さらに東を

「ああ、あの筵編みのきつのところの子供が、あんなに大きくなったのか」

 だとか、

「あの桃の木は変わらず、見事な花を付けるんだろうな。むかしより、枝が繁っていやがる」

 などと、哪吒は申の全てが懐かしいらしく、街路を歩いては声を上げ、それを見てくすくすと笑う民に向かって手を振り、楊戩に武人のすることではない、と窘められたりしたが、今、彼の隣にいるのは無愛想きわまりない天化であるから、特に何も返ってくる言葉はない。

 かつて盂炎が執政していた宮が、周の外征軍の本拠になった。豊邑には最小限の人数しか残しておらず、その後方支援をするべき地方の豪族なども全て従えている。留守の間に豪族に裏切られたのではたまったものではないし、この状況で周よりも西の山を越えてやってくるような外敵もないのだ。

 遠くから仰ぐだけであった宮に、今から向かう。軍議なのだ。哪吒は、それが不思議で、くすぐったくもあり、嬉しくもあった。


「ところで、何の話なんだろうなあ。いよいよ東に向けて発ち、商の奴らをひねり潰すのかな」

 無邪気に訊ねる哪吒に向かって、天下が鼻を鳴らす。

「聞いていないのか」

「聞いていないって、何を」

「朝歌では、盂炎の長子が、敗戦の責のために殺された」

 その確報が入った。

 哪吒は、だからどうしたというのだという顔をしている。盂炎はもう戦場から姿を消しているし、朝歌に逃れたのだとしてもその長子が殺されたのであれば、こちらにとっては好都合ではないか。

「ふうん。それで、何を話し合うっていうんだ」

 それを、率直に言葉にする。哪吒とはそういう男だが、天化は苛立たしげに舌打ちをした。

「盂炎が窮鼠となり、雪辱のために再び打ちかかってくるかもしれんのだ」

「はぁん。なるほどね。それは、願ってもねえや」

 戦いで、負けた。傷はもう血を流さなくなっているが、下手をすれば死んでいた。天化の戦車隊の奇襲のために大勝であったが、個としての戦いにおいては、楊戩と二人がかりでも敵わぬどころか、二人とも命を奪われかけたのだ。

 だから、もう一度。雪辱のためではない。もう一度戦いたいと思わせる何かを、盂炎が持っていたのだ。

 なにか、子供が遊びを楽しむような。そういうところがあった。哪吒は、どうやら、盂炎に対して悪い感情はなく、むしろ親しみを感じているらしい。その対象と再び関係を持つには、またいずこかの戦場で武器を交えるしかない。だから、もう一度戦うことになるかもしれない旨を聞き、嬉しいような気持ちになった。

