怒りの生

 はじめの一合は、たがいに何もない空間を斬った。ちょうど体の位置が入れ替わったような形になり、ふたたび対峙。

 耳の中で、音がする。なんの音だろうと哪吒は思う。呂尚ならその正体を言い当てることができるかもしれないが、下らないことなので今まで訊いたことはない。

 その音は、明らかに昂っている。躍るように。

 反して身体は、静かである。申のあたりの渭水の流れのように、ただ静かである。戦いの場において、たまに、こういう感覚に陥る。そういうとき、自分の頭などはどこかに行ってしまって、ただ天があり、地があるだけの世界になる。

 そうなったとき、必ず勝つ。勝ったから、勝ったことを知る。そうでなかったのは、この前に盂炎と戦ったときが初めてである。

 盂炎も、この天地を見ているのか。あるいは、もっと深いところにいるのか。

 俺は、どうする。意識の外で、哪吒はそう問うた。

 俺は、深くじゃねえ。その先に行く。


 火尖槍。李靖が、門出のときに作ってくれた。あのときに作った武器は、誰も失わずに今も携えている。青銅は強い衝撃でかんたんに曲がったり欠けたり折れたりするから、信じられないことである。

 たとえ刃が欠けても、李靖の手にかかれば、あたらしい銅をもとの地金に馴染ませながら修復し、さらに鋭く仕上げてくれる。

 槍ではない。ほんとうの火なのだ。哪吒は、そう思っている。

 火が折れたり、欠けたりなどするはずはない。そして、火は、触れるもの全てを焼く。


 額の傷は、血を流してはいない。しかし、実はまだかなり痛む。人に笑われたくないから、痛くないふりをしているが、兜から垂れる汗が、さらにその痛みを強くする。もう少し、傷が深ければ。そうすれば、脳を割られていたかもしれない。

 あの馬は、きっと痛くはなかっただろう。それを感じる前に、首を刎ねられたからだ。だから、そのことだけは、少しでもよかったと思っている。

 自分の父はどうか。

 人とも思えぬ扱いを役人どもに受け、重い石を手の皮が破れてもなお運ばされ、動けなくなれば鞭で打たれたりしたのだろう。そして、飯もろくに与えられず、弱って死んだのだろう。

 きっと、その死は辛く、苦しいものだったに違いない。そのことを思うだけで、自分自身も火になってしまいそうである。

 目の前の、敵。

 敵とは、自分のいのちを脅かすもの。だから、盂炎にとっての自分も、敵なのだ。

 腋の隙間。腰。胸。喉。哪吒の見る静かな天地に、敵の、打つべき場所が浮かぶ。そのどれに対しても、哪吒の身体は動こうとはしない。

 腋の隙間に槍を入れれば敵は武器を取り落とし、戦えなくなる。放っておけば、そのうち血を失って死ぬ。腰なら、だいじな臓物をいくつも傷つけられるから、さらに早く死ぬ。そして胸、喉。

 しかし、どれも違う。

 この死を、苦しいものにしてはならない。


 眉間を貫くか、兜が邪魔なら首ごと飛ばす。哪吒の身体は、それを選びたがっている。

 盂炎にはそれが分かるのか、決してその部分に隙を見せようとはしない。

 そうする間、どれくらい風がやってきて、そして去ったのだろう。誰も、それを数えることはない。死に、似ている。

 晴れている。二人の身体は微動だにしないのに、草に落ちる濃い影だけは、風に遊んで揺れている。

 その風のせいだろうか。二人を見守る者のうちの誰かが、咳払いをした。どちらの軍の者なのかは、分からない。

 盂炎の槍の先が、ぴくりと動いた。同時に、哪吒がまた地を蹴る。


 こんどは、低く。枯れ草を伝う炎のように火尖槍が伸び、盂炎を襲う。盂炎はとっさに柄を下げて弾くが、弾かれた勢いでもって哪吒は身を捻りながら旋回し、跳ね上げるように刃を振るう。

 盂炎の兜が飛び、汗に血が混じる。浅い。盂炎は一撃を受けながらも引き戻した槍を繰り出し、哪吒の革を厚重ねにした胴鎧を串刺しにしようとする。

 しかし、その刃は哪吒の肉に至らず、革を裂きながら胴鎧を滑って外れた。


「兄哥がなめして重ね、李靖どのが銅板を仕込んでくれた鎧だ。お前なんかの槍で、貫けるかよ」

 盂炎は、気付いていた。刃が入ったとき、それがただの革ではないことに。革が、まず妙に柔らかい。それが刃を包むようにして勢いが殺され、さらに絶妙な丸みを持った銅板に流された。それほど厚い板でないはずなのに、これを作った者は見事な腕であると言わざるを得ない。


 周とは、なんなのか。昔から力のある国ではあったが、ある日突然、雷が野に落ちるようにしてあらわれたように思う。周公などと今では大層に呼ばれている姫族も、かつては盂族と同じく、商に戦いを挑んで破れた者である。それを赦し、取り立てているというのに、なぜまたこうして武器を向けるのか。

