左手の剣

 商は、やはり凄まじい。聞仲がわずか五十の兵で、船を得意とする勾族を水戦において皆殺しにしたという報せは、全土に走っている。


 もちろん、周などはその情報を最も早く受けたであろう。

 聞仲のことに久々に目を当てたところであるが、周においてそのことを受けた李靖のことにも触れておきたい。

「なるほど——今なお衰えず、か」

 話す相手は、申公豹である。彼は、戦場における聞仲軍の行動を、かなり詳細に報せてきた。

「ええ、あれを老人と呼ぶなら、それはすなわち戦いの負けに繋がりましょうとも」

 いつまで経っても、李靖には、申公豹が幾つなのかが分からない。呂尚に彼を引き合わせたのは李靖であるが、そのときから何年経ったのかもうまく思い出せない。

 どうであれ、申公豹の見た目も声も、昔と何も変わらない。そして、聞仲の強さも、商の強大さも。今なお衰えず、と李靖が言ったのは、聞仲自身のことでもありながら、どちらかといえば商について思うところの方が大きい。


「なにしろ、商の聞太師は、この天地の中でもいち早く、おそらく呂尚どのの次くらいには、情報というものの重要さに気付かれたわけですからな」

「その情報を使い、商と自分の勢いを見せつけることで離反を防ぐ、というわけだな」

「ええ、そうでしょうなあ。李靖どのが丹精こめて育てておられる黄尾の者の働きも、しづらくなるのでは」

 李靖は、やや目を細めた。黄尾のことは申公豹には伝えていないが、やはり細かな知識を持っている。そう思った。

「妙な形になってきた。表の戦いと、裏の戦いがあるようだ」

「そうですなあ。裏の戦いに勝ちさえすれば、おのずと、表の方でも勝つのかもしれませんな」


 そういえば、暑い。冬はめっぽう寒いこの豊邑でも、夏の日中は汗が流れるほどに暑い。李靖は額をひとつ拭ったが、申公豹は西の出らしく、平然としている。

 表の戦い。剣を佩きはするが、戦場において自分が何かの役に立つとは思えない。だが、彼らが用いる武具を造ることなら、誰にも劣らない。そう確信している。そして、今はもう自分が鍛冶場に出なくとも、配下の者や黄尾の者が、自分が造るのと同じ強さのあかがねを造っている。


 幼い頃から、そうであった。近所の子供が棒切れ遊びに興じる中、李靖だけはどういう棒が折れにくく、強いかというようなことを調べることに熱中していた。それは糧を得るために釣りをするときに用いる竿の強さを知ることにもなり、さらに長じる頃、父から鍛治の技を伝授されたあとは、人が畑を耕す道具に取り付ける金具を強くすることに熱中した。


 強い銅は、より深く土を耕す。そうすれば、人は楽に、より多くのものを得ることができる。祖父などはかつて商の朝歌において、文字の彫られた祭器を造ることをしていたが、自分はもっと、直接的に人の役に立つものを作っていたいと思っていた。

 しかし、あるとき、商の使いの者がやってきて、父に出仕を命じた。父は、自分がおらねば申の人が困ると言ってそれを拒んだが、自分達がずっと慣れ親しんできたはずの銅でできた剣を突き付けられて無理やり連れてゆかれ、戻ることはなかった。

 あとで聞けば、父が紂王に命じられて鹿台の完成の際に造った祭器に、よからぬ言葉を鋳込んだのだという。そのために紂王の怒りを買い、父は焼けた銅の柱に括り付けられ、目からも口からも火を吹き出しながら焼け死んだ。


 あのまま生きていれば、父はもっと人のためになるものを造った。それを、役に立たぬものを造るために無理やり連れて行き、殺すなど。

 だから、呂尚の求めに応じた。

 そのときは、まさかこれほどまでに自分達が周の中核に存在するようになるとは思わなかった。だが、自分がずっと心に思ってきたものに呂尚が名前と形を与えてくれたような気がして、嬉しかった。

