申は大きな邑だけあり、船には事欠かない。かつて、哪吒が渭水の船渡しをしていたことを知る者が、今はその元締めになっており、喜んで協力を申し出てくれた。

「盂さまはとてもいい方だったがな、俺も、親父を鹿台のせいで亡くしてる。だから、哪吒。お前が戦うのを応援することが、正しいことだと思う」

 と、その者は言った。船渡しをしていた頃は、元締めの息子であり貧しい哪吒などを見下したような態度を取っていたものだが、一回りも二回りも逞しくなった哪吒が堂々と協力を要請してきたのを見て、思うところがあったらしい。



 渭水を埋め尽くすのではないかと思えるほどの船が出た。船は、兵を運ぶ。それだけでなく、解体した戦車や兵糧までも運ぶ。戦車の構造について、組み立てや解体が簡単なようなら強度に問題が出るが、強度を保ちつつ移動のため解体、組み立てが迅速にできる工法を商の聞仲が編み出し、それを黄飛が周に持ち込んでいた。

 戦車を曳いて長く馬を駆けさせると、馬が疲れてしまう。だから、移動の際は馬は馬だけで移動させ、戦車は輜重に積載して戦場において組み立てるという発想であり、呂尚は手を叩いて喜び、それを採用した。

 周軍においては、馬を船に載せることはない。騎馬隊が騎乗したまま、船の列に従うように東を目指している。馬は、長く駆けなかったら駆けなかったで、いざ戦場において思うように走らなくなるものなのだ。そういう、馬についての知識の蓄積も、このところ深く見られる。


「おら、急げ。おら、急げ。江邑にまで俺たちを運びさえすれば、お前たちの親や妻は死ぬまで食うに困らねえ。親が大事なら、もう一漕ぎ。子が可愛いなら、さらにもう一漕ぎ。かかあが怖いなら、おまけで二漕ぎだ」

 哪吒は先頭をゆく大将旗を掲げた船の舳先に立ち、囃すように櫓手を鼓舞した。櫓手たちは哪吒の囃子がおかしくて声をあげて笑いながら、よく知った渭水の波を切った。


 江邑へは流れを下るわけだから、二日もせぬうちに手頃な岸に到着した。上陸して十里(一里はおよそ四百メートル弱)ほどで、城壁である。

「それは、まことか」

 上陸と同時に、黄飛が斥候を放っている。その報告を受けた黄飛が、眉を険しくした。哪吒がそれを見て、気軽に声をかける。

「どうしたんだい、黄飛どの」

「哪吒。まずいことになっている」

 黄飛の将軍に戻った姫発が、状況を説明する。


 江邑の前、二里。そこに、軍勢が集結しているという。どれも歩兵で戦車などはないというが、こちらの進撃がこれほどまでに素早かったとしてもそれを察知し、待ち受けることができたらしい。そうであるなら、歩兵だけというのは見せかけで、一息に揉み潰そうと責めかかった途端、思わぬ方向から攻撃を受けかねない。

「そんなの。俺が騎馬隊を連れて、でかい風穴を開けてやるぜ」

 姫発の懸念を哪吒が一笑するが、その表情は柔らがない。

「それが、地形がよろしくない」

「地形だって?」

「江邑は、それほど大きな邑ではない。しかし、渭水側から攻めるためには、城門に続く道を挟むようにしてある丘からの脅威について考えなければならない」

「丘か、なるほど」

「あの丘が、まずい。軍勢が前一里にあるというのも、おそらく丘を使うつもりだからだろう。我らにあえて攻めさせ、壊走して城門を目指すふりをし、狭隘きょうあいな地形に誘い込む。勢いづいた我らがそこにかかった途端、両側の丘から石やら矢を浴びせる。そういう腹づもりだろう」

