奇策の一
聞仲が直接動員できる兵力は、四千。朝歌に参集していたり近隣にある豪族などを合わせれば、二万というところであろう。
だが、今回は、麾下の四千も、全ては連れてゆかない。精鋭の七百のみで、突出している勾族を迎え撃つ。
「勾方どもめ」
と、害ある異民族であることを示す語を用い、聞仲は黄河沿いに進軍する兵に語りかける。
「勢いづいたはよいが、西にゆけばゆくほどに自らを死地に追いやることになるとは思わぬようだな」
この天下最強の老雄が馬の曳く車の上、余裕を見せて笑う様を見て、兵はなお士気を高めるだろう。
勾族は、遥か東は斉の海沿いに拠点を持ち、河口や海の魚を採ることを主にする民族である。荒い波で鍛えた身体は小山ほどもあると言われ、波を日頃から見て船を操っているから判断も鋭い。彼らにしてみれば、三百の兵を載せた小型の快速船団で黄河を遡上するのは児戯のように易いらしく、ほとんど抵抗を受けることなく黄河を遡り、もう朝歌まで五日というところまでやってきている。
それだけ船の扱いが上手いということであるが、ほかに事情もある。
「しかし、わざわざこれほど近くにまで引き込むとは」
長く聞仲に従う副官の
「妙だと感じるか、郭戴」
「ええ。聞超様も、わざわざ引き込まず、黄河沿いの邑の兵を出して討てばよいものをと仰せでした」
「あやつめ。よい歳になっても、まだ目が開かぬものよな」
長子の聞超も、もう五十になるだろう。いちおうこの軍の大将に据えているが、孫の聞韋の方が冷静で出来がいい。
自分が積み重ねたものは、自分だけのもの。父であるからといって、それがそのまま子に受け継がれるわけではない。そのことに、もうすこし早く気付いていれば。このところ、聞超に対してはそう思う。そのぶん、孫の聞韋には、聞超にしてやれなかった分まで薫陶を授けてきた。彼自身の性格も謙虚で、よく学んだ。
それでも、自分と比べれば、どうか。これほど老いてもまだ、聞韋よりも自分の方が遥かに優れている。
聞超や聞韋が、自分より劣っているからではない。彼らに、自分が見て、感じてきたことを伝えてやれない、自分が劣っているのだ。だから、今、郭戴に口では聞超はいつまでも目が開かない、などと言ってみても、本心からではない。たぶん、郭戴もそのことは分かっているだろう。
「あの肝の小さな大将に、耳打ちしてやれ。我ら七百のうち、五十もあれば討てると」
「六倍する敵を、ですか」
「まあ、見ておれ。俺は、勾方どもが出てきたと聞いたとき、黄河沿いの邑に、そのことをあえて遅れて伝えるように使者に命じたのだ」
「ほんとうですか。はじめて聞きましたが」
「わざわざ、言わなかっただけだ」
三百の勾族は、自分たちの勢いに誰も付いて来れないと考えている。斉の勢力下にありながら突出しているのも、そのためだ。海で鍛えたこの船が、
それを叩く。五十の兵で、徹底的に。逃げ帰るには黄河の流れに乗ればいいから、勾族の者どもが戦いに見切りを付けるのは早いだろう。
そのときには、報せを受けて準備を終えた黄河沿いの邑々の豪族どもが、一斉に船を浮かべている。すぐに報せたのでは、彼らはばらばらに河に出る。船同士での戦いとなったとき、勾族は圧倒的に有利である。各個撃破の危険性を排除するため、あえて報せを遅れさせたのだ。
聞仲軍は下り、勾族は遡る。二日後には、ふたつの軍は重なる位置になった。
そのとき、勾族の船の先頭をゆくものから、合図の旗が上がった。視認したほかの船が、楔形に展開する。水の上なのに、見事なものである。よく見れば、船団の進路を横切るように、よろよろと一艘の漁舟が波を縫っている。
先頭の船の一人が、大声を上げる。
