死者を送る歌

 聞仲の船が岸に乗り付けるのを、勾族は黙って見ているわけにはいかない。半円を描くように展開し、盛んに矢を射かけている。

 郭戴が雄叫びを上げながら片腕でひとつずつ屍体を持ち上げ、盾にする。それにあたらなかった矢が水面を叩き、船体に突き刺さる凄まじい音を聴きながら、聞仲はさらに声を高くして笑う。

まつりの太鼓と同じではないか。勾の矢は、音が大きいだけで何の役にも立たぬものと見える」

 怒り狂った勾族は、さらに聞仲の船を追う。それが岸に近づき、流れの澱んでいるところに差し掛かったから、見る間に距離は詰まってゆく。

 そこで、聞仲が岸を覆うようにしてそり立つ崖に向かって槍を振り上げた。


 崖が、激しく鳴る。

 勾族の者どもが見上げると、崖から大小の岩が水面に向かって落とされていた。崖に近い位置を航行していた船の何隻かは直撃を受け、大破した。

 回避の運動を取ろうとしたところ、さらに天空から矢が振り注ぐ。こうなってはじめて、聞仲は自らの身を餌にして、この澱んだ流れの崖際に自分たちを誘い込んだのだということを知った。


 澱んだ流れの中で反転しようと思えば、船の運動はさらに鈍重になる。彼らは、その経験から、このような緊急のときには船を捨て、水に飛び込んだ方がよいことを知っていた。そういう、咄嗟の判断をしなければならないほど、この奇襲は驚きであった。

 だから、次々に水に飛び込んでゆく勾族の軍勢の者のうち、水面に異変があることに気付く者は少なかった。いや、いるにはいたが、その者らがあちこちで、

「待て。なにか、おかしい」

 と叫ぶときには、もう次の一手が打たれていた。


 聞仲。いつの間にか、岸に辿り着いている。

 また、槍を振り上げる。さきほどまで石や矢を降らせていた崖から、また弦の鳴る音。

 火矢。一本だけが、水面に降り落ちる。

 次の瞬間、ごうと凄まじい音と爆炎が巻き起こり、槍を振り上げた格好のまま河を見つめる聞仲の顔を橙に染める。

「なんと——」

 隣で、郭戴が唸っている。彼の瞳にも真っ赤に燃え上がる水面とその火に巻かれて叫びながら苦しむ勾族の者どもの姿が映り、聞仲の白くなった髪を靡かせるのと同じ惨劇の風が肌を叩いている。


「火に巻かれながら息をするとな」

 郭戴が、思い出したように聞仲の方を見る。

「胸の中が焼け爛れるのだ。そうすると、人とは、もう息などできたものではない」

 長く仕えているとはいえ聞仲に較べれば郭戴は若い。彼はこのとき、はじめて自分の主がどれほど凄絶な戦場を歩き、どれだけの異民族をこの地上から消し去ってきたのかをほんとうの意味で知った気がしたことだろう。

「聞仲さま。あれは——」

「獣脂だ。崖の者どもに命じ、ここにたんまりと流させておいた」

 なるほど、進発する際に、輜重に大量の脂を積んでいた。郭戴はてっきり野営の際に使うのだろう、そのわりには薪ばかりを使っているがおそらく戦費の節約のためだろう、くらいにしか思っていなかった。

 すべて、勾族が突出していて、その勢いが尋常ではないらしいという第一報に触れたときに。そのときに、聞仲は、この策戦を思い付き、それを具体的に実行するための準備をしたのだ。

 これが、中華最強の武人。自ら槍を振り回すだけでは、数人か数十人か。しかし、聞仲は、たった一本の火矢で数百の勾族をことごとく焼き殺し、この天地から消し去ろうとしている。


