聞仲、城砦となる

聞仲、思を考ずる

 さて、朝歌のことであるが、いよいよ忙しい。

 どこそこの兵が何百参じてきたと報せがあったと思ったら、どこそこの豪族が丸ごと叛いたという報せが入り、何をどうしたらよいのかと役人どもは鹿台を駆け回るばかりである。


 彼らがまとまっていられるのは、ひとえに大師という重大な役職にあって軍治ともに総べている聞仲が落ち着き払って事に当たっているからである。この日も聞仲は、

「東からの斉軍。こう族の三百が突出し、渭水に入ったとのこと」

 と汗を飛ばして報せに来た者に、わざとゆったりと、

「そうか。ご苦労であったな。そんなに汗をかいて、喉が渇いただろう。水と塩を持たせるから、そこで少し待ちなさい」

 などと言う姿を周囲に見せている。


「お待たせしました」

 しばらくして使いの者に差し出す水と塩を持ってきたのは、なんと妲己だった。

「これは、夫人。なぜ、小物にさせぬのです」

「たまたま、周りに誰もいなかったもので。聞太師の大きな声が聞こえたものですから、つい」

 肩をすくめ、舌をちらりと見せる様は、娘であった頃と何も変わらない。しかし、このところ、さらに色気が増している。なにか、鬼神(もののけ、と訓ずれば聞仲の心象が理解しやすいであろう)でも憑いたかと思うほどに、である。

「そうでしたか。いや、わざわざ、足を汚されることはなかったのだが。助かりました」

「わたしに、剣は取れません。せめて、少しでもお役に立てるなら」

 そのあまりの美しさに水を受け取るのも忘れている使者に笑いかけて去ってゆこうとする妲己を、聞仲は呼び止めた。

「紂王さまは、今?」

「外を、眺めておいでです」

 紂王は、相変わらず精力的に軍事のことをしている。内政のことも周囲の意見をよく聞き、かつてのような有様とは真逆の賢王となった。

 しかし、痩せている。この王朝が始まって以来の大事が目の前で燃え盛っているのだから、無理はない。


 ——果たして、それだけであろうか。

 聞仲は、たまに執務のない夜に帰る我が家で、老いた妻にそう問うたことがある。

「王さまは、国のことを誰よりも考えておいでなのですね」

 と、妻は単純に紂王を讃えるようなことを言っていたが、聞仲はそうは思わない。

 考えようとしている。しかし、この数年ほどの間に俄かにはじめて思考できるほど、国のことは軽くはない。ゆえに心労が重なっているのだろうが、それ以外に、感じるところがある。


 ——妲己どのは、もしかすると、紂王さまよりもさらに深く、ものを考えておいでなのではないか。

 もちろん、聞仲の妻は妲己と言葉を交わしたこともない。このようなこと聞くだけ無駄であるが、それでも、妻に言葉を発し、妻がなにかを返してくるという中で自分の思考が進むということがある。

「紂王さまと比べてどちらが、とは申せません。しかし、妲己さまもまた、たくさんのことを考えておいでなのでしょう」

 もう、二十年も三十年も交合をしていない。それでも、家で眠るときは同じしとねに入り、妻の下腹や腿に手をあてる。癖のようなものだが、そうしていると安らぐのだ。その聞仲の指が、ぴくりと動いた。思っていた返答と、違ったのである。

「どういうことだ」

「妲己さまは、周の出でおいででしょう。自分の故地と今の住む国とが戦うとなると、ふつう考えないことまで思いが至るものです」

「たとえば、どういう」

 妻は、くすくすと笑った。聞仲がむきになって何かを訊いてくるのが、珍しくて嬉しいらしい。

「さあ。でも、わたしなら、たとえば、どうすればふたつの国が戦いをやめるか、と考えるでしょう」

 なるほど、妲己はおそらくそのことを考え、胸を痛めていたに違いない。彼女の言うとおり、剣を取れぬ女である彼女はただ傍観するしかできないのだ。だが、ただの女でもない。

「どうしても、戦いが止まぬと知ったら、お前ならばどうする」

「周の故地と商、どちらかより愛おしい方と、いのちを共にいたします」

 聞仲が上体を起こしたので、妻が不思議そうに顔を覗き込んでくる。

「そしてお前が、勝ってほしい方に勝ってもらうため、自在に王に言葉を投げかけられる場にいたならば」

「——ええ、それはもう、思うぞんぶん紂王さまを励ますことでしょうね」

 もし、商ではなく周が勝つということを妲己が願っていたとしたら。

 それは、妻には問わなかった。夜毎、紂王の耳元で商がいかに苦戦しているか、周がどれほどの勢いでもって進撃しているか囁き続ける妲己の姿を想像したからだ。


 だとしたら、妲己は、どこから情報を得ているのか。もちろん、表のことは奥の女どもの噂の的としては最適な娯楽ではある。しかし、噂ばかりで何も知らぬ女の言うことを、紂王がいちいち容れるはずもない。

 前提が、そもそもおかしいのかもしれないとは思う。しかし、聞仲は、どうしても、妲己がなんらかの方法で鮮度の高い情報——という彼らにとってのあたらしい価値——を得ていて、それを巧みに加工し、紂王に吹き込んでいるという思考を拭えなかった。


 さらに、思考は旋回を続ける。

 そうすると、また別の不自然さが生じる。仮に妲己が周の勝利を願うなら、もっと簡単に紂王の心を蝕み、壊すだろう。そういう方法など、いくらでもある。そして、おそらく、紂王は、そちらの方面には打たれ弱い。

 紂王は日々、かつてなかった強い光を瞳にたたえて執務にあたっている。時々、火が消えたように庭を眺めたり、そこに建てられている祭祀の祠にこもったきり出てこなくなったりする以外は、商国の王たるに相応しい器を持つに至ったと思っている。

 紂王は、妲己を心から愛している。正妻もこれまで存在したどのつまも、これほど愛されたことなどない。周のことは忘れ商人しょうひととして生きるのだと思い定めた妲己の願いを叶える。そのために紂王は奮起していると考える方が、よほど説明が簡単である。


 この胸騒ぎが、ただの思い過ごしてあればよい。老いているのだ。若いときに較べれば、頭も鈍くなろう。

 聞仲は、自分が若かった頃に教えを授かったあらゆる年長者が、老いれば老いるほど、身体の衰えと引き換えるようにして研ぎ澄まされた思考を持ってゆくことは頭の端に追いやり、ひとまずこの答えのない疑念への問答を区切った。

 そのときには、外が白んでいた。


「ゆく」

 安らかな寝息を立てる妻の体を静かに揺すり、そう告げた。妻はすぐに起きて身を整え、聞仲を送り出した。

「どうぞ、お気をつけて」

 婚姻したときから何も変わらぬ、いつもの言葉。家に心を残さぬようにと気を強く張り、自らの不安を塗り潰して夫を送る笑顔。

 戦場で振るう槍のほか、これこそが、己を助けてきた。聞仲は、そう思っている。


 誰にでも妻がいて、子がいて、親がいる。国とは、今自分が見ているこれをこそ守るものなのだ。

 それだけでよい。

 今日もまた、鹿台に向かう。今日は、聞仲自身も忙しくなる。出戦の指示を、自らするつもりだ。

 東から渭水に至ったという勾族、三百。東の大国である斉の意を受けている。

 それを、この地上から消し去る。

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