夜明けの露

 江邑の城壁は、申に比べれば何ということもなかった。いや、戦いにすらならなかった。黄飛軍が横一面の陣形で展開し威圧をかけ、そのさらに前に、ちいさな軍勢が展開する。なんだなんだと、守備の兵がそれに注目したところ、先頭に立つ者がありったけの声で、

「聞け、江邑の者よ。我は盂族の炎。もはや、戦いは無用。我らは、これより周に参じ、ともに戦うことを決した」

 と叫んだ。城壁に出ていた一人——おそらく、これが長なのであろう——が応えて曰く、

「盂炎どの。あなたほどの者が、なぜ周などに降り、我らに刃を向けているのか」

 盂炎、さらに応える。

「許されざるものを、許さぬため」

「それは、何か」

「我が妻、我が息子の死だ」

 そこで盂炎は、申で周軍に押された責のために妻が犯されて惨殺され、朝歌の息子も切り刻まれて屠られたことを告げた。

「敗軍の責は、この盂炎ひとりの首でよい。我のみを生かし、我を知る人を殺すなど、おおよそ人のすることではない。我は、我のほか、己を知る人を由なくして奪われるような世のために槍を取ることを拒む」

 そして、考えよ。盂炎の声が、低く、それでいてどこまでも伸びて透るようなものになる。

「この我と、天下に聞こえた黄飛大将、哪吒大将と槍を交え、江邑が陥ちた後のことを。貴殿らの妻子も、かならず我が妻子と同じように、いわれなく惨い死を与えられることだろう」


 ふたつの恫喝が、同時に行われたことになる。ひとつは、敗戦があった場合の仕打ちについて。そして、盂炎、黄飛、哪吒の三軍に攻め立てられれば、その敗戦は紛れもなく確実になるのだというもの。

 盂炎は、この恫喝に説得力を持たせるには充分すぎるだけのものを商において培ってきた。

「——言うことは、分かった。盂炎どの。一晩だけ、時をくれ。我らもまた、一族で話し合わねばならんのだ」

「明朝、またここに来る。どうか、そのとき、槍ではなくこの手を交わし、まなじりは東に向ける。そういうふうであればよいと、心から思う」


 翌朝、陽光を真正面から受ける盂炎に、それを背負った一人の将が歩み寄り、あらたな盟を約した。

 江邑、開城。体制を整えたり降伏した江邑の兵を配分したりするうち、豊邑から使者がきて、哪吒と盂炎が城内の混乱を防ぐために駐屯し、黄飛が申に戻り交代して楊戩を寄越す旨を伝えた。


 そのとき、

「呂尚どのからです、父上」

 と豊邑にまで戻った呂尚の伝言を、天化がさらに黄飛に伝えに来た。軍勢を率いていたのでそれだけで黄飛は察し、兵に撤収を命じた。

「天化、お前はどうする。儂に代わって申に留まるのか」

 天化と交代するということは、黄飛が豊邑に戻るということである。その準備をひととおり終えてから、父の顔になった黄飛が天化に問う。

「いいえ。申には、父上の軍から姫発どのを再び切り離していただき、残っていただきます」

「では、お前は」

「東へ。槍の穂先のように突出した哪吒どのに合流します」

 なるほど、天化が哪吒のというわけである。楊戩でももちろんその役は務まるが、実質的にこの進撃において姫発と黄飛でその役を担っていたわけであるから、納得はできる。だが、それならば自分がそのまま東を目指してもよく、さらに姫発をここに留め置く理由はなんだと不思議に思った。

 だが、黄飛は武人である。周に参加する前から、武人とは、戦いを練る者——かつては、聞仲がそれであった——が敷いた策を成し、敵を討つためのものだと考えていたから、特に疑問について深掘りはせず、ただ従い、帰国の途についた。


 天化は天化で、黄飛に不満を漏らしている。

「私を豊邑に下げ、それをまた前線に繰り出し、呂尚どのは何を考えているのか」

 父親と違い、思ったことをはっきりと口にする。黄飛が、これ、と叱っても、なおその舌は尖る。

「糧食も、荷駄も、費えも、全てが無駄ではないですか。はじめから私が進撃を続けておれば、この往復の無駄はなかった」

「いや、呂尚どのには、考えがあるのだ」

「それが何なのか、父上はご存知なのですか」

「天化」

「なんです」

「では、お前が儂に代わって豊邑に戻り、呂尚どのに代わってこの戦いを統べるがよい」

「そのようなこと——」

「お前は、命じられたから従い、豊邑に戻った。そして命じられたから従い、ここにまた来た。そのうえで不平を口にするのは、武人のすることではない」

 天化は、不満そうな顔のまま、ようやく黙った。


 頻繁な編成替えは、商の探知を混乱させる目的があるのだろう。誰が、どのようにして攻めてくるかというが戦闘においてきわめて重要になるというのを、もはや周のみならず商も知るようになっているからだ。