 呂尚は、どうかしているとしか思えないほどに頭がいい。それだけに、気を擦り減らすことも多い。自分は哪吒のように勇敢でもなく楊戩のように理知ある振る舞いはできず、なにより二人のように上手く武器を使って人を殺したりはできない。

 だから自分にしかできないことをしたいと思って、それだけでここまで来た。そう思っている。


「周がひとつ商よりも優れているとすれば、それは、裏の戦いに長けていることでしょうな」

 自分たちに必要なものを揃えるように、目の前でからからと笑うのこの浅黒い肌の男を引き入れた。それが正しかったのかどうかは、分からない。だが、必要であったのだ。

「李靖どのがおられる。周にとっては、それが何よりの剣になり、槍になる」

 嫌なことを言う、と思った。そう言われて嬉しくないわけではないが、なにか胸の中を覗かれているように感じる。

「前王さまのことも、ね」

「申公豹」

 李靖の目が、いきなり光った。

「言うな」

「なぜ。私とあなたしか、ここにはいないのに」

「呂尚どのすら、知らぬのだ」

「ええ。でも、私は知っている」

 申公豹は、変わらぬ様子でからからと笑っている。

「——お前は、周に何を求める」

 李靖の声の調子は、申公豹のそれとはまるで違う。


「周に。そうですなあ。人を、これまで至ったことのないところまで、連れていってもらいたいものですなあ」

「どういうことだ」

「ものの例えです」

 やはり、暑い。李靖は、少し衣の襟をくつろげた。

「では、申公豹。お前は、商には何を望む。はじめ、商に入るのは嫌だとあれほど言っていた。そのはずが、今ではお前が商のことに誰よりも詳しい。詳しいどころか、これから何が起きるのかすらも、お前は知っているな」

 黄飛の娘のことや、盂炎の息子のことを言っている。

「まさか、私が手にかけたとでも?嫌だなあ、李靖どの」

 ひらひらと振る手が、なにかとても歪んだもののように見えた。

「前王の姫昌さまのことは、誰にも言いませんよ。だから、ね。おたがい、この話はここまでにしましょう」

 独特の形の剣を、鞘のまま右手に握った。左手ではふつう抜かぬから、斬りかかるつもりはなく、ただ去ろうとして立っただけである。それでも、李靖には、黒っぽい風が自分に向かって吹くように感じられた。

 西の風とは、どれもこうなのか。そんなことを、思った。思えば、蚩尤というは、得体が知れなすぎる。人間とは思えぬ身体能力と、銅などとは全く別の未知の材質でできた武器。申公豹の剣が傷んだのを補修してやったのがそもそもの出会いであったが、そのとき、何度溶かした銅を流しても馴染まなかったのを覚えている。剣自体を柔らかくしようと熱しても赤くなるばかりでいっこうにそうならず、信じられないほどの炭を焚いてようやく少し柔らかくなり、それでやっと欠けたところに銅を馴染ませることができた。

 この剣が、何でできているのか。それすら分からない。だが、お互い、様々なことを知りすぎている。いつからか、そう思うようになっている。


「ただね、李靖どの」

 ふと思い出したかのような調子で、申公豹が足を止める。

「私には私の、思うことがある。だから、改めて言いますね。私のすることが、すべて周のためだと思わないことです」

「商のため、ということか」

「まさか。いやね、実際のところですけれどね、商も周も、どちらでもいいんですよ」

「まあ、お前はそうだろうな」

「人の生とは、旅のようなものです。珍しいものを見て、知らなかったことを知って、それではじめて人は生きていられるのです。私は、そういうものに、正直でいたい」

 申公豹の胸の内のことを、はじめて聞いた。それくらい、自分のことを語らぬ男なのだ。きわめて珍しいことである。それば自分と打ち解けたからか。


 いや、違う。

「商のためではない。周のためでもない。呂尚どのは好きだが、呂尚どののためでもない」

「では——」

「私自身のためです。それと、妲己どの」

「妲己どの?」

 意外な名が出た。妲己の様子を周に報せたりはしてくれていたが、実際にどれくらいの接触を持っているのかまでは知らないのだ。

「ええ。私のしようとすることは、妲己どのが思うことに、不思議と近いことが多くてね。妲己どのは、いろいろなことを知りたがられます。ですから、私は、お側にそっと近付いて、さまざまなことをお報せしているのです」

