哪吒、謀を見る

哀れな骸

 盂炎、敗れる。その報せは、この時代にしては考えられないほどの速さで中華を駆け巡った。

 この戦いで、盂族の男のうち五人に一人が死んだ。歩兵などは黄父子の戦車隊の蹂躙に任せるままに任せて散り、そののち背を襲われた戦車隊は、にわかに反転を見せた姫発率いる騎馬隊と挟まれるような格好になり、高く上がった陽が傾きはじめるよりも前に運動を停止した。



「懐かしいなあ。兄哥の肉小屋の傍らの木立も、そのままじゃねえか」

 哪吒は、久々の申の城内の景色に歓声を上げている。盂炎は残った盂族を連れて朝歌に向けて発ったから、空城に周軍が入ったことになる。

 呂尚からは、盂炎の妻子などには決して手を出さず、丁重に保護しろと全軍に命令が出ている。姫昌亡き今、総帥は姫発でも軍事の全権は完全に呂尚のものになっているから、最も重い命令ということになる。

「盂炎の妻子どもも、どうせさっさと逃げちまってるんだろう」

 盂炎の居館の門は閉ざされたまま中に人気もなく、宮にもその姿はない。だから、盂炎を追ってすでに逃げ延びたものとし、捜索を打ち切ろうと提案している。

「哪吒どの。しかし、分かりませんよ」

 申公豹である。珍しく姿を見せ、李靖とその率いる黄尾の者とともに、捜索に参加することになっている。陰のことを知り尽くしている者どもだから、人探しには適任というわけであろう。彼らの参加によって、もし軍が申になだれ込んで来てそれを蹂躙するかもしれぬと恐れて隠れていたとしても、見つけ出すのが容易になる。


「哪吒どの。盂炎の屋敷の中は、もう?」

「いいや、見るまでもねえ。門は閉まったまま、ゆうべも灯がなかったし、物音ひとつ立ちゃしねえ。鼠一匹も残らずに逃げたのさ」

「いちおう、見てみてはどうです」

「まあ、べつに構わねえけどよ」

 申公豹が身軽に塀を越え、門の向こうへと消える。それを、李靖がじっと見ている。


「楊戩どのにとっちゃ、かつて自分を追いかけ回していた憎い役人どもの巣ってわけだな、このあたりは」

 黄父子の戦車隊とともに城外に滞陣している楊戩についての雑談を持ち出す哪吒に、李靖はあいまいに答えるのみであった。

 そうするうち、門が内側から開いた。隙間から、暗い陰を帯びた申公豹の顔が見える。

「お二人とも、中に」

 声の調子からただごとではないと判断し、二人が申公豹のあとに続く。


「これは——」

 奥の間に踏み入れた足を止め、李靖が絶句する。

 盂炎の妻だろう、着ているものの質からそうと分かる。

 犯されたらしい。やわらかく肌を守るはずの衣が全てめちゃくちゃに乱れ、白い脚から秘所までもが露わになった状態ではらわたをこぼして死んでいる。

「——おそらく、蚩尤の仕業でしょう」

 申公豹が呟くように言う。

「今回の敗戦の、見せしめではないでしょうか。おそらく、朝歌にいる盂炎の長子も、このぶんでは」

 申公豹の言うことに耳を傾けながら、李靖が眉をひそめる。

「なんて奴らなんだ、商の連中は。蚩尤とかいう殺し屋まで使って、こんなにひどいことをするなんて」

 哪吒は憤りを隠そうともせず、床板を強く鳴らす。切り裂かれた腹のほか、陰部からも出血したまま放置されている盂炎の妻に向かって、可哀想に、可哀想に、と涙声で語りかけている。