「それだけではないはずだ」

 と、最前線の哪吒に合流してからもなお、天化はこのことを話題にした。

「呂尚どのは、俺が降ることをも、見通しておられたのだろう」

 盂炎が、夜営の火に目を落としながら言う。

「まあ、そうだろうか。たしかに、兄哥は、誰が降っても拒まず殺さず、受け入れろと言った」

 哪吒が大あくびをしながら言う。

「呂尚どのの名は、俺が申にあったとき、すでに高く聴こえてきた。なんでも、申の出だとか。街の民は、なにやら誇らしげに彼のことを語っていたものだ」

 重々しく頷き答える盂炎を、半分うんざりした目で見ながら、哪吒は首をひとつ鳴らし、天化に言う。

「あのなあ、天化どの」

「なんだ、哪吒」

「もう、眠ってもいいか。俺は、小難しい話は苦手なんだ」

「一軍の大将たる者が、聞いて呆れるわ。そのようなことで——」

「ははっ、いいね、天化どの」

「なにがだ」

 哪吒のあっけらかんとした笑いに、天化の気勢は一度削がれた。

「ちょっと見ない間に、あんたも武人らしくなったじゃねえか。いや、違うか。かつて姫昌どのの後ろに親っさんと控えていた頃のあんたに、戻ってるって方が正しいか」

「貴様。揶揄うと容赦せんぞ」

「何でもいいけどよ。あんたの胸のうちのことを打ち明けるのは、あの可憐な従者どのにこそしてやるべきだな」

 天化が、固まった。息を大きく吸い、しばらくしてようやく、

「萌は、関係なかろう」

 とのみ言った。

「ははっ、そうかな。だけど、あの従者どのにゃ、適任じゃねえかな」

「いい加減に——」

 哪吒の大きな笑い声が、天化を遮る。

「俺はよ、天化どの。難しいことなんて分からねえ。だけど、難しいことばかりを考える奴がなかなか見ねえものが見えるんだ。そうだろう、盂炎」

 盂炎が、苦笑いをする。

「お前さんがたは、とにかく物事を難しく考えたがる。早い話が——」

 天化と盂炎が、じっと哪吒の言葉を待つ。哪吒はまたからからと笑い、続けた。

「——素直じゃねえんだよ」

 これには天化も盂炎も顔を見合わせるしかなかった。


「——久しいな、天化よ」

「盂炎どのも、ご壮健のようで」

 前回の戦場で戦車隊の奇襲を見せたときには、こうして言葉をゆっくり交わす暇はなかった。商の出の二人、さらに更けた夜に薄酒を交わしている。

「この哪吒というのは、ふしぎな若者だ」

 盂炎が大いびきをかきながら眠る哪吒を顎で指し、感慨深げに言う。

「変わり者です。なにも考えていないようでいて、たまに驚くほど鋭いことを言う」

「ほう。黄の聞かん坊が、他人をそのように評するとはな」

「幼い頃に言われた陰口を、今持ち出すのはやめていただきたい」

「哪吒が、好きか」

「いいえ、嫌いですね」

 盂炎が大口を開けて笑う。

「黄の聞かん坊は、いまだ健在か」

 杯を干す。

「哪吒と刃を交え、よかった」

「どういう意味です」

「ついこの前まで、こうして再び笑えることがあるなどと、思っていなかった」

 天化が、剣の柄をひとつ撫でた。座しているときの癖である。

「あなたが笑うことを望む人が、もう死していないとしても、笑いますか」

「ああ、笑うともさ。妻も息子も、俺が笑うとつられて共に笑った。一族の皆も、こうして座を共にしながら笑うのが好きな奴ばかりだった。生きてなお従っている者も、皆そうだ。申の民も、俺が笑いかけると嬉しそうに手を振ってくれたものだ」