 水に入った者で、無事な者はいない。船に残っている者も、船体に燃え移った火に巻かれている。

 しばらく、人間の叫び声が崖を染めていた。しかし、しばらくすると、火の燃える音だけになり、なぜかそれを静かだと郭戴は感じた。あれほど火は盛っており、そのために何百もの人が死んだのに、なぜその火が静かなのか、考えても答えはない。


「さて。あちこちに、触れて回らせろ。盂炎の網は、まだ生きているな。それを使い、商にそれありと知られた聞仲軍、わずか五十にして七百の勾方を殲滅する、と全土に知らしめろ。勾方どもは、武器を手に渡り合う暇もなく、一人残らず焼け死んだと」

「はっ」

 身体が、硬直している。すぐにでも駆け出さなければならないところであるが、どうしても足が動かない。聞仲も、そういう様子の副官を、べつに咎めることはない。それどころか、河岸に腰をおろし、郭戴にも同じようにするよう薦めた。


聞超ぶんちょう聞韋ぶんいでは、このようなことはできなんだろうな」

 己の子や孫が、己ほどの軍才を持たぬのだといういつもの話題かと思ったが、違う。聞仲は、さらに言葉を継ぐ。

「俺でよかった。つくづく、そう思う。せぬ方がよいのだ、聞超や聞韋などは。火に巻かれた人がどうなるかなど、知らぬ方がずっとよい」

 腰掛ける聞仲の顔に、深いかげが浮かぶ。それは河面の火が強いからだけではない。

「あといくつ、方どもを滅ぼせばよいのか。果たして、斉や周なども、丸ごと潰すようなことになるのか。そうなったら、もはや、この天地にはふつうに生きて営んでゆける人などおらぬようになるだろうな」

 たしかに、嘆きであった。それに、悲しみ。これほどまでに深くそれらを浮かべながら、なお躊躇いなく一つのを皆殺しにできるのはなぜなのか、理解できる者は少ないだろう。


「よい草魚であったな」

 べつのことを言い出した。先ほど、たまたま網にかかっていたものである。自ら漁をしたことなどないから、ほんとうにただ運が良かっただけのものである。

「はっ」

「このあたりは、流れが緩やかになっている。そのぶん、深いところでは、きっと水は大きく動いているのだろう。草魚とは、そういう流れを睨むように頭を向け、己が身が流れの本筋に攫われぬようにしていると聞いたことがある」

 草魚の習性など、郭戴は知らない。また、はっ、とただ返事だけをした。

「身体が大きければ、流れに攫われてしまったら、もとの位置に戻ることができなくなる。身体が大きければ大きいほど、その身体を動かすのは大変なものなのだ」

 なにか、べつのことを言おうとしている。しかし、郭戴の眼にあるのは、草魚の棲む河ではなく、焼け死んだ人の屍や燃えてばらばらになった船の破片が散らばる惨劇の景色である。


「戦いが終われば、ゆっくりと釣りをして過ごすというのも悪くないかもしれんな」

 聞仲は、この景色が見えていないかのように、呑気なことを言う。

「聞けば、周の呂尚も、もともとは渭水で釣りをしていたところ、死んだ姫昌どのに声をかけられたとか」

「では、大師も」

 郭戴は、やっとまともな言葉を用いた。そうしないと、自分まであの火に飲まれてしまうような気がしたのだ。

「大師も、よき若者を見出し、声をかけられますか」

 聞仲は、きょとんとした顔をして郭戴を見た。しばらくして、

「ああ、そうであったな」

 と笑った。どうやら、声をかけられるのは自分の方だと今でも思っていたらしい。


 五十の軍勢が、崖から降りてきた。わずかな兵力で敵を殲滅したことを喜びながらであったが、いざ燃える河面とおなじ高さに立つと、その光景のあまりの凄まじさに誰もが言葉を失った。

 彼らを背にしても、聞仲はしばらくは河面を見つめるのをやめなかった。火が盛るかぎり、ごう、ごう、といつまでも風は吹き、老いた肌を強く打った。

 その音は、死した者を送るときに人が歌う歌に似ていた。

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