遠ざかるもの
南から来るのは、紛れもなく戦車。聞き慣れた地響きと土埃で、疑うことなく確信した。
「黄父子が南へと発っていたこと、おそらく、お前たちも知っていることだろう」
たしかに、知っている。しかし、いくつかの豪族を征伐し、すぐに豊邑に戻った。そのまま、後詰めのような形で留まっている。それが、盂炎が黄父子について知っている情報である。
「彼らの名は、南の者どもにもよく効くらしい」
楊戩が、したりと笑みを浮かべる。盂炎は、まさか南の豪族征伐というのは偽装で、その実、彼らを懐柔して回るのが目的だったのかと即座に思った。
「奪うばかりの商を捨て、周に流れた歴戦の武人。南の連中は、あの父子をそのように見ているらしい」
反面、周は、彼らに定着すべき場を、言い換えれば中華を与えた。我らに続け。さすれば、かならず中華の人として耕す土を与えるだろう。そう触れ回れば、ずっと商びいきだった南の広大な長江流域の豪族どもは、靡くかもしれない。
見誤っていた。
これまでの価値観では、そもそも土地という概念が薄い。したがって国にも領土というものがない。だから、商にあるどの学者も軍人も、豪族に彼らが耕す土を与えるということの意味と価値を理解していなかった。
これまでのとおりの、商には王があり、それが神の子孫だから当然に偉大だという単純な価値観に何の意味もないということを、今、歴史において周が示そうとしている。
盂炎が渦中にいながらにしてそこまでのことを考えられるはずもないが、しかし、間違いなく、見誤った、と彼は思った。
さらに、想像を絶することを楊戩は重ねる。
「南には、木が多いそうだ」
大量の資材。黄父子が南の豪族を手懐けて回り、この戦場に至ったのであれば、彼らが利用してきた豊富な森林資源をも活用することができるということになる。
「まさか——」
そこまで言って、盂炎の顔が蒼ざめる。
「陣を張り、長く留まることに備えるため、土を耕していたのではなく」
楊戩が、また笑みを浮かべた。そのとおり、ということであろう。前回、周が申を攻めたときは、屯田という画期的な行為を見せた。その場で食糧を得られれば、兵站はこれまでと比べることができないほどに楽になる。なにしろ、これまでの歴史では、戦場における食い物は持参するか、敵地で奪うか、本国から運ぶしかなかったのだ。しかし、屯田をすれば、時間はかかっても輸送というものが必要でなくなる。だから、これまでよりも遥かに遠く、長く攻められるようになる。
土とは、拓くのに膨大な労力を要する。しかし、拓いてしまえば、次またおなじ場を戦場にするとき、いくら楽になる。
盂炎はこの時代をまさに生きているから、兵站の中継地点という概念を知らない。しかし、屯田とは、そういうものをもたらすのだという想像に至るだけの思考の深さを持っている。
その思考の先には、戦場が増えれば増えるほど周は戦いやすくなり、そうするうち、この中華のいたるところが周になるのではという戦慄であった。
しかし、盂炎が深く考えれば考えるほど、たとえばぬかるみに足を取られるように、思考はそこへと沈んでゆく。だから、彼は今回、周が屯田をしているのではなく、そう見せかけて実は南から運んできた資材でもって戦車を組み立てていたことを想像することができなかった。
かつて、これほどまでに広く、遠い戦場があったか。戦場とは、軍同士がぶつかるのに都合のよい原野などのことをただ指すだけの語ではなかったのか。
戦場というものは、武器を持った人間同士が殺し合いをするその一点ではなく、実はもっと多面的な、奥行きのあるものだった。それを、知った。
では、国とは、国とは、城壁で囲われたその内側を指すもの。しかし、周は、周という目に見えない城壁で、この中華全てを囲おうとしているのではないか。
自分は、いったい、何を相手取って戦っているのか。そういう衝撃が、彼の足をなおこの戦場に縛っている。
遁げなければならない。あの戦車隊がこちらに到達すれば、跡形もなく踏み殺される。
しかし、遁げてどうする。
合従連衡というのは、商を攻め滅ぼすのではなく、周を広げるための策。そうだとしたら、今、自分がここで逃げ、他日を期したとして、どうなる。
いや、しかし、どうするかを考えるだけの時は稼げる。
遁げよう。そう心を決めたときには、傷を負いながらも不敵な笑みを浮かべる楊戩と、傷など全く気にせずあたりをきょろきょろ見回すだけの哪吒の背後に、戦車隊が至っていた。
死は、なぜか訪れない。戦車隊がなぜ停止したのかも、理解できない。この戦車隊は自分を踏み殺したあと、すぐに姫発を追っている本隊の背後を突くのではないのか。
「楊戩」
一台の上から、声。軍装は、指揮官のもの。朝歌において盂炎も姿を見、言葉を交わしたことも一再ではない、天化である。
「呂尚どのからの言伝だ」
楊戩が少し振り返り、聴く姿勢を見せる。
「盂炎は、殺すな。あえて捨て置け。お前たちは我らの戦車にともに乗り、追撃に加われ」
「呂尚どのが?」
「ああ。呂尚どのは今、豊邑ではなく、
彭山とは、これより南西に向かって目と鼻の先の、原野に碗をひとつ伏せたような形をしている小高い山のことである。これまで、呂尚が豊邑を出て戦闘の指揮を執ることなど、決してなかった。それが、これほどまで近くに出ている。それだけ、この戦いにおいては実際の戦況と時差の少ない命令をする必要があると考えているということだ。
豊邑にも、数多く間者が入っている。聞仲が密かに用いることにしたと最近打ち明けてきた、蚩尤もいるという。しかし、黄父子や呂尚が出戦しているという情報は、盂炎のもとには全くもたらされなかった。
商のためと思って情報の網の仕事を懸命にこなしてきたが、それもまた周には及ばぬということか。やはり、自分は戦場にあってはじめて生きる。
だが、今、まさに敗れようとしている。呂尚からは、どうも自分を殺す必要はないという命令が下っているらしい。だが、そうでなければ死んでいた。敗れようとしているのではなく、敗れたのだ。
「申に、戻るがいい。盂炎どの」
聞き慣れた、錆び錆びとした声。黄飛である。朝歌では幾度となく言葉を交わした仲である。それが、哀しげな目をこちらに向けている。
「聞いたとおりだ。我らは、西に向かい、貴殿の軍を撃つ。しかし、盂炎どのとは旧知の仲。ここで、命を取ることはせぬ。申に、戻られよ。兵がまだ残っているならそれを集めて再び槍を取るもよし。落ちてどこかで永らえるもよし」
盂炎は、答えない。ただ魂を抜かれたように立ち尽くしている。
「また
黄飛は、かつて朝歌で顔を合わせていたときと同じような調子で言い、戦車隊に進発を命じた。
楊戩と哪吒を収容した戦車隊が、ゆっくりと旋回する。そして、遠ざかってゆく。敵軍とともに、別の何かも。名前のない何かもまた、同じように遠ざかってゆく。そういう風に感じた。
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