「それでもあなたの妻子は死に、多くの同胞も戦いに死んだ」

「天化。なにが言いたい」

「死とは、永久の停止。生きる者がどれほど死した者を偲ぼうと、彼らは二度と笑わない」

 盂炎の眼から酒が消え、じっと天化に注がれる。


「——生きている。しかし、笑えない。それは、辛い生だろうな、天化」

「分かったようなことを言うのは、やめていただきたい」

「いちど、己を失ったかのようになったと聞いている。そのお前は今、なんのために剣を手にし、なんのために戦う」

 天化は答えない。黙って、杯に眼を落としている。

「いや、違うな。お前は、誰のために己を殺している」

 焚かれた火が、閃いた。

 それは、天化の剣だった。盂炎の首元でぴたりと止まり、めらめらと燃えている。

「——いらぬことを、訊いたようだ」

 盂炎は眉だけ上げて笑い、手から杯をこぼした。地に着く前に、それは二つに斬り割れた。

「やはり、凄まじい腕だ。おそらく、黄飛どのをも凌ぐ技だな」

 天化が無言のまま剣を引くと、あたりはまたもとの夜に戻った。天化はその夜に、無言のまま溶けていった。


「——斬りますか、あの男を」

 一人になった闇から、声がした。

「萌か」

 天化の前の闇が、見慣れた形を持つ。

「斬りますか」

「見ていただろう。斬る気があれば、斬っていたさ」

「いえ、そうではなくて」

「どういうことだ」

 萌は質問の仕方を変えた。

「今から、斬ってきましょうか」

 天化は、しばらく黙った。そののち、平手で萌の頬を打った。

「お許しを。わたしのごとき者が、出過ぎたことを言いました」

「どいつも、こいつも。なぜ、俺をこんなにも苛立たせる」

「お許しください。お許しください」

 天化の脚が、萌の肩を押す。萌は仰向けに転がり、わんわん泣き出した。

「なぜ、分からぬ。どいつも、こいつも」

「申し訳ございません。どうか、お許しを」

「謝るな。余計に、腹が立つ」

「お許しいただくまで、謝ります」

 かっとなってしまった。それを、今さら恥じている。

 なにが、武人か。なにが、志か。なにが、生か。そう思うと、今すぐに自分で自分の首を刎ね飛ばしてやりたい気分であった。


「わたしは、わたしは——」

 萌が声を引き攣らせながら、なにか言っている。

「ずっと、天化さまのお心の中に澱んでいるものがあるのを知っています。それをどうにかして、和らげたいと。そのことをのみ考えております」

 仰向けのままの萌を、天化は棒立ちになって見下ろしている。

「己が、己がなんのためにあるのかと。そのことに迷い、ずっと不安でありました」

 しかし、知ったのです。そう言いながら萌は、ようやく止まった涙を拭い、起き上がった。

「わたしは、知ったのです」

「なにを知ったと言うのだ」

 天化が、困ったように問う。

「天化さまを。わたしは、天化さまを知ったのです。従者として生きるのではなく、天化さまのために生きるのだと。そう思うことができたことが、わたしの誇りなのです」

「俺のためになど——」

「いいえ。天化さまがどう仰ろうが、わたしにとって、天化さまが光なのです」

 光。その言葉が、天化にある情景を思い起こさせた。


 市の雑踏。珍しい品を見つけては嬉しそうに声を上げる、妲己。うんざりしながらそれに従う、己自身の姿。

 商にあるとき、毎日剣を振るった。なにかを、振り払うように。闇雲に、がむしゃらに。そのうち、その剣がなにかを探り当てはしないかと、期待するように。


「俺は、ただそれだけでよかったのだ」

 ぽつりと言った。萌が、はっとして眼を上げる。

「——天化さまには、お心に決めた人がおられます。何年経っても、何十年経っても、たとえ死を迎えたあとでも、ずっとその方のことを想っておいでです」

「死したのち、なにかを思うことはできん」

「いいえ、できます。天化さまがそのお方のことを想っていることを、そのお方は想い続けられます。それは、天化さまが生きてそのお方を想われるのと、まるで同じなのです」

 天化が、喉を鳴らした。なにか、得体の知れない味のものが、胃から上がってきたように感じたのだ。

「そのお方が死んでしまわれても」

「——その者が死んだら、どうなる」

 萌が、泣いたために腫れた瞼を笑ませた。

「わたしがおります。わたしが、そのことを想います」

 だから。萌の手が、ゆっくり天化の頬に伸びる。


「だから、泣かないで」


 天化は、崩れ落ちた。野の猪のような声を上げ、地を叩いた。

「泣かないで、だいじょうぶだから」

 子供のように丸く、小さくなった背を慰めている。

「あのとき、ずっと固く封じておられた剣を、ふたたび抜かれた。その刹那、わたしも、あなたの光になりたいと願い、そうなると誓いました」

 いくつもの星が、二人を見下ろしている。だから、互いの姿が見えるのだ。ほんとうの闇の中で、人のかたちなど目に止められるはずがない。

 光は、たしかにここにある。いくつも天に浮かんで、どれほど泣こうが喚こうが、そのようなことに全く関わりのない色で二人を見下ろしている。それを否定することは、たとえ王であっても天の皇であっても、できはしない。


 光に包まれながら、萌はこのときはじめて女の扱いを受けた。なにが起きたのか理解した頃には、そのことが終わっていた。

「——ひどいことをして、済まなかった」

 着衣を直しながら、天化が背中で言う。

「今のこと?いいえ、わたしは、嬉しく思います」

「ちがう」

 え?という顔を、背に向けた。天化は少しだけ振り返り、

「お前に辛く当たり、乱暴をしたことだ。ただ、お前に人のいのちを奪うような真似を、させたくなかっただけなのだ」

 まるで、子供が悪戯を白状するようではないか。そう思えてきて、萌は笑いを堪えきれず吹き出した。


 草の上で眠る剣の鞘に、草に宿るのとおなじ露がついている。

 夜明けが近いらしい。

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