 天化には、そのような機微はわからないらしい。

ホウ

 と、みじかく声をかけると、いつも天化の周りを影のようにうろちょろしている栗鼠のような女がどこからともなく現れた。

「宮に、先行せよ。湯の手配、火の世話など、目を配れ」

 はい、と萌は元気に返事をし、

「呂尚どのやほかの大将様がたを狙う者がいないか、よく目を配るようにします」

 と言い、白い歯を見せた。やっぱり栗鼠みたいだ、と思い、哪吒は笑いを噛み殺す。

「差し出た奴だ。誰が、そんなことを言った」

「湯や火のことは、ほかの大将様、将軍様がたに付いている者が、抜かりなく済ませるでしょうに。そのうえで、わたしにお命じになるとすれば——」

「わかった、わかった。うるさい奴だ」

 天化は追い払うような仕草で、早く行け、と示した。

「では、哪吒さま。また後ほど」

 ひらりと小さく礼をし、小魚が鱗を光らせて翻るように消えた。

「やっぱり、変わった従者だなあ、天化どの」

「面倒な奴だ。あまりに面倒だから、連れて歩いてはやっているが」

「ははっ。素直じゃねえなあ、天化どのは」

「なんだと」

 天化の声が鋭くなっても哪吒は気にする素振りもなく、火尖槍を挟んだ腋をぼりぼりと掻き、笑う。

「天化どのは、自分の目よりもあの従者どのの目をより確かなものと思っている。そう見えるぜ」

「まさか。まだ、小娘だ」

「だが、あんたはあの従者を頼みにしている。宮に一人で入れるくらいだ。湯や火のことを、と言えば、あんたがほんとうに考えていることを察してくれると、期待してもいる」

「しかし、それをいちいち得意になって口にする従者があるか」

「ははっ、やっぱり。素直じゃねえんだから」

「もういい」

 哪吒にも従者はいるが、豊邑の哪吒の屋敷の周りを掃いて清めるか、調理をする以外にほとんど仕事がない。髪は伸びっぱなしのものを一つに束ね、髭の手入れもしないような男だから着るものはいつも同じだし、武具の手入れも自分でやる。だから、戦地において従者に命じることが何もなく、豊邑に置いてきた。しかし、天化の従者は違う。

「大事にしてやってくれ、天化どの」

「お前に言われることではない」

「分かるんだ、あいつの気持ちが」

 自分も、呂尚の従者のようなつもりでいる。従者が主人のために尽くすのに、理由はない。だから、戦う。戦える。呂尚が作る「国」というものは、人からたいせつなものを奪って悲しませたりするようなものではない。そう信じられる。

 でも、もし、呂尚が自分を必要としなかったら。自分を嫌い、遠ざけ、冷たくしたら。きっと、悲しくて恥ずかしくて生きていられないだろう。

 だから、どれだけ天化が意地を張ろうとも、哪吒から見た二人はいい主従だった。


 宮には姫発と呂尚のほか、すでに黄飛、楊戩がその従える複数の将軍とともにいた。もう、軍議をすぐにでも始めることができる。

 屋根を支える、ひときわ太い柱。その陰に、萌の姿があった。天化が到着したことを見て取ると、ひとつ大きく頷き、同時に外から吹き込んできた何かの花の香りのする風とともに消えた。蚩尤など、危険が潜んでいることはない、ということである。

「あんたの従者は、優秀さ」

 哪吒がからからと笑うのを、天化はあえて無視した。


 陽が中天に差し掛かるころ、軍議ははじまった。

「おれは、豊邑に戻る」

 と、着座するなり、呂尚がいきなり言った。一座は、当然どよめいた。

「どうしてですかい。せっかく盂炎のやつを追っ払って、ここまで来たんです」

 哪吒が声を裏返して呂尚の意図するところを訊いた。

「盂炎は去った。おれがここにいることもない。豊邑を捨てたわけではないのだ。今でも軍は残してはいるが、誰かが戻らなければなるまい」

 しかし、呂尚は自軍を持たない。その隙に蚩尤にでも狙われれば、どうするのか。その危惧を楊戩が述べると、呂尚は、

「天化。お前が供せよ」

 と端的に答えた。はっ、ととりあえず返事をしながら、天化はなぜ自分なのだろうと思った。

「黄飛、楊戩、哪吒のうち、いずれか一軍は引き続きこの申を拠点とし、残りは江邑こうゆうを目指せ。姫発どのはこれまでの編成に戻り、黄飛軍の部将とする。ほか、誰がどうするかは、任せる」

 江邑とは申よりもさらに東、渭水沿いの邑である。申ほど大きくはないが、しかし、もうはっきりと商の勢力圏であり、盂族の子飼いのような、きん族というのが治めている。戦いにおいてそれほど目立ったことはなく、盂炎などに比べれば明らかに粒は落ちるだろう。

 しかし、それでも拠点攻撃である。楊戩と哪吒は騎馬隊であり、黄飛は戦車隊を率いているから、進撃する軍と駐留する軍の割り振りによっては、戦いの展開が大きく変わることになる。