「葬ってやろう。このままにはしておけない」

 李靖が手を叩いてしばらくすると、黄尾の者が二人、どこからともなく現れた。

「運べ。丁重に葬る。城外の楊戩どの、黄どのにも伝えてくれ。弔いの祀は、皆で」


「ところで、李靖どの」

 申公豹が、人差し指をぴんと立てる。

「弔いもよいですが、それより先に、このことをあちこちに伝えて回るのがよいのでは?」

「我らが勝ちに驕り、敵将の妻をないがしろにしたと誤解されないようにか」

「そうですなあ。早くしないと、商に先手を打たれてしまいますよ」

 たしかに、一理ある。それに、誤解を未然に防ぐ以外にも、期待できる効果もある。そう思っても、李靖は、申公豹の言うことに少しばかりの棘を向ける。

「申公豹どの。朝歌にいる盂炎の長子は、ほんとうに?」

 これが見せしめだとすれば、その可能性は高い。しかし、あえてそれを申公豹に訊いた。

「さあねえ。たぶんそうなのでは、と思うだけです」

「すでに、死んでいるのだな」

「だから、私にはなんとも——」

 申公豹は困ったように笑い、この惨劇の間をあとにした。


「李靖どの」

 弔いの祀は、日没後に行う。哪吒が、市の広場に向かう途中、ぽつりと李靖に声をかける。

「李靖どのは、申公豹が嫌いかい?」

「どうして、そう思う」

「好きな奴に、あんな話し方はしねえさ」

「好きとか嫌いとか、そういうものではない」

 申公豹の姿は、すでにない。いつものように、ふらりと姿を消してしまっている。李靖にはその行き先についていくつかの心当たりがあるが、あえてそれを話題にすることはない。

「妙な奴だ。若いのか、じじいなのかも分からねえ。前に歳を訊いたら、数え始めてから五つになります、なんて言って笑ってやがった。だけど、なんだか憎めない奴だ」

 と、哪吒は自己における申公豹の評価を素直に述べたが、李靖は苦い顔のまま曖昧に返事をするに留まった。

「それに、あいつを連れてきたのは、李靖どのじゎないか」

 屈託がないだけに、痛いところを突く。それでようやく、李靖が唇を湿す。

「周が商と渡り合うには、ふつうの方法では駄目だ。そう考えたのだ」

「そうだな。あいつは、普通じゃねえ」

「ああ、普通ではない」

 結局、何者なのか。何のために働いているのか。それを知る者は、どこにもいない。

 哪吒の言うとおり、普通ではない。各地の豪族の長や王のところを飛び回りつつ、商にもしばしば潜入しているふしがあるし、それでいて常に呂尚のそばにいるようでもある。つい先頃起きたという話題を素早く呂尚のところに持ち込むのは助かるが、間諜の網を成す者に申公豹の人体にんていを伝え、こういう者があらわれたら報せろとひそかに命じていても、いっこうに引っかからない。ゆえに、どういう経路でその情報をもたらすのかすらも分からない。


 黄飛の娘であり天化の妹でもある黄夫人。あれは、申公豹が自ら手にかけたものと見ている。もし、それが天下に知られれば、周の声望は地に落ちる。

 今度のこともそうだ。申公豹は、これが蚩尤の仕業で、商の差し金だと考えているようなことを言うが、ならば、まず彼自身がそうではないか。

 彼の言うとおり、朝歌にある盂炎の長子は、もはや生きてはいまい。李靖は、そう確信した。なぜなら、この戦いがちょうど終わったときに、どこからともなくふらりとあの浅黒い顔を見せたからだ。おそらく、戦いの最中、朝歌に入っていたのだろう。

 では、どうする。

 その思考の先に、言葉はまだない。それが言語となる日が来る方がよいのか、そうでないのか。それを、李靖は測っている。


 盂夫人の弔いは、周軍の手によって厳かに執り行われた。市の広場に祭壇を設け、民にも参加を許したところ、多くの者が集まった。それだけ、盂夫人は人に慕われていたのだろう。

 祭祀の中心は姫発で、盂夫人の神(霊魂)が祖先のいるところに安らかに至るべきことを祈った。周軍の将軍格以上の者は、しょうである呂尚も入城して全てその後ろに居並んで頭を垂れ、涙を浮かべながらそれを送った。


「周王さまは、たいそう慈悲深いお方でいらっしゃる」

 と、人々は口にした。遁走した主に代わって敵軍の妻をこのようにして厚く葬る例など、聞いたことがない。自然、申において、姫発以下、周軍について侵略者を見るものではない目が向けられるようになった。

 周王さま、と申の民が姫発のことを呼称するようになったのは、弔いの言葉の中に、こうあったからである。

「周王姫発、代わってう、この盂のおんな、安んじて神霊といっするか」

 火に照らされながら涙声で高らかに、天に向かってそう問う姿は、人々の心を打った。

 姫発は、人々に向け、盂夫人の死の惨さを涙ながらに説いた。このようなことをする商国を、決して許し置いてはならぬと。我らは、そのために戦い、ここに至ったのだと。申の人々はそれを聞き、誰もが同じ涙を流し、強い眼差しを周王に向けた。


 死者の弔いのときにも、贄を屠る。その作業は、呂尚がおこなった。かつての生業であっただけあり、鮮やかな手際であった。牛三頭が、瞬く間に肉と骨になった。その肉を、場にいる人々で分けた。一人の取り分などほんの僅かになるが、大将でも民でも同じ大きさの肉にして切り分けた。