 いや、なんとなく、分かる。分かっている。しかし、それを分かってはならないのだというのが、商人としての盂炎の思考である。

 哪吒の槍も、鎧も、その率いる騎馬隊も。この天地がこれまでに持たなかったものを、周はもたらし、あらわしている。対する自分は、それを阻む者。古来、人は、つねに工夫を重ねてきた。それが農耕をもたらし製銅をもたらし、人は豊かになってきた。それはいつからか、国になっていた。

 国は、人の豊かさを作る。そして、守る。そう信じている。この天地に商王朝がある限り、それが国なのだと。


 では、己は。

 頭で考えているわけではない。ただ、意識の外で思念があそんでいるだけである。だから、哪吒の踏み込みにより、ぱちりとそれは途切れた。

 火花。盂炎の槍の刃が、少し欠けた。この前とは、一味違う。そう思い、盂炎は笑みをこぼした。

 さらに踏み込みが来る。柄を回し、避けようとする。

 しかし、哪吒の槍は、風に吹かれた炎のように揺れ、隙間をくぐってくる。身を捻って避けざるを得ない。

 待っていた、というように、赤い刃が翻る。

 首筋が、空いている。そこを、狙ってくる。


 槍。引き戻し、柄で受ける。

 喝、とまたかねが鳴り、盂炎の槍が真っ二つになる。

 哪吒。息をひとつ吸ったらしい。柄を断ち割った刃を引き、首を刎ねるつもりである。


 しかし、そうはならなかった。

「——やるじゃねえか。さすがは、盂族の長」

 咄嗟に、逆手で剣を抜いていた。それが、哪吒の刃を弾いていた。哪吒が不敵に笑うのを見て、盂炎は自分がそうしていたことを知った。

「だが、得意の槍は、真っ二つだ。さあ、どうする」

 盂炎は答えず、柄だけになった槍を捨て、剣を握り直した。

「ははん。なるほどな」

 哪吒は、戦場に似つかわしくない渇いた笑いを立て、火尖槍を地に突き立てた。

 そのまま、やたら厚みのある剣を抜き放ち、構えた。

「なぜ、槍を捨てる」

「俺の槍は、お前の剣を殺すからだ」

「それが、戦いだろう」

「そうだな。違いねえ」

 また、からからと笑う。すぐにそれは止み、静かな時間がまた戻ってきた。


 哪吒は、自分でもふしぎである。盂炎を討ち取る、またとない機会なのである。いちど、やられかけている。それも、楊戩と二人がかりでだ。その盂炎が槍を失ったのは、好機のはずである。

 ——兄哥が知ったら、怒るだろうか。

 気がかりは、それである。

 ——いや、きっと、おかしな奴だ、どうしてそうした、なぜだ、とあれこれ訊いてくるに違いねえ。

 呂尚とは、なぜ、どうして、で出来ている。だから、きっと、自分があえて槍を捨てた理由を、興味津々に訊いてくるに違いない。そう想像すると、おかしかった。


 なぜかは、どうでもいい。もし呂尚に問われたとしたら、きっとこう答えるだろう。

 ——戦いたいと思った。

 草が、やわらかい。硬い枝は簡単に折れ、折れればもう元には戻らない。しかし、それよりも柔らかく、弱いはずの草は、何度踏まれても折れることなく、しなやかに戻る。それはなぜなのかと呂尚に問うたことがある。呂尚は、ずっと考えたのち、

「この世の中のもの、たいていはそういうものだ。人に強くあればかえって折れる。水のように、草のように、風のように、力の向く方に向いてはじめて、それを制することができるのだ」

 と答えた。たぶん、頭の中で考えるうち、国だとか政だとかいうことについての話題に変換されてしまっているのだろうと思ったが、哪吒は呂尚のそういうところが好きである。だから、手を叩いて笑った。


 そんなことを、思い出している。

 足元の草。その一本一本の感触が分かる。

 土が、足を跳ね返すのも。

 跳ぶ。この厚重ねの剣で、商仕込みの薄っぺらな剣なんて、叩き折ってやる。

 背中の力。それを、両腕に。手の先に。

 地に着く。

 哪吒は斬り下ろし、盂炎は応じて斬り上げた格好である。

 そのまま、静止。二人とも、剣が半分になっている。


「お前の薄っぺらな剣で、俺の剣を斬るなんて」

「お前の剣は、厚い。きっと、重いのだろう。しかし、お前は、俺の剣を叩き斬ってやろうと意気込んだ。俺は、そうはならなかった。ただ振り下ろされてくるだけの剣なら、棒切れと変わらん」

 今思い出していたことと、おなじである。哪吒は驚き、目を丸くした。呂尚の言ったことは、国や政だけでなく、武にも通じていた。もしかすると、枝は折れ、草はただ靡くというのは、あらゆることに通ずる真理のようなものなのではないか。