「邪魔だ、そこの漁師。進路を譲らねば、火矢を射掛けるぞ」
ちょうど、傾きを見せる陽が、崖になってせり出した岸にかかろうとしている。それにすら怯えるように、漁舟の上の漁師は身を縮めた。
「お許しくだされ。どちらの軍勢かは存じませぬが、ここのほか、漁をするところもなく」
「漁など、どこでもできるわ。いいから、どけ」
ふらふらと、波に追われるようにして漁舟が近付く。寄せるというほどでもないが、なんとなく誘われるように。そうすると、老いた漁師と、棹を操るその息子くらいの歳の逞しい男が乗っているだけであるのが分かったので、勾族の舟の者は緊張を解いた。
「このあたりは岸が崩れた岩が水の中にありましてな。この岩に、良い魚が付いているのです。邑のほかの者では棹を誤りますゆえ、我らでなくては」
勾族も、漁民である。老いた漁師の言うことは分かる。しかし、船団を邪魔されては困る。
「分かった、分かった。好きにすればよいが、我らが通り過ぎる間は、網を出すな。櫓に絡みでもすれば、本当にただでは済まさぬぞ」
「承りました。お詫びに、網の中のものを差し上げます。道中、召し上がってくだされ」
老いた漁師が、網をするすると上げてゆく。その体さばきは、見た目の年齢からは想像もつかぬほど力強いものであった。
「これに、立派な草魚が。どうぞ、お納めください」
上がった網にかかっていた草魚が暴れぬよう、
「なるほど、たしかに大物だ。ありがたく、もらっておくか」
勾族の者は手にしていた弓を下ろし、船を寄せるよう指示をした。
ふたつの舟が八の字を描くくらいになったとき、あっと声が上がった。
老人が、自らの舟の舳先から飛び、勾族の船に移ったのだ。
すかさず、若い方の男が手にしていた棹を投げ渡す。水面から顔を出したのは棹ではなく、なんと槍だった。
波の合間で跳ねる魚の鱗のように、それが陽光を返してちらりと光る。次の瞬間には、勾族の船の男の首が宙に飛んでいた。
何が起きたのか、おなじ船の者も理解できないらしい。皆、道端で竜がとぐろを巻いているのを見たかのように口を開け、固まっている。
さらに一閃。ふたつの首がまた飛び、櫓手だけが残った。そのときには、敵襲、という声がほかの船から上がり、一斉に矢が放たれる音がした。
老いた漁師はうろたえず、槍を握ったまま首のない屍を背負うようにし、飛んでくる矢を避ける盾にする。少しして矢が止むと、針鼠のようになったそれを捨て、足元に転がっている、大型の魚に打つための
唸りを上げて飛ぶ銛が、
「どうした、勾方どもめ。商太師が聞仲みずからが来てやったと言うのに、それで
商太師聞仲。その名がこの河面に轟いたとき、またあたりはふたたび静かになった。
「郭戴。弓を」
もともと乗っていた舟に声をかけると、棹を操る男に化けていた郭戴が、舟底に置いていた弓と矢筒を投げ渡す。
引き絞り、立て続けに三本。周囲の三艘が波に逆らうのをやめ、下流にさらわれてゆく。
聞仲は大声で笑い、さらに勾族を煽り立てる。
「さあ、漕げ」
生かしておいた勾族の櫓手にそう声をかけ、岸へと向かわせる。なるほど、速い。どうやら、船底が三角形をしているかららしい。商の舟はどれも船底が平らで、それがふつうであった。しかし、勾族は海の波を分けて進む必要に駆られるうち、こういう技法をいつしか編み出したのだろう。
いつでも、学びである。これは、軍船の改良に使える。そう思い、岸にせり出す崖の上に目をやる。背後からはいくつもの矢が死の唸りを上げて追ってきているが、聞仲は気にするふうもない。
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