「妲己どのは、何を望んでおいでなのだ。周にいつ戻れるか、ということではないのか」

「いいえ」

 どういうことか、わけが分からない。戸惑う申公豹に、忠告するような色の声が降りかかる。

「妲己どのはね、周に戻れるなんて、これっぽっちも思っておられませんよ」

「なんだと。では、何を」

「そのうち、分かるかもしれませんね」


 いたずらをする子供のように笑う。なぜか、腹が立つ。さらに、申公豹は小声で続ける。

「姫昌さまは病などではない。あなたが、薬だと言って少しずつあの毒をお渡しになったから、亡くなったのだ。それを、妲己どのも、もちろんご存知ありませんから。ご安心を」

 李靖の顔色が、青暗くなった。

「その毒を持ち込んだのは、お前ではないか、申公豹」

「ええ。でも、実際に姫昌さまにお渡しになったのは、あなただ。それも、何度も、何度も。亡くなられるまで、繰り返し」

「呂尚どのに、さらに力を集めなければならない。そのためには、すでに人心の厚く、温和な姫昌さまでは駄目だ。一気に、機運を戦いに持ち込まなければならない。だから、姫発さまが王となり、反商の色を一息に濃くしなければならなかった」

「そうでしたっけ。そういえば、なにか、姫昌さまの死すらも、商が仕組んだことのような風潮になっていましたなあ」

 実際、直接的に反商の戦いのきっかけは、姫昌の死だっただろう。それがなければ、いつまでも周は反商の旗を掲げているだけの不穏な国からは抜け出せなかった。

 その策を耳打ちしたのは、ほかならぬ申公豹である。李靖は、はじめ、どうかしている、と思ったが、考えに考え抜いて、ほかに手はないと思うに至った。


「やっぱり、あなたはどうかしていますよ、李靖どの。私のことだけを、笑ってはいれませんね」

 では、と申公豹は今度こそ踵を返した。それを、さらに呼び止める。

「ひとつ聞く」

「——はい、どうぞ」

「盂炎の息子を殺したのは、お前だな」

「さあ、どうなんでしょうか」

「盂炎の妻とも、親しくしていたな」

「おや、どうしてそれを」

「申にゆくたびに、盂炎の家に立ち寄る。そのたび、妻は喜んでお前を迎えたそうではないか」

「驚いた。黄尾の者というのは、私の思う以上のものらしい」

 あらためてこちらを向き直った申公豹に、李靖の鋭い目が刺さる。

「はじめから、こうするつもりであったな。近付いても警戒されぬよう。そのうえでお前は盂炎の妻を犯しつくし、腹を切り裂き、殺した」

「——そうだったとしたら、そのおかげで盂炎どのは周に降りましたね」

「周のためになったからよい、と言いたいのだな。だか、違う」

「おや、何が違うのです」

「申公豹」


 李靖が、申公豹と同じ高さにまで立ち上がり、ようやく目を合わせた。

「お前は、やはり、人ではない」

「それは、お互い様ですね」

「人が人として生きることのできる世のために。そのためには、時には俺たちのような、人でなくなってしまったものの手がいることがあるのだろう」

「それは、同感かもしれませんね」

「だが、お前には、人の心がない。盂炎の妻のことで、俺はそう確信した」

「おやおや、ずいぶんな言い草ではないですか」

 いっそう、申公豹の声から色が薄れる。

「はじめから、こうなると思っていただろう。だから、己の胸の内を語るようなことをしたのだろう」

 申公豹は困ったように笑い、肩をすくめるだけである。それに対し、李靖の暗く沈んだ声が重なる。

「申公豹。お前を、生かしてはおけない。人の世に、お前はあってはならぬものなのだ」

 申公豹は、右手で鞘を握っている。しかし、李靖は、若かりし頃に自ら造った剣の鞘を、左に握っていた。

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