「それを、いかがされましょうか」

 黄飛が落ち着いた物言いでそう訊ねると、呂尚はひらひらと手を振り、

「任せる。誰が残り、誰が進撃をしようとも、同じことだ」

 と頼りないことを言った。

 要領を得ぬまま、とりあえず三者が話し合い、黄飛、哪吒が進撃を、楊戩が駐留をすることになった。なるほど、妥当な配置だろう、と呂尚も納得した。

「では、黄飛、哪吒」

「はっ」

「これより二十日で、江邑を陥とせ。工兵隊も輜重隊は、すべて連れてゆけ」

「——はっ」

 いかに申を中継点とした潤沢な食糧と攻城兵器があろうとも、わずか二十日で次の邑を陥とすというのはいささか無理があるのではないか。とは誰も言わない。呂尚が二十日と言えば、二十日なのだ。もはやその戦術眼は、神謀と呼ぶに相応しい。そう全員が思っており、その実現すなわち勝利であると確信している。

「皆殺しにする必要もない。軍に参じたいと申し出る者があれば、誰であっても応じろ。敵を減らし、味方を増やすのだ」

 なるほど、合理的な指示である。

「朝歌の東からは、斉などほかの国々の軍が攻め寄せている。しかし、北でも東でも、一点でも破られれば、この策は成らん。もしその報せを受けたら、すぐに何もかもを捨て、豊邑に戻って来い」

「はっ」

 おおむね、柱と梁は定まった。あとは細かな打ち合わせになったが、呂尚はそれには全く参加せず、手にした羽扇で、自分の周りを飛ぶちいさな羽虫を追い、なにごとかに思考を巡らせていた。


「じゃあ、またな、天化どの。兄哥を頼んだぜ」

 哪吒は、人懐っこい。朗らかに笑って手を振り、呂尚に随行して豊邑へと戻る天化を見送った。その兵の一人、ひときわ小柄な影がある。ああ、あの従者が兵のふりをして紛れているのか、と思うとおかしくなり、見送りながら吹き出した。


 進撃を開始する。

「いよいよ、朝歌を、商をぶっ潰しに行くんですね」

 と、出発を待つ軍のもとへ共に歩を進める黄飛と姫発に話しかけた。

「そうだ、哪吒。しかし、妙ではなかったか」

「妙って、なにがです」

「呂尚どのだ」

 黄飛が唸るのを、姫発が引き取る。

「たしかに。歯切れがよいのか悪いのか、分からぬような指示でした」

「そうかなあ。兄哥にとっては、誰かが江邑を目指し、誰かが駐留する。それでよくって、それより、天化どのが兄哥と一緒に豊邑に戻り、俺たちは参軍してくる奴を殺したり罰したりせず、受け入れてやるっていうことが大事なんじゃねえか」

 確かに、そうである。具体的に名を指されたのは天化のみであり、あとは任せる、ということだった。

「呂尚どのの意図は、どういうものだろう」

 姫発が才人らしく喉を詰まらせるのを、哪吒は笑い飛ばした。

「知らねえよ。だけど、兄哥のことだ。何も考えてねえなんてこと、あるわけねえさ」

 それは、確かにそうである。哪吒があまりにもあっけらかんとしているので黄飛と姫発は顔を見合わせて苦笑いをするしかないが、しかし、哪吒は、そうしながら胸の内で呂尚の言葉を何度も反芻している。


 うまく説明できるだけの言葉が彼にはない。しかし、何となく、呂尚が、どうなれば良いと考えているかは、分かる気がしていた。

 天化は、呂尚とともに豊邑へ。

 自分達は、東を目指す。参じてくる者は、すべて容れる。

 また、あたらしい何かが起きるのだろう。そうでなく、いずれかの戦線が崩れることがあれば、ただちに全てを捨てて豊邑まで退けばよいのだ。

「まあ、簡単な仕事になるさ」

 ようやく用いることができた言葉がそれだったから、哪吒は我ながら恥ずかしくなってしまい、思わず赤面した。

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