごと向くと、遥か向こうに土煙が見えている。
「お前の好きな、戦車隊だ。俺たちはここで死ぬが、黄飛、天化の父子が率いるあれが、お前の戦車隊の背後を襲う」
そのとき、逃げている格好の姫発軍が急に反転すれば、盂炎軍は完全に挟み撃ちということになる。
「お前の負けだ、盂炎」
盂炎は、天がひび割れて落ちてくるのを感じた。その青ざめた顔に、楊戩の言葉がさらに突き刺さる。
「忘れたか。ここは、戦場なのだ」
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