城と砦と蛇

「お前という男は、どこまでも計り知れぬ」

 一兵も損ずることなく斉の急先鋒を壊滅させた聞仲が凱旋するや、紂王は両手を挙げて迎えた。

「お前がいる限り、勝てそうな気がするぞ」

 紂王は喜んでいるが、それを聞いた聞仲の表情が曇る。

「それでは、私がおらねば負けるということになりますな」

 気弱になっている。いや、それはもともとか。しかし、どうしても、紂王のこのところの、微妙な変化が気になるのだ。


「妲己どのは」

 表にも気軽に顔を出す妲己は、このときはいない。

「まだ、眠っているだろう」

「そうですか。ところで」

 聞仲は兜を外しながら、世間話でもするように言った。

「まだ、お子はできませぬな」

「なんだ、急に」

「いえ、妲己どのがこちらに来られ、もう何年になりましょうか。そろそろお子ができてもおかしくないと、常々思っておったのです」

「なるほどな」

 紂王は、ばつが悪そうに視線を逸らした。それを、聞仲は見逃さない。

「どうも、あいつは、姜に遠慮をしているらしいのだ」

 逃れられぬと悟ったか、紂王からそのことを言い出した。


 妲己と紂王の仲の良さは天下のうちに知らぬ者はなく、紂王が寝所に呼んだり通ったりする相手はもはや妲己のみである。しかし、紂王にはすでに正妻との間に複数の子がおり、自分と紂王との間に子ができたら、いずれそれが争いの種になりはせぬかと考えているらしい。だから、紂王が精を放つときには、かならず子が宿らぬようにする。

「子など、あたらしく得ずとも、わたしは、紂王さまとともにいられれば、それで」

 と言われれば、紂王も、お前との子が欲しい、とは言えない。


「そういう具合でありましたか」

 聞仲は、目尻の皺を深くした。

 争いの種になることを恐れて子を持たぬようにしているということは、妲己は、商の王朝が次代に継がれたあとのことを考えているということになる。やはり、自分の取り越し苦労であったか、と聞仲は安堵したが、戦場での経験から、はたと思い留まった。

 戦場において自分に都合の悪い状況に置かれているとき、そうではないという報せに触れれば、そうに違いないと信じたくなるものである。それと同じであったら、とこの用心深い老人は思う。

「なんにせよ、確かなことではない」

 知らず、口に出していた。

「まあ、そうだが。もしそうなったら、我が子のみならず商のすべてにとって禍いとなる、とあいつは考えているのだろう」

 紂王は、話の続きだと思ったらしく、苦笑しながらそう継いだ。


「私のある限り、商は揺るがせません。私が次郎となり砦となり、あらゆる災禍を退けます」

 心配症の老人の声が、天下第一の国家の柱石のそれになる。紂王は微笑んで頷き、

「俺はこれまで、この世の全ての宝を手にしてきた。しかし、お前と妲己がここにいることこそ、宝なのだと。そう思うぞ」

 と言った。



 斉の目論見は、外れた。急先鋒として突出した一部の豪族を、あえて好きにさせたのは、それが楔になると踏んだからであるが、それが聞仲によって見事に阻まれた。

 このあと、どう出るか。本国をすべて空っぽにする勢いで攻めなければ、この朝歌は破れない。だが、それには、東からの斉を中心とした攻めだけではあまりに弱い。やはり、西の周と足並みを揃えなければならない。かならず、同時にやって来るはずだ。

 周は今、朝歌から遠くない江邑にまで進軍している。盂炎の離反が、響いている。それがなければ、ここまで接近してくることはあり得なかった。


 城を火で責めるでもない。砦に矢を射掛けるでもない。

 盂炎という、あらゆる豪族の中で最大の力を持つ者そのものを、崩してきたのだ。

 朝歌においては、盂炎の長子が何者かによって殺されている。宮廷内の揉め事ということになっているが、ほんとうは誰が何のために殺したのか分からぬままなのだ。間違いなく、周が盂炎を引き込むために刺客を放ったものであろう。