「これで、城内の安全は確保されたな」

 その作業を全て終え、人が散って後始末も済ませたあと、呂尚は哪吒に向かって呟いた。かつて申にいた頃に使っていた小屋は今は別の者が住んでいるらしいから、その裏の小川の下流の広場で、火を焚いている。

「安全って、どういうことですか」

 哪吒は流れで清めた呂尚の手を拭うための布を差し出しながら、きょとんとした顔を向けた。

「我らは、人々にとっては、城の壁を破って押し入ってきた野蛮人だ。入城したものの民が武器を手に、夜闇に紛れて襲いかかってきたのでは、たまったものではないからな」

 呂尚は淡々と言う。

「申の人は、みな、優しい人だ。そんなこと、あるもんですかい」

「お前がそう思うのは、お前がここにいたとき、人に優しくしていたからだろう。しかし、もう、お前を知る者は少ない。人々からすれば、我らは、善政を敷いてきた盂炎を追い出した侵略者なのだ」

 たしかに、かつての哪吒を知る者は少ない。老いた母は豊邑にゆくときに連れて行っているし、船渡しの仲間なども何人かはすでに死んでいた。

「ましてや、おれなど。申の呂尚だ、と言っても、通じることなどあるまい」

「そんなもんですかねえ。なんだか、寂しいや」

「だから、彼らに、あらたに示す必要があるのだ。我らがどういう者で、なんのためにここにいるのかを」

 そしてその結果、周軍は申という重要すぎる拠点を手にすることができた。

「少し、時がかかるかもしれん。しかし、盂炎がいたときよりも、よい暮らしができる。そう人々が思ったとき、ほんとうの意味でこの邑を奪った意味があるというものだ」

「安全なんじゃ、なかったんですかい」

「民など、かんたんに背く。気に入らなければ武器を取り、立ち向かう。そういうものだ」

「まあ、そういう意味じゃ、俺たちだって、商が気にいらねえからぶん殴りに行こうってとこですからね。分かる気がします」

 哪吒が言うのに、呂尚は珍しく声を立てて笑った。

 串に刺して火にくべた肉片が、香ばしい匂いを立てはじめた。ふと、目をそこにやった。

 火が、小川に映って揺れている。この小川に、さまざまなものを流してきた。

 気に入らなければ背く。なるほど、あの頃の呂尚も、哪吒も、言ってしまえばそうである。

兄哥あにき。焼けたみたいですぜ」

 哪吒が串を手に取り、一本を呂尚に差し出す。


「おお、やはり、ここだ」

 不意に声がしたので、哪吒が呂尚を庇う位置で身構える。

「呂邦さん。呂邦さんだね」

 哪吒と呂尚は、顔を見合わせた。かつてここにいたとき、若き呂尚に対して、人々は邦(あんちゃん)、とあだ名したものだが、もう何年も、そのように呼ばれていない。

 声の調子からして、敵意はない。それを感じ取り、哪吒が身構えを解く。

「ああ、やっぱりそうだ。懐かしいなあ」

 火に浮かぶ呂尚のぼんやりとした顔を目にし、駆け寄ってきた三人の男が声を高くする。

「お前たちは——」

「そうです。俺は、むかし、あなたに畑の虫のことを訊ね、瓢虫を放てばよいと教わった者です」

「俺は、あんたに、土を深く掘るため、鍬の先に銅をくっつければいいと教わって、鍛治屋の李靖さんに安くでそれを造ってくれるよう、口利きまでしてもらいました」

「俺は、土を運ぶのに、桶をひとつ両手で持てばかえって重くなり、同じ桶を二つ竿に通し、肩で担ぐような道具を造れば半分の重さにしか感じなくなる、と教えてもらいました」

 覚えておいでですか、と揃う声に、呂尚ははじめ戸惑ったような様子を見せていたが、やがて目を細め、

「久しいな。ばい、それに

 と、声にした。

「俺たちの名まで、覚えておいでとは。周王さまのところに呂邦さんがいるっていうのは評判でした。あんなに立派に祭祀のを成し遂げられて。また一言でも言葉を交わしたいと思い、あちこち探し回ったんです。火が見えたから、きっとそうだと思って——」

 男たちは弾んだ声で、次々に言葉を発する。目を白黒させる呂尚に、哪吒がそっと耳打ちした。

「兄哥は、いつだって正しい。でも、こんどばかりは、読みが外れましたね」

 呂尚は、ただ困ったような笑みをこぼすしかなかった。

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