 ——さすが、兄哥。

 そう思うと嬉しくなり、また笑った。

「ずいぶん、楽しそうだな」

 盂炎は、剣をも捨てた。哪吒も、おなじようにした。

 右拳。二人のそれが、いきなり、互いの兜を吹き飛ばす。

 咆哮。さきほどまで人の言葉を交わしていたのが嘘のように、獣となる。

 拳。拳、拳。血が飛び、歯が折れ、骨が砕けた。

「お前は、なぜ戦う」

 哪吒が、叫びながら拳を受け、自らもまた拳を繰り出す。

「俺が今までしてきたことは」

 盂炎も、なにか叫んでいる。

「そんなに腹が立つなら、なぜ気の済むようにしない」

 哪吒の拳が、盂炎の腹に入る。

「俺は、盂族の炎。商に盂ありと言われた、盂族の炎だ」

 盂炎の拳が哪吒の左頬に食い込み、哪吒はよろめいて後ずさる。

「へへっ。笑わせやがるぜ」

「なにが、おかしい」

「お前こそ、硬くなっていやがるぜ」

「抜かせ、小僧」

 勢いづいた盂炎が、鼻血を飛び散らせて殴りかかってくる。

「そういうとこだぜ、盂炎」

 拳をぬるりとすり抜け、哪吒の両腕が盂炎の腰に絡みつく。

「そんなに悲しいなら、死ぬために硬くなってねえで——」

 盂炎の突進の勢いは、哪吒の身体によって遮られた。しかし逃げ場のない力は、流れるべき方に向く。

 船を操るのに似ている、と哪吒は思った。流れに逆らうのではなく、活かすのだ。

 舳先の向きを変えるのと、同じ要領。盂炎の身体に潜り込むような格好から、上体をほんの少し跳ね上げる。そうすると、盂炎の身体は宙を舞い、背中から地に叩き付けられた。


「——なんだ、今のは」

 盂炎の胸が、はげしく上下している。起き上がることはできないらしい。

「ずいぶん、悲しいんだろう。お前のかかあのことも息子のことも、知っちまったんだな」

 答えはない。それが、答えである。

「分かるぜ。そりゃあ、死にたくもなるさ。俺なら、すぐにでも自分で首を刎ねてたさ」

「——俺は、それすらも、できなかった」

「どうしてだい」

 哪吒は、寝転がったままの盂炎のそばに、ちょこんと座り込んだ。そうすると、ほんとうに子供のようであった。

「俺が死ねば、盂族の者はどうなる」

「だからって、一族みんな引き連れて死ぬのかい」

「生きて追われ、恥を晒すくらいなら」

 また、哪吒が笑う。盂炎はさすがにむっとして、おい、と鋭い声を上げた。

「いや、すまん。悪い癖でな。みんなで死ぬ、なんて馬鹿げてると思ったんだ」

 たしかに、そうである。しかし、それ以外にはない。

「紂王さまは申の敗戦に、お怒りであった。その責のために我が妻は人がしうる限りもっとも苦しいであろう死に方をし、我が息子までも——」

「違うなあ。うまく言えねえけど、こう、違うんだよなあ」

「なにが、違う」

「兄哥やお前の言うとおりだ。なんでも、硬くなってちゃ、いけねえと見える」

「なにを言っている」

「生きりゃいいじゃねえか。皆で、生きりゃ」

 それができれば、簡単である。しかし、哪吒は盂炎のその抗議も認めない。

「だって、お前がこうして死んじまえば、お前は、お前のかかあや息子が惨ったらしく死んだことを、許すことになるんだぜ」

 盂炎が、上体だけをゆっくりと起こす。少し、体力が戻ったらしい。

「なにを許し、なにに怒るか。きっと、硬くなってちゃあ、それも見えなくなるのかもな。じぶんの怒りのためでもねえ。俺なら、たぶん、かかあや息子のために、いや、まだ生きている、どこかのだれかのかかあや息子や、爺さんや婆さんのために、許しちゃおけねえと思うところなんだ」

「——お前のような男は、はじめて見た」

「そうかい?俺は、こんなに小せえときから、渭水に映る俺を見てきたさ」


 盂炎が、立ち上がる。殺気も、敵意もない。

 じっと見守る盂族の兵の方に、向き直る。

「——皆、よく戦ってくれた。よくここまで、来てくれた」

 誰の目にも、涙があった。

「我ら盂族は、周軍に降伏する。誇りに死すためでなく——」

 怒りのために。誰かが、ぼそりと声にした。盂炎はその者と目を合わせ、にっこり笑って頷いた。

「許されざるものを許さぬ、怒りのため。そういう、生のため」



 盂炎、周に降る。

 はじめ、哪吒が唯一かつ最良の策として敷いた、一撃必殺の突撃のためではない。それ以外のきわめて珍しいかたちで、江邑のちかくに布陣する敵は、この世から消滅した。

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