 姫発には、軍略の才がある。時が経つにつれ、誰もがそう認めている。呂尚なども、実際の戦場のことは、おれなどがいちいちあれこれ遠くから口を挟むより、姫発どの一人を置いておいた方がいくらでもいいと言い切るほどである。

 だが、その軍略家にも、分からぬことがある。それを、哪吒は口にする。

「そりゃあ、怖いな。だけど、心配ねえ」

 からからと笑う哪吒に、姫発が訝しい顔を向ける。

「どういうことだ」

「姫発どの。軍勢ってのは、いったいどれくらいなんだい」

「およそ、五百」

 哪吒の笑い声が、いっそう高くなる。

「だろうと思ったぜ。急ごしらえで、たいした人数が揃えられないか、あんたの言うとおり負けと見せかけて逃げるつもりだから、はじめから数なんていらねえか。そのどちらかだ」

「まあ、そうだろう」

「どちらにしろ、逃がしゃしねえよ」

 哪吒が脇に立て掛けていた火尖槍に、手をやる。それを握って立ち上がり一振りすると、ほんとうの猛火が巻き起こすような烈風が立った。

「一発で決めてやる。五百の敵を、一人残らず。俺が、全て打ち砕いてやるさ」

 姫発が、固唾を飲んだ。猛将という言葉はこの時代には無かったろうが、まさにそう呼ぶに相応しい哪吒なら、やる。敵がどれほどの策を敷き、待ち構えていても、それが成る前に一撃で打ち砕いてしまえば勝ちである。そう思いながら、

「しかし、哪吒。ほんとうに、一撃で破れるのか。奴らがはじめから遁げるつもりで布陣しているなら、それを砕くのは容易くはない」

 と念を押す。それについて哪吒は悪さを誇る子供がするように口の端を不敵に持ち上げ、

「侮ってもらっちゃ、困るぜ」

 とのみ言い、槍を手に自軍の方へ戻っていった。

 そのすぐ後には、騎乗、進発を命ずる哪吒の野太い声が船着にまで響いていた。



 風が、心地よい。遮るものが少ないから、川辺は特に。哪吒は昔から、川の風が好きだった。馬に乗るのが好きになったのは、その風が全て自分のところに集まってくるように思えるからだ。

 馬は、とても賢い。右、と思えば右に、左、と思えば左に旋回してくれる。腿に力を入れる具合で、自分で考えて意思を汲んでくれる。

 この速さ。この間、盂炎との戦いのときに死んだ馬ほどではないが、それでも、人の足ではあり得ないほど速く、駆けている。

 あの馬は、可哀想だった。はじめて出会ったときは、仔馬だった。なぜか、目が合った。馬の方から近付いてきて、手を差し出してやると、自分の首筋を掻け、と擦り寄ってきた。

 それ以来、ほとんど毎日一緒に過ごした。名前も与えた。名を思い出すと悲しくなるから、今はしない。

 自分は、あの馬に乗ることができて、幸せだった。だが、あの馬は、自分を乗せたがために、死んだ。死んだとしても幸福だ、と感じていたかどうかは、分からない。できるのは、きっとそうだと信じるか、そうではなかったはずだと悔いるかのどちらかだ。

 今跨っているこの馬は、前の馬ほどは精密に哪吒の意思を汲まない。それでも、ただ戦うだけなら、問題はない。この戦いに勝てば、自分もこの馬も、また少しいのちが続くのだ。それをずっと続ける限り、時はいくらでもあると見ることもできる。


 長く親しんだ馬でなくともそれなりに駆けるのは、西羌さいきょうという騎馬をする少数の豪族が周よりさらに西の山にいて、それ豊邑の牧に呼んで馬の世話をさせ、躾を施したからである。哪吒は、彼らのすることが面白く、調練以外の時間はほとんど牧に足を向けていた。