 恐れるべきは、盂炎が叛いたことにより、各地の豪族が一斉に周に付くことである。それを封殺するため、聞仲は今回自ら出戦し、ひとつの部族を消滅させた。

 若い頃ならいざしらず、ここに来てこれほどまでに苛烈な仕置きをすることがあるとは思っていなかったが、それをせざるを得ないほど、盂炎背叛の衝撃は大きいのだ。


「どうなる」

 足慣れた朝歌の街路を、軍装のまま兜を抱えて歩く。

「どうなる、とは」

 護衛を兼ねて傍らを歩く郭戴が、聞き返してくる。

「いや、なんでもない。どうなる、とは無知の言。俺が発すべきは、どうするか、ということのみだ」

 郭戴は何も言わず、はっ、と頭を下げた。

「郭戴。蚩尤しゆうの者どもは、今どうしている」

「今は、どこかに潜り込んだりすることなく、彼らのために与えたにおります」

「そうか」

「なにか、お命じになりますか」


 周の、情報の網。それを潰さなければならない。聞仲は、盂炎の一件以来、強くそう思っている。

 盂炎がそうであったように、かならず、その元締めがいる。蛇に例えるなら、頭である。それを潰す。

 そして、尾も。頭が考え、命じ、獲物を巻き取り、締め殺す強靭な尾も、断ち切らなければならない。朝歌の宮に入り込み、盂炎の長子を殺すほどの者が、周にはいる。商に属するあらゆる刺客の中で、そのようなことができる者など一人もいないだろう。


 頭と尾。それを、同時に。

 いくら戦で勝っても、あの蛇を許している限り、かならず思わぬところが崩される。

 人とは、城であり、砦。そう心から思う。そして、城や砦を陥とすのは、かならずしも火や矢ではない。そう、聞仲は周のやり口から学んだ。


 自分は、どうか。

 何をどうしたとしても、蛇にはなれない。どこまでいっても、自分は城であり、砦なのだ。

 どこまでやれるか。はじめ、毛虫でしかないと思っていた周が、いつの間にか黄河に等しいほどに大きな蛇になってしまった。城という人の造ったものがどれほどに強固で巨大であっても、ひとたび黄河が荒ぶってそれを呑み込んでしまえば、あとには何も残らない。そういう体験を、彼らの先人は何度も繰り返してきた。


「槍を」

 郭戴が、聞仲の抱える槍を、自然に取り上げた。戦場においてはそうは感じないが、こうしてものを考えながら歩くときに携えるには、重すぎるのだ。

 老いている。また、そう感じた。

 そのことは口には出さず、今まとめた思考に基づいて、蚩尤を用いる具体的な策について、郭戴に指示を与えた。


「盂炎どのの長子を殺めたのもまた、蚩尤だと」

「間違いない」

「なるほど——」

 聞仲の策を受けた郭戴は、感嘆の唸りを上げた。

「それならば、頭と尾、どちらも潰すことができるやもしれませんな」

「ああ。もしかすると、これからの戦は、もはや武などではないのかもしれんな」

「いいえ、戦自体を、無くすのです。いつも、そう仰せではないですか」

「そうであったな」


 門のところで、郭戴は槍と兜を聞仲に返した。いつの間にか、兜まで預けてしまっていた。

 門の内には、妻がいる。おそらく、物音を聞いて、自分が帰ってきたものと心を躍らせているだろう。

 安らぎの場があることを、恥じることはない。むしろ、誇らしいと思う。

 ここは、城でも砦でもない。だが、間違いなく、聞仲を支え、護る場所である。

 それをまた、己が護る。そのためなら、戦える。どれほど老いようとも、たとえ身が朽ちて骨になろうとも。その欠片の一つになってでも、戦える。


「お勤め、ご苦労様でありました。ご無事で、嬉しく思います」

 門を開くやいなや、小物や使用人よりも早く、妻が迎えに出ていた。

「ただいま戻った。なに、大した戦ではなかったわい」

 聞仲は笑って、自らの屋敷の敷地に足を踏み入れる。妻が兜を受け取ろうと袖を差し出してきたが、聞仲は小脇に抱えたままそれを渡すことはなかった。もちろん、大刃の槍も、軽々と間口に立てかけて見せるのも忘れない。

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