 躾と言っても、何も難しいことはしない。ただ、人間と接するように話しかけ、世話をし、跨って声をかけながら走る。

 哪大将も、そうしてみるといい、馬は頭がいいから、きっと心を開いてくれる。そう、西羌の男の一人に言われたから、そのようにした。

 それ以来、馬を操ることについて困ったことはない。


「まだだ。まだ、焦らなくていい」

 跨る馬に、そう声をかける。分かった、とばかりに、馬は駆けながら首をひとつ振った。

「見えるか。遠くだ。あれを、打ち砕く」

 率いる騎馬隊は、五十騎。増えたり減ったりしている。だが、戦意のない五百を打ち砕くには、十分すぎる。

「どんな策を敷いていやがるか知らねえがな。そいつを力で打ち砕くのが、俺の策さ」

 馬には、その言葉の意味は分からないかもしれない。ただ、駆ける脚をわずかに速めた。気の強い馬である。


 左右に、少し視界を回す。誰も遅れず、ついて来ている。

 敵が、こちらに気付いた。大声でなにかを叫び、体勢を整えようとしている。

「今さら、遅ぇ。この哪吒様こそ、中華一の槍だ」

 なあ、そうだろう。

 そう叫んでいた。

 馬が、襲歩になる。見る間に敵が近く。

 槍。握る手を、少し緩める。はじめから固く握ったのでは、敵に当たったときに鎧や骨で弾かれてしまう。

 やわらかく。鳥の雛を包むように。それが敵に至るそのとき。

 握る。

 三人が、声にならない叫びを立てて吹き飛んだ。さらに右の二人を斬り払い、旋回させて左。馬の激しい息に合わせるように、槍の唸りが轟く。

 敵の顔にあるのは、どれも恐怖。

 騎馬隊の他の者も、この脆弱な陣に突き入っている。

 いける。

 自分が、錐の先端。わずかな穴を、突き通す。あとの者がそれを広げてくれる。


 将は、先頭にはいなかった。

 だとしたら、最後尾か。

 待ち伏せなど、無意味。

 自分が向こう側に突き抜けたとき、大将の首は胴から離れ、軍は四散しているのだ。

 見えた。人の群れの向こうに、将。

 槍を構え直し、将だけを目指して突っ込む。

 まさに槍を繰り出そうとしたその瞬間、手綱を強く引く。

 驚いた馬が棹立ちになり、高く嘶く。


 将の前で、停止。

 そのまま、ゆっくりと馬を降りた。

「——なぜ、馬を降りる」

「また首を飛ばされちゃ、こいつが可哀想だ」

 どうして自分が笑っているのか、分からない。しかし、目の前の相手も、同じ顔をしていた。

 盂炎。逃げ伸びたはずが、なぜここに。

「お前たちがここに来るだろうと思い、待っていた」

 哪吒の心中を見透かしたようなことを言った。

「ほう。こんな、屁みたいな軍で、どうするつもりだったんだ」

 哪吒は下馬したが、ほかの騎馬隊の者は、もう陣を突き抜けている。反転の運動を見せたので、哪吒は槍を高く掲げた。停止の合図である。

「見てみろ。もう、わずかな奴しか残っちゃいねえぜ」

「みな、盂族の戦士だ」

「そうかい」

 盂炎が、手にした槍を、低く構える。


「——ここで死ぬつもりなんだな、盂炎」

「さあな」

 火尖槍の刃が、少し上がる。

 そのまま、動かない。盂炎も、言葉を発するのをやめた。

 騎馬隊も停止し、生き残っている盂族の者も、二人の将を見守っている。

 ただ、忘れ物でも取りに来たように、小鳥が一羽舞い降り、すぐ飛び立った。


 馬から降りると、風は止む。

 兜から、汗が流れた。

 左手遠くには、渭水。江邑に向かって、土地が高くなっているらしい。

 地に足を付けているはずなのに、この緩い坂を駆け上がるように、風。いきなり吹いた。

 それに乗り、飛ぶように地を蹴った。

 盂炎も応じ、腰